桜草樹家の長女⑤
『――以上を持ちまして、新入生代表の挨拶とさせていただきます』
マイクを通した自分の声が、講堂に響き渡る。一華は、何度も練習した通りにお辞儀をすると、指の爪の先にまで皆の視線を感じながら、しっかりと姿勢を正してステージを降りた。
「ごきげんよう、桜草樹さん」
廊下を歩いていると、ふと先生から声をかけられた。
「ごきげんよう」
一華も挨拶を返すと、先生に対していつも通り会釈をした。
「さっきの入学式での新入生代表の挨拶、素晴らしかったわ」
「ありがとうございます」
一華は微笑んでお礼を言った。声をかけてきた先生は、初等部での児童会の活動で何度か顔を合わせたことのある先生だった。
「児童会長としての働きも素晴らしかったと、初等部の先生方は皆、口をそろえておっしゃっているわ。こうして中等部で会うことができて、とても嬉しく思っているの」
「身に余るお言葉ありがとうございます。これからご指導のほどよろしくお願いします」
一華が丁寧にお辞儀をすると、先生は嬉しそうに微笑んだ。
「また何かあったら声をかけてちょうだいね」
そう言うと先生は、優雅な動作で一華のもとを離れていった。その後ろ姿に、一華はそっと頭を下げた。
「ねえ、あの子」
顔を上げると同時に、囁くような誰かの声が聞こえた。
「すごい美人だね。思わず見とれちゃった」
「代表の挨拶してた子よね。初等部の会長だったんでしょ」
「すごいよね。確か、あの桜草樹家の方なんでしょ」
「え、桜草樹、って、あの桜草樹?」
「そう、長女なんだって」
「でも、お姉さんなんていたんだね」
恐ろしいほど耳に馴染んだ言葉。
「桜草樹家って、あの二人だけかと思ってた」
桜の花びらのように軽い声が、春のくすんだ空気に溶けて、一華の耳にまで届く。
窓の外の、薄桃色の花びらが貼りついた遠くの地面に少し目を向けた後、一華は軽く目を閉じた。
分かっている。
こうなることくらい。
「あの」
突然声をかけられる。驚いて見ると、一華の前に、いつの間にか何人かの生徒が集まっていた。
「急に声をかけてすみません。その、桜草樹さんって、二葉ちゃんと光くんのお姉さんなんですよね?」
「……ええ、そうよ」
初対面にしては不躾なその言葉に戸惑いつつ、一華は何でもないように笑って答えた。
「あの、私たち二人のことを応援していて、失礼なお願いだってわかっているんですけど、よければ二人のサインをもらってきてほしくて。お願いしてもいいですか?」
「えっと……」
そんなもの、一華が勝手に引き受けてしまうことはできない。さすがにサインを求められることは想定外だった。
廊下を通る他の生徒たちも、先ほどの言葉が聞こえていたのか、興味を示して立ち止まり始めた。あちこちから「二葉ちゃんたちのサイン?」という声も聞こえてくる。
これ以上事態が大きくなってしまうのは困る。早く対処しなければ、と一華は慌てて声を上げた。
「あの、ごめんなさい、そういうのは……」
「ちょっと、あなたたち」
次第に大きくなる騒ぎの中に割って入ったのは、一華もよく知っている、幼稚舎から在籍している生徒だった。
「そういうことは一華さまの迷惑になりますからお控えください」
厳しい口調で、彼女は注意した。
「で、でも……」
「おやめにならないなら、先生をお呼びしますわよ」
食い下がる生徒に、彼女はそう言い放った。さすがに先生を呼ばれてはまずいと判断したのか、集まっていた生徒たちは、納得のいかない表情をしつつも、一華の前から去っていった。
「ありがとう、助かったわ」
皆がいなくなったのを確認して、一華は騒ぎを止めてくれた生徒にお礼を言った。彼女はそれに、「お気になさらないで」と微笑んだ。
「本当に先生をお呼びすることがなくて良かったですわ。それにしても――」
彼女は、遠くへと移動した生徒たちの方をちらりと見て、少し難しい顔をした。
「外部入学の方たちは、マナーのなっていない方が多いのね。一華さまに突然あんなことを言うなんて」
「きっと、これから一緒に生活していけば大丈夫よ。今はきっと、入学したばかりの新しい環境で落ち着かないだけだわ」
