桜草樹家の長女⑥
翌日。一華のクラスの授業が少し延長したため、小野が一華の教室まで訪ねてきてくれた。昨日一華に話しかけるときに隣にいた、川井、という子も一緒だった。
「わざわざ来てもらってごめんなさい」
「気にしないでください。こうしてお話しできるだけで嬉しいですから」
そう言って、小野は本当に嬉しそうに笑った。
「お昼、どこで食べますか」
「今日、天気がいいから、中庭とかはどうですか?」
小野の言葉に対して、川井がそう提案した。一華はそれに「いいわね」と頷いた。
「あの、でも」
小野が申し訳なさそうに口を開いた。
「私からお誘いしておいてこんなこと言うのもおかしいかもしれませんけど、お昼、本当にご一緒しても良かったんですか。いつも、お昼休みは図書館で勉強されているのに」
「気にしないで。私だって、誘っていただいてとても嬉しいのよ」
一華は笑顔で答えた。確かに勉強時間は減ってしまうけれど、こうして一華とお昼を食べたいと誘ってくれているのだから、そちらの方がずっと大切だし、優先されるべきだ。
その答えに、小野はほっとした顔をした。そして、照れたように笑った。
「嬉しいです。頑張ってよかった」
思わず漏れてしまったというようなその言葉に、一華も照れくさくなって、ごまかすように笑った。
「そんな、大袈裟よ」
「大袈裟じゃないですよ」
川井がにこりと笑って言った。
「この子、前からずっとお話してみたい、できることなら仲良くなりたいって言っていたんですよ」
「ちょっと、川井さんっ」
顔をパッと赤くして、小野は川井の腕を引いた。その反応が可愛くて、一華は川井と顔を見合わせて笑った。
そのときふと、一華の耳が、どこかから聞こえてきた低い声を拾った。
「――何あれ、どういうこと?」
何かあったのだろうか、と声の聞こえた方を振り返ろうとしたところで、咄嗟に思いとどまる。嫌な予感がした。
「私たちがあんなにお願いしても全部断ってたのに、何であの子たち、桜草樹さんと一緒にいるの?」
「あの子たちが桜草樹さんと一緒にいたところ、一回も見たことないけど、元から仲良かったの?」
「私たちと同じ、中等部から入った子だよね。いいところの子なの?」
「どういう手を使ったんだろう」
一華はすぐさま隣を歩く小野たちに視線を向けた。隠す努力を全くしていない声は、さすがに二人にも聞こえてしまっていたらしい。二人とも、表情を硬くして顔を伏せていた。
「……」
あからさまに黙ってしまった二人の歩調が遅くなる。一華はそれを確認して、すかさず二人に笑いかけた。
「どうしたの、二人とも」
二人が、虚を突かれたように顔を上げて一華を見た。一華はさらに、何でもない風を装って微笑んだ。
「行きましょう。休み時間が終わってしまうわ」
「で、でも……」
「いいから」
静かにそう言うと、二人の表情が微かに引き締まった。
「――あ、すみません。少し寝不足で、ぼーっとしちゃってました」
川井が、若干大袈裟に感じるほど気の抜けた声で言った。
「小野さんも、授業中うとうとしてたもんね」
「え、それは……」
小野も、表情がまだ硬いままだったけれど、川井の言葉に対してはにかんだ。
「ちょっと寝不足で……」
「一華さんと仲良くなれたことが嬉しすぎて?」
「だから、それはっ」
小野は、再び慌てた様子でそう言った。歩くペースも、自然と元に戻っている。それを確認して、一華は内心ほっとする。
気にしてはいけない。
一華は、なおも背中に刺さる視線に対し、気にしていない素振りを続ける。こういったことは、この学校では珍しくない。中等部からの外部入学の生徒が、というわけではなく、以前からずっと存在している空気だ。囁かれる言葉を気にして、弱いところを見せてしまえば、途端に過激化する。だから、気にしていない、という態度を示すことが大切だ。
一華に断られた生徒たちの不満の矛先が二人に向きかけているのは、良くない状況だ。でも、そんなものは理不尽だとしか言いようがない。一華を追い回してしつこく近づいてきておいて、受け入れられなかった不満をこの二人にぶつけるのは、随分と身勝手だ。彼らと二人は違う。一華にだって、仲良くする相手を選ぶ権利くらいあるはずだ。
それに、彼女たちはきっと、これ以上のことをしてきたりはしないだろう。彼女たちの目に余る行動は、今まで何度も他の生徒に目撃されている。偶然通りかかった先生に注意されていたこともあった。既に印象が悪くなっているから、これ以上のことをすれば、自分たちの家の評判を落とすことにもなりかねない。
そして何より、相手は桜草樹家だ。その長女である一華の友人に手を出すなんてことは、彼女たちにとってリスクが大きいはずだ。
大丈夫、心配ない。何かあれば、自分が二人を守ればいい。
楽観的だとも感じたけれど、一華は疑うことなくそう思った。
小野たちと友達になってから、数週間ほど経った。
あれから毎日、昼休みを一緒に過ごしており、随分と仲が深くなったように思う。相変わらず小野は緊張している様子を見せてはいたけれど、初めと比べれば随分と打ち解けた雰囲気になった。
今まで機会のなかった、友達と楽しくおしゃべりをして過ごすという時間は、一華にとって本当に特別なものだった。習い事よりも友達との遊びを優先させていた二葉の気持ちが理解できて、許せてしまうほどに、その時間は輝いていた。
