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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第4章 理不尽と責任

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    桜草樹家の長女②

 重々しい和音が、空気を震わせて、ゆっくりと溶けていく。ピアノの鍵盤からそっと指を離すと、パチパチと軽い拍手の音が降ってきた。


「お上手です。随分上達しましたね」

 見上げると、先生がにこやかな顔でそう言った。

「難しい曲ですのに、もう形になってきています。さすがですね、一華お嬢様」

「ありがとうございます」

 答える頬に熱が帯びる。こらえきれない笑顔を隠すように、一華は顔を目の前の楽譜の方に向けた。


 今までに練習してきたどの曲よりも難易度が高い曲。早く弾けるようになりたくて、レッスン以外の時間にも練習してきた。少しずつ弾けるようになっている実感はあったけれど、今日それを認めてもらえたことがとても嬉しかった。


 それでも、曲としてはまだまだだから、これからもっと練習していく必要がある。一華は、まだ目に馴染みきっていない五線譜を見つめて、気を引き締めた。


「それでは、今日はここまでにしましょう。来週は――」

 その時、不意に扉をノックする音が聞こえた。扉の方を振り返ると、部屋に入ってくる母と、むすっとした顔で母に連れられた二葉の姿があった。


「すみません、もう終わりの時間かもしれないけれど、二葉を連れてきました」

 申し訳なさそうに母は言った。そして、「ほら、二葉」と彼女の背中を軽く押した。


「……サボってごめんなさい」

 あまり誠意の感じられない声で、二葉は謝った。不満そうな表情を変えることなく、ちらりと先生を見て、すぐに目を逸らす。


「本当にあなたは……」

 二葉の態度に、母は怒りと呆れを混ぜた声を出した。それに対して、先生はなだめるように「まあまあ」と笑った。


「せっかく来てくれたことですし、二葉お嬢様も少し練習していきますか」

 先生が尋ねると、二葉は渋々といった様子で頷いた。


「本当にすみません。それではよろしくお願いします」

 母が深々と頭を下げた。

「ちゃんとやりなさいよ、二葉」

「はーい」

 母の言葉に返事をすると、二葉は一華がいるピアノの方へと寄ってきた。母は眉をひそめて、最後まで二葉に対して視線を向けながら部屋を出ていった。


「二葉、ここ使う?」

 近くにきた二葉に、一華は声をかけた。部屋にはグランドピアノが二台、横並びになって置かれているから、もう一つの方を使ってもいいけれど、一華が使っていなかった方は蓋が開いていない。それなら、既に開いているものを使う方が楽だろう。


「良いの?」

「ええ。もう私は練習終わったから」

 楽譜を外して立ち上がる。さっきまで一華が座っていた椅子を示すと、二葉は少し嬉しそうにそこに座った。


「レッスン、勝手に休んじゃだめよ」

 一華が軽くそう言うと、二葉は一華を見上げて、少し頬を膨らませた。

「だって、そういう気分じゃなかったんだもん」

「気分じゃなかったって……」


 そんなことで、と思わず言いそうになるけれど、一華はそれをぐっとこらえた。二葉はかなり気分屋のところがあって、気分が乗らないと集中力が続かない。だから、多少は仕方がないのだろう。


「だってだって、絵を描いたりお友達と遊んだりする方が楽しいし、それに(ひかる)と一緒じゃなくなってつまらないし」

「確かにそうかもしれないけど……」


 二葉の双子の弟である光は、音楽の才能があるということで、少し前から一華たちと一緒のレッスンをやめて、よりレベルの高い指導を受けている。まだ幼いのに、ここまでできるのはすごいと、家族も先生も口をそろえて褒めていた。


「気になさらなくて大丈夫ですよ。今日はこうして来ていただけたのですし」

 先生が、特に起こっている様子もなく言った。

「では、お時間もありませんし、少しだけ練習しましょう。楽譜はありますか?」

「はい、ちゃんと持ってきました」

 素直に答えながら、二葉は手に持っていた楽譜を広げた。つい先ほどまで一華が置いていたのと全く同じ楽譜。


「お姉さまのと同じだから、貸してもらってもいいかなって思ったけど、ちゃんと持ってきたの」

 得意げに言う二葉に、一華は「そう」と微笑んだ。


 ピアノを始めた年齢は、一華も二葉も同じだった。だから、習っている期間は一華の方が一年ほど長い。練習量だって、一華の方がずっと多いはずだった。


「一華お嬢様は先にお部屋に戻られても大丈夫ですよ」

 先生が一華に言った。すると、二葉が「えー」と不服そうな声を出した。

「お姉さま、行っちゃうの?」

 純粋な目が、じっと一華を見つめる。一華は少しの間迷った後、軽く微笑んだ。


「分かった。二葉の練習が終わるまで、ここにいるわ」

「やったー、ありがとう」

 二葉が嬉しそうに笑う。その笑顔を見て一華は、ここで断って変に拗ねてしまっても困るから仕方がなかったのだと自分に言い聞かせた。


 先生が、ピアノの前に座った二葉の横に立った。すぐに、ピアノの音が聞こえてくる。一華はそっと後ろに下がって、二人から少し離れたところに移動した。


 二葉の練習はいつ終わるだろうか。少しだけ、と言っていたけれど、もし二葉の気分が乗ったら延長するかもしれない。それに合わせて夕食を食べる時間も遅くなれば、勉強にとれる時間も少なくなる。そういえば、明日は英会話の習い事があるから、予習しておいた方がいいだろうか。それもやるとなると。


 たくさんのことが、薄い霧のような不安とともにぐるぐると頭の中を回る。一華は軽く目を閉じると、小さく息を吸った。


 大丈夫。頑張って集中すれば、大丈夫。

 やらなければいけないことに、変わりはないんだから。


 そのときふと、今まで意識を向けていなかった音が、耳に転がり込んできた。目を開けると、鍵盤に真っ直ぐ向かう二葉の背中と、彼女を見る先生の姿が見えた。

 二葉の動きと連動して奏でられる、ピアノの音。その音が、よく知った一つの曲を紡ぎあげていく。


「……」


 たどたどしい旋律。まだ全然曲として完成していない音の集まり。それでいて、自由で跳ねるような演奏。さっきまで一番近くで聞いていた音よりもずっと、きれいな曲。


 分かっていた。


 右手で持った楽譜が、くしゃりと音を立てる。同じ曲を記しているはずの紙。


 分かっていた、そんなこと。


 音が止まる。すぐに、二葉は先生のことを見上げた。

「ねえ、どうだった?」

「とてもお上手でした。もうここまで弾けるなんて驚きました」

 言葉通り、驚いた表情で先生は言った。

「自分で練習したのですか?」

「いいえ。前のレッスンで弾いたの、何となく覚えてたの」

 無邪気な声が、一華の胸をチクリと刺す。

 前のレッスン。二葉は先週来なかったから、もう二週間前になる。


「すごいですね。さすが二葉お嬢様です」

 先生が、お世辞というわけでもなく純粋に言った。

「毎週きちんとレッスンに来れば、もっと早く上達しますよ」

「うーん。それも素敵だけど、やっぱり他のことの方が楽しくなっちゃうから……」

 上目遣いで先生を見ながら、二葉は言った。

「ピアノも楽しいけど、私には合ってないのかも」

「そうですか?」

 先生が笑った。二人の空間は、とても楽しそうに見えた。


「では、もう今日はおしまいにしますか? それとももう少し練習しますか?」

「おしまいにするわ」

 二葉は立ち上がって、さっさと楽譜を片付け始めた。それと同じタイミングで、扉を静かにノックする音が聞こえた。


「……お母さまかしら」

 若干おびえた顔をしながら、二葉が扉を振り返った。しかし、扉を開けて現れたのは、怒った顔をした母ではなかった。


「おばあさま!?」

 一華の口から、思わず驚いた声が漏れる。そこに現れたのは、桜草樹家の代表である、一華たちの祖母だった。


「おばあさま、来てくださったんですね」

 二葉がタッと祖母に駆け寄った。祖母は、にこにこと笑顔を浮かべる二葉を、少しの笑顔も返すことなく一瞥した。


「二人とも、励んでいますか」

 一華と二葉を順に見て、温かみのない声で祖母は言った。一華は姿勢を正して「はい」と答えた。


「私も頑張りました」

 へらっと答える二葉に、祖母は静かな目を向けた。

「最近、レッスンを無断で休むことが多いと聞きましたよ」

「そ、それは……」

 バツが悪そうな顔で、二葉は言葉を濁した。


「ちょっと、他のことがやりたくなってしまって……」

「桜草樹家の人間たるもの、そのようなだらしない行動は慎むべきですよ。やりたくないことでも、己を律して行う必要があります。感情に左右されてはいけません」

「……」


 祖母の厳しい言葉に、二葉は俯いて黙り込んだ。自分も怒られているような気分になって、一華は唾を飲み込んだ。


 二葉が黙ったままであるのを見て、祖母は表情を変えずに口を開いた。

「今後、気をつけなさい」

「……はい、ごめんなさい」

 か細い声で、それでも素直に二葉は謝った。


 祖母は、二葉に注意するためにここまで来たのだろうか。


 一華は、無表情で二葉を見つめる祖母をそっと見た。祖母がわざわざ一華たちの習い事に顔を出すことなんて滅多にない。二葉の行動について母から聞いたりして、ここに来たということなのだろうか。


「練習の方はどうですか。上達しましたか」

 唐突に、祖母はそう尋ねた。誰へ向けた言葉なのか判断しかねて、咄嗟に声が出せないでいると、ついさっきまでしおらしく俯いていた二葉が、パッと表情を明るくして祖母を見上げた。


「はい、今練習してる曲、難しいけどちょっと弾けるようになったんですよ」

「そう」

「お姉さまもおんなじ曲を練習しているの。お姉さますごいから、とっても頑張って練習しているのよ」


 突然自分のことを言われて、一華の心臓が跳ねる。祖母の目も一華の方に向いたことで、心臓の動きが速くなる。


「……あ」

 無意識に、手に持った楽譜を身体の後ろに隠した。頭が真っ白になって、言葉が出てこない。


 おばあさまが見ている。

 何か、言わないと。


「……私は、まだまだです」

 息を整えて、一華は微笑んだ。

「練習はしていますが、なかなか上達しなくて。二葉の方がずっとすごいです」

 じっと一華を見つめる祖母の目。一華の動揺も惨めな気持ちも、すべて余すことなく見抜いているようなその目に、さらに心臓の動きが激しくなった。


「……そう」

 ややあって、祖母は静かにそう言った。そして、スッと一華から視線を外した。

「これからも継続しなさい」

「は、はいっ」

 一華はしっかりと返事をした。祖母が応援してくれている。少なからず一華のことを気にかけてくれている。それが嬉しくもあり、とても怖くもあった。


 祖母は、一華の返事など耳に入っていないような様子で、静かにピアノの先生の方を向いた。

「色々と迷惑をかけますけれど、これからもよろしく頼むわね」

「はい、もちろんです」

 普段よりもぎこちない声で、先生は答えた。祖母は浅く頷くと、ちらりと一瞬だけ、一華と二葉のことを見た。


「じきに夕食の時間ですから、二人とも、練習が終わったらいらっしゃい」

 感情の見えない冷えた声でそう言うと、祖母は一華たちに背を向けて、すぐに部屋を出て行った。一華はその背中を、見えなくなるまでそっと見つめ続けた。


 扉が閉められた小さな音が聞こえると、身動きを取ることすら憚られるような沈黙が部屋を満たした。祖母が口にした言葉が、空気に溶け込んでまだ残っているような気がして、一華は自然と息を止めていた。


「さてと」

 しばらくして沈黙を破ったのは、先生の声だった。

「では、今日はもう終わりにしましょう。続きはまた来週」

 そう言うと、先生はにこりと二葉に笑いかけた。


「来週はきちんと来てくださいますか」

「……はい」

 二葉は諦めたように頷いた。

「おばあさまにも怒られちゃったし……」

 母や先生に叱られても聞く耳を持たなかった二葉が、こんなにも素直になっているのを見て、先生は小さく笑った。


「大丈夫ですよ。二葉お嬢様ならすぐに弾けるようになります。そうなれば、きっとピアノも楽しくなりますよ」

「本当に?」

 期待を含んだ声で聴き返す二葉は、とても無邪気だった。その顔を見て、二葉はきっと来週から真面目にレッスンに出席するのだろうと、一華は思った。


 楽譜を掴む指に、感情が駆り立てられるような違和感を覚える。一華は、徐々に大きくなるその感覚に逆らおうと、指先に力を込めた。


 もっと、頑張らないと。

 できないならば、足りないならば、もっと。

 二葉に置いていかれないように。


 おばあさまに