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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第4章 理不尽と責任

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    桜草樹家の長女③

 曲の最後の音が、重々しく響いて消えていく。その余韻に浸るように、一華はゆっくりと鍵盤から指を離した。


「さすがです、一華お嬢様」

 隣に立って演奏を聴いていた先生が、にこりと微笑んだ。

「これなら、今度の発表会も安心ですね」

「ええ」

 一華も同じように微笑んで頷いた。

「ここまで上達できたのも、先生のご指導のおかげです」

「いえいえ、そんな。一華お嬢様の努力の賜物ですよ」

 先生は穏やかにそう言うと、軽く目を閉じた。


「思えば、昔は少し拙い演奏でしたが、今は一曲を覚えるのも早くなって、以前よりずっと素晴らしい演奏になっています。お嬢様ご自身が長い間練習を重ねてきた結果ですね」

「……ええ」

 一華を真っ直ぐ褒め称えるその言葉に、胸が温かくなる。


 一華の努力は、周りに劣らない成果を出すためのただの手段だ。何よりもまず結果を見られるこの世界において、努力したかどうかは関係ないし、結果が出なければその努力に意味なんてない。けれど、やはりその部分を評価してもらえるのは、自分の全てを受け入れられているようで、とても誇らしかった。


「ありがとうございます」

 素直にお礼を言うと、先生は優しく笑った。

「それでは、今日のレッスンは終わりにしましょうか」

「はい」

 一華は、ピアノを元に戻し、荷物をまとめると、先生と自分しかいない部屋を後にした。


 玄関まで先生を見送ると、一華は小さく息を吐いた。

 この後は、どうしようか。


 荷物を置くために部屋に戻らなければならないから、そのまま部屋で勉強をしようか。けれど、そろそろ夕食に呼ばれるかもしれない。決まり事としてはっきりと言われているわけではないけれど、この家では、なるべく家族がそろって食事するというようになっている。もしすぐに呼ばれるようならば、勉強を始めてもすぐに切り上げなければいけなくなってしまうだろう。


 夕食はいつ頃になるか、先に聞いておいた方が良いかもしれない。一華は、近くにあった広間へと繋がる扉を開けた。


 使用人の誰か一人くらいはいるだろうと思っていたけれど、広間には誰もいない様子だった。人のいない広間の物寂しさを埋めるように、広間の真ん中あたりの壁際に設置されているテレビから、にぎやかな音声が聞こえている。


 一華は改めて、誰かいないか確認するために周囲を見回した。ざっと全方位を見た後、しばらく様子を窺ってみるけれど、誰かが広間に入ってくる気配は感じられなかった。


 皆、キッチンの方にいて、既に食事の準備を進めているのかもしれない。それなら、すぐに呼ばれるだろうから、荷物を置くためだけに部屋に戻ろうか。そう考えながら、一華はテレビに近づいて、テレビの横の入れ物に入っているリモコンを手に取った。


 リモコンをテレビの方に向けつつ、電源ボタンに指を乗せる。ボタンを押そうとしたところで、ふと目に入ったテレビの映像に、一華は思わず動きを止めた。


『今日の特集はこちら。今話題の二人、あの桜草樹家の双子の天才姉弟、桜草樹二葉ちゃんと光くんに取材をしてきました』


 元気のいいアナウンサーの声が鼓膜を揺らす。その大きな画面には、よく知ったあの二人の顔が、一華の顔よりもずっと大きく映されていた。


『姉の二葉ちゃんは、まだ小学四年生にもかかわらず、大人顔負けの絵の才能を開花させ、数々の有名な賞の最年少記録を塗り替えています。そして弟の光くんは、同じく小学四年生でありながら、既に驚くほどの音楽の才能を――』


「……」

 二人を褒め称える声が、たくさんの写真が、目の前を流れていく。一華はそれを、ただテレビの前に佇んで眺めることしかできなかった。


 類まれな才能。

 桜草樹家の姉弟。

 二人。


 あの二人は、テレビで特集を組まれるほどの注目を集められる。それくらいの才能を持っている。

 あの、二人は。


 映像が、一華たちが通っている学校に入り、教室にいる二葉を訪れる場面に切り替わる。そういえば、学校に取材が来たのだと、しばらく前に皆が騒いでいたけれど、この番組の取材だったのか、と一華は思った。当の本人たちは、もう既に何回かメディアの取材を受けたことがあるから、何でもないことのように認識している様子だったけれど。


 教室に入ったスタッフの声に続いて、あの子の無邪気な声が聞こえてきた。場が和らいで、楽しそうな笑い声も入ってくる。一華は静かに目を伏せると、リモコンの電源ボタンの上に置いたままだった指に、そっと力を込めた。