一華たちはいつも、お互いの教室に向かう途中の廊下で合流することが多かった。その日も同じように、小野たちの教室の方へ向かおうと、弁当を持って席を立とうとしたところだった。
「一華さま」
ふと、声をかけられる。見上げると、幼稚舎や初等部から在籍していて、家同士の交流もある生徒たちが数人、一華の席の周りに集まっていた。
「何かしら」
彼女たちが集まって一華に声をかけてくるなんて、何事だろうか。心当たりがなくて不思議に思いながら、一華はそう答えた。
彼女たちは、少し躊躇っているように目配せをすると、その中の一人が代表で口を開いた。
「一華さまは、今日もあの方たちのところへ行かれるの?」
「ええ、そうだけど……」
なぜそんなことを聞くのだろう。質問の意図が理解できないまま、発言した生徒を見つめると、彼女は表情を引き締めて言った。
「あの方たちと関わるのは、やめた方が良いわ」
「……え?」
普段の一華の口からは絶対に出ないであろう声が、口からこぼれた。内心それに焦りながら、一華は慌てていつも通り微笑んだ。
「どうして、突然そんなことを言うの? あの二人は私の大事な友人よ」
「……」
引き締めた表情を少しも緩めることなく、彼女はじっと一華を見ている。ふと目を向けると、集まった他の生徒たちも、皆同じ表情をしていた。その空気に、一華の気持ちが一瞬で警戒を纏った。
冗談でも、軽い牽制でもない。彼女たちは本気だ。
「あなたたちがそう思う理由を教えてもらってもいい?」
努めて表情を崩さないようにしながら、一華は尋ねた。彼女たちはそこで、再び目配せをすると、今度は先ほど発言したのと違う生徒が答えた。
「あの方たちは、一華さまの友人としてふさわしくありません」
「それは、家柄が、ということ?」
「ええ」
きっぱりと、彼女たちは頷いた。
「あの二人は、家柄が良いわけでもない、庶民の方々です。桜草樹家の長女である一華さまがお相手されるような方たちではありません。これ以上仲良くするのは、一華さまにとってよろしくないと思います」
「……そう」
一華は静かにそう言った。そして、精いっぱい穏やかに微笑んだ。
「前に外部入学の方たちと少し問題があったから、心配してくれているのかしら。ありがたいけれど、大丈夫よ。あの二人は、私が好きで仲良くしているだけだもの。家柄の良し悪しに関係なく、仲良くしたいと思う方を友人にしたって問題ないはずよ」
「――でもっ」
「ごめんなさい。私もう行くわね。ごきげんよう」
反論してきそうな言葉を強引に遮って、一華は席を立った。そのままさっさと教室を出る。
何なんだ。
いつもより大きめの歩幅で歩きながら、一華はキュッと唇をかんだ。
家柄の違いとか、友人としてふさわしくないだとか。
どうして急にそんなふうに一華に突っかかってくるのか。
一華が小野たちと仲良くなって以降、前まで一華を追いまわして何度も声をかけてきていた生徒たちから、一華たちが悪く言われているのは知っていた。けれどまさか、一華と長く交流している彼女たち側からも悪く見られているとは思わなかった。純粋に、裏切られた気分だった。
何なんだ、本当に。
一華や小野たちを批判する人たちの中で、一華ときちんと友達になろうとした人なんて一人もいなかった。唯一あの子たちだけが、一華のことを見てくれて、友達になってくれた。二人が一華と過ごしている現状に対して、それ以上の理由があるだろうか。それのどこに問題があって、どの部分に対して彼女らは文句を言うのだろうか。
周りの言うことなんて関係ない。友達になりたいと思った人と友達になって、悪いことなんて何もない。悪い理由なんて、何もない。
小野たちが、ちょうど彼女たちのクラスの教室から出てくるところが見えた。苛立っていた一華の感情が、二人をとらえた瞬間、スッと滑らかになる。
はやる気持ちを抑えて、一華は二人の方へ歩いていく。二人の目が一華に向きそうな気配を感じて、手を振ろうとしたところで、一華はふと、違和感を覚えた。
「あ、一華さん」
川井が、近づいてくる一華に気が付いた。すると、小野が気まずそうな顔をして、川井に隠れるように少し後ろに下がった。
「い、一華さん、こっちまで来ていただいてありがとうございます。でも今日は――」
「――小野さん」
一華と目を合わせず、俯いたままの小野の言葉を、一華は思わず遮った。名前を呼ばれて、彼女の肩がびくりと震える。川井の身体に半分隠れて見えない彼女の様子を、一華は調べるようにじっと見た。
「……小野さん、今日も運動着なの?」
昨日の昼も、小野は制服ではなく、体育の授業で使う運動着を来ていた。それについて一華が尋ねると、小野は登校中に転んで制服が汚れてしまったから着替えた、と笑って言っていたけれど。
今朝偶然小野を見かけたとき、彼女は制服を着ていた。それなのに、なぜまた運動着を着ているのだろうか。
それに。
若干湿っているように見える髪。
濡れて変色した、紺の靴下。
泥で汚れた靴。
「……」
小野も、そして川井も、黙ったまま俯いている。一華も、それ以上何も言うことができずに、ただじっと、二人を見つめた。
一華の後ろを、数人の生徒が通り過ぎていく。すれ違いざま、くすくすと笑う声が、小さく、しかしはっきりと一華の耳に届いた。
「あれはやりすぎだって」
「かわいそー」
一華は、振り返らずに目だけ向けて、自分の後ろを歩いて行った生徒のことを見た。今年の入学式から知っている、見覚えのある顔だった。