一華が言うと、彼女は眉を少し下げて笑った。
「一華さまは、お優しいですね」
「そんなことないわ」
一華は首を横に振った。
「今だって、皆のことを思えば私が諫めるべきだったのに、何もできなかったもの。本当に助かったわ」
「いえ、そんな」
彼女はくすぐったそうに微笑んだ。
「でも、しばらくはこういうことが続くことも考えられますから、お気をつけてくださいね」
そう忠告して、彼女は「それではごきげんよう」と一華に会釈した。一華も彼女に「ごきげんよう」と返した。
忠告通り、同じようなことは中等部に上がってから一週間ほどは続いた。
仕方のないことだ。
今や二人は、それぞれの分野でプロレベルの実力を身に着けていて、二人ともにそれぞれ留学の誘いまで来ている状態だ。メディアにも常に大きく取り上げられていて、この国では彼らのことを知らない人の方が少ないのではないだろうか、と思うほどに有名だった。
だから、彼らの姉である、名前の知らない一生徒に対して、彼らに関することを要求するのは自然な流れで、仕方のないことなのだ。
だからといって、もし声をかけてきた生徒一人の要求を受け入れてしまえば、他の何十人にも同じ対応をしなければならなくなってしまうから、断る以外の選択肢はない。一華は、幾度となく繰り返される言葉に対して内心飽き飽きしながら、なるべく気分を害さないよう気を付けて、彼女らのお願いを断り続けた。
しばらく対応を続けて、さすがに皆諦めたのか、もう声をかけてくる人もいなくなった。そんな頃だった。
「――あの」
帰宅をしようと廊下を歩いていたところを、後ろから呼び止められる。振り返ると、そこには二人の生徒が立っていた。
一華のことをじっと見つめる二人はかなり緊張している様子だった。特に、一華に声をかけた方の子は、随分と硬い表情をしていて、若干震えているようにも見受けられた。
これまでに一華に話しかけてきた生徒の中にはいない顔だった。まだ続くのか、と思いながらも、一華は微笑んで「どうしたの?」と声をかけた。
「あ、あの」
絞り出すような声で、彼女は尋ねた。
「桜草樹、一華さん、ですよね」
「ええ、そうよ」
「あの、私、C組の小野って言います」
彼女は、俯きながら名乗った。今まで一華に声をかけてきた生徒の中で、しっかりと名乗った子はいなかったため、一華は少し驚いた。
「あの、えっと……」
一華に話しかけるのが怖いのだろうか。言い淀んだその先の言葉はなかなか出てこなかった。自分から言うのも気が乗らなかったけれど、今回は仕方がない、と一華は先に尋ねた。
「二葉と光のことかしら。それなら申し訳ないけれど――」
「いえ、違います」
意外にも、彼女は大きく首を横に振った。否定されるとは思っていなくて、一華は思わず「え?」と声を出してしまう。
「それなら、どうして……」
「私、その、一華さんとお話ししたいと思っていて」
「私?」
戸惑いを隠せないまま聞き返すと、小野は顔を真っ赤にしながら頷いた。
「一華さんは覚えていないかもしれませんけど、私、入学式の前に学校で迷っちゃって、困っていたときに、一華さんに声をかけていただいたんです」
そういえば、そんなこともあった。困っている様子だったから、声をかけて会場の場所を教えたのだった。しかし、代表の挨拶の前で緊張していたのもあって、そういう生徒がいたことは覚えていたけれど、その子の顔までは覚えていなかった。
「その後、式で堂々と新入生代表の挨拶をしているのを見て、すごくかっこいいなって思ったんです。それに、昼休みにも何度も図書館で勉強している姿をお見かけして、入学したばかりなのに、熱心に勉強していてすごいと思って」
彼女の言葉に、一華は驚く。確かに一華は、用事がない限り昼休みは図書館で勉強していたけれど、そんなふうに意識して見られているとは思わなかった。見られて困るわけではないけれど、自分が必死に勉強している姿を見られていたというのは、自分の弱いところを見られてしまったようで、少し恥ずかしかった。
「ずっとお話ししたいと思っていたんですけど、他の方たちがたくさん話しかけていたので、なかなか機会がなくて。ちょうど今、おひとりでいるのを見かけたので、声をかけてしまいました。驚かせてしまってすみません」
彼女は、俯きがちに、一言ずつ確認するような口調でそう言った。
「いえ、それは……」
うまく笑えていないことを自覚しながら、一華は微笑んでそう答えた。いつもみたいに言葉が出てこないことに、小さな焦りが生まれる。
この子は一華に対して話しかけているのだから、きちんと話さないと。
そう強く思うのに、頭の中には何一つ言葉が浮かんでこなかった。頭が、自分のものではないみたいだった。自分が今、どういう感情を持っているのか、何をどうすべきなのか、全く分からなかった。
一華の反応がよくなかったからだろうか、小野は一華を見上げて不安げな顔をした。しかし、覚悟を決めたように、表情を引き締めると、ぎゅっと拳を握った。
彼女の隣に立っているもう一人の女子生徒が、「頑張れ」と囁く。小野は大きく頷くと、一華を真っ直ぐ見て、はっきりと言った。
「あの、私、一華さんの友達になってもいいですか」
「とも、だち……?」
友達。真っ白な脳内で、その単語が意味を持つものに変換される。
「私と……?」
「わ、私なんかが一華さんの友達になるなんて、おこがましいと分かっています。でも、仲良くしたいと思って。あの、全然、断ってもらっても大丈夫ですので」
早口でそう言うと、小野は顔を伏せた。心臓の音が聞こえてきそうなその表情から、彼女が本当に勇気をもって話しかけてくれたことが分かった。
消えてくれない戸惑いに頭を支配されながらも、彼女に何と返すべきなのか、一華にははっきり分かっていた。
一華はゆっくり息を吸うと、普段の調子を取り戻して微笑んだ。
「ありがとう。そんなふうに言ってもらえて嬉しいわ」
小野が勢いよく顔を上げた。驚いたような表情をする彼女と目が合うと、一華はにこりと笑いかけた。
「これからよろしくね」
「……本当に?」
丸くした目を一華から逸らさずに、小野は微かに震える声で尋ねた。
「本当に、いいんですか?」
「ええ」
頷くと、小野は、隣で付き添っていた生徒と手を取り合って、小さく歓声を上げた。
「本当に嬉しいです。ありがとうございます」
真っ直ぐに一華を見上げる彼女の表情は、今までに一華に向けられた誰のどんな表情よりも綺麗で、純粋だった。
頬を赤くして友達と笑いあっている彼女を、一華はそっと見つめた。ただ友達になると言っただけなのに大袈裟だ。ただ、頷いただけなのに。一華だって、話しかけられればちゃんと答えるし、話すことなんて特別難しいことではないのに。そんなふうに喜ぶようなことではないのに。
そうして、明日の昼食を一緒に食べる約束を交わした後、一華は彼女たちと別れた。
少し急いで門まで行くと、迎えに来ていた家の車が待っていた。一華は運転手に謝りながらその車に乗りこんだ。
「待たせてしまってごめんなさい」
「とんでもありません。何かご用事でもございましたか?」
「いえ。少しお話していただけよ」
答えた一華の頭の中で、つい先ほど聞いた言葉が反芻される。
『私、その、一華さんとお話ししたいと思っていて』
一華に向けられた言葉。
『その後、式で堂々と新入生代表の挨拶をしているのを見て、すごくかっこいいなって思ったんです。それに、昼休みにも何度も図書館で勉強している姿をお見かけして、入学したばかりなのに、熱心に勉強していてすごいと思って』
一華だけに向けられた言葉。
桜草樹家の長女である一華ではなく、桜草樹二葉と光の姉である一華でもない、一華だけに。
『私、一華さんの友達になってもいいですか』
そう言った彼女の表情が、一華の心を表面からくすぐる。
「友達……」
そっと口に出してみる。静かなエンジン音でもごまかせるくらい、小さな声で。
今までだって、家同士の交流でも、招かれたパーティーでも、同年代の方と話すことは何度もあった。学校で言葉を交わすことだって、普通にしてきた。だけど。
友達。
二葉が何度も楽しそうに口にしていた言葉。
心をくすぐる感覚に引っ張られて、頬が熱くなる。
友達。
そんなの、初めてだった。
続きは明日の朝8時過ぎごろに投稿する予定です。
よろしくお願いします。