 プツン、と音が途切れる。一華は、緩慢な動作でリモコンを元の位置に戻した。


 この家にしては珍しい、人の気配のない静かな空気。居心地の悪いその空間では、先ほどまで流れていたテレビ番組の音声だけが、存在することを許されているような気がした。


 部屋に、戻らないと。


 手から滑り落ちそうになっていた楽譜を握りなおして、一華はテレビに背を向けた。


 早く戻って、勉強しないと。


 部屋を出るために動き始めた足が、逃げるように早くなる。もう少しで扉に手が届くところまで来て、一華はハッと足を止めた。


 扉の向こうの、すぐ近くから、声が聞こえる。


 一華は慌てて数歩後ろに下がった。扉から少し距離を取ったところで足を止めるのと同時に、扉が勢いよく開いた。


「でも、最近忙しいから、仕方ないでしょ」

「ダメよ。そろそろちゃんと――あら」

 眉間にしわを寄せて、困った顔をしながら部屋に入ってきた母が、一華に気が付いて表情を緩めた。

「一華、ここにいたのね」


「あ、お姉さま」

 母とともに現れた二葉が、一華を見てパッと表情を明るくした。

「ただいま帰りました」

「おかえりなさい」

 一華は、近くに駆け寄ってきた二葉に微笑んだ。見ると、二人に続いて光も部屋に入ってきていた。

「光もおかえり」

「ただいま」

 微かに笑顔を浮かべて、光も挨拶を返した。


「あ、その楽譜」

 一華が持っている楽譜をじっと見て、二葉は言った。

「それ、とっても難しい曲よね。私、その曲、難しくて弾けないまま終わっちゃったの」

「そう? そんなに難しくないと思うけど」

 光も横から楽譜をのぞき込んで言った。それに、二葉はムッとした顔をした。


「そんなことないわ。光がピアノが得意だから、そう感じるだけよ」

「でも、姉さまはもう普通に弾けるんだよね?」

「まあ、一応……」


 音楽の天才と称される光に対して、弾けると言い切ってしまうのは気が引けて、一華は曖昧に答えた。それでも光は、一華の答えに得意げな顔をした。


「ほら、姉さまは弾けるんだから、二葉のやる気がないだけだよ」

「んー、でも、私にはできなかったもの。やっぱりお姉さまはすごいわ」

 屈託のない笑顔で、二葉はそう言った。その純粋な言葉に、どんな感情を持てばいいのか、分からなかった。


「こら、二人とも。話を逸らさないの」

 二人の後ろで、母が呆れた声を出した。その瞬間、一華の方を向いていた二人の表情が、笑顔から急に不機嫌なものに変わった。


「何か話してたっけ」

「何の話をしていたか忘れちゃったわ」

 澄ました声でそういう二人に、母は大げさなほどに溜息を吐いた。


「お勉強のお話よ。二人とも最近、学校の成績が良くないみたいじゃない。テストの順位も下がっているそうね」

「そんなことないよ」

「そんなことないわ」

 二人の声が、気持ちいいほどきれいに揃った。


「そんなことなくないでしょう。隠せていると思っているの?」

 呆れ顔を崩さずに、母は言った。

「先生から聞いたの。あなたたちが結果を教えてくれないから」


 二人は、今度は何も言わずに黙り込んだ。反省した、というわけではなく、先生という言葉が出てきて分が悪いと思ったのだろう。二人とも、少しも納得していない、そっくりな表情をしていた。


 しかし、二人の後ろに立っているため、その顔が見えていない母は、二人が何を言わないのを見て、少し力を抜いて続けた。


「あなたたちが素晴らしい才能を持っていて、それに一生懸命なのは知っているけれど、お勉強をおろそかにするのはダメ。まだ四年生なのに、周りについていけなくなったら、後から大変になるわ。結果を私に隠すってことは、あなたたちもよくない状態だってわかっているからでしょう。だから――」


「あーもう、分かったよ」

 不機嫌な声で、光が母の声を遮った。


「別に勉強だってやってないわけじゃないよ。ただ、今は音楽の優先順位が一番だから。母さまだって、俺がそうやって活躍するの、望んでいるくせに」


「そうよ。私も、今は絵を頑張りたいから、そっちを頑張ってるだけなの。お勉強だってやっていないわけじゃないし、お母さまだって絵を描くことを応援してくれてるじゃない」


 二葉も光に続いて口を開いた。勢いよく反論し始めた二人に、母は少し焦った様子を見せた。

「ちょっと二人とも、そういう話じゃ――」


「だいたい、順位だって前に比べて下がっただけで、半分よりちょっと下くらいだから全然危険じゃないし、頑張れば後からだって追いつけるよ」


「結果を見せていなかったのだって、お母さまがこうやって叱るのが分かっていたから見せなかっただけで、成績が悪いなんて思っていないわ」


 母の言葉などお構いなく、口々に文句を言う二人。こうなってしまえば、もう手が付けられない。母は、まだ言い足りていないようだったけれど、それらの言葉を全て飲み込んで小さく息を吐いた。


「二人の言いたいことは分かったわ。今まで通りにすればいいけれど、もし本当に成績が悪くなったら、そのときはちゃんと勉強を優先してもらうからね」


「はーい」

「そのときはね」

 ふてくされた顔で、二人は返事をした。そんな二人の後ろ姿に、母は困ったような笑顔を浮かべた。


 突然目の前で繰り広げられた言い争いに、その場を立ち去ることもできず立っていた一華は、それが一段落した様子を見て、ほっと息を吐いた。

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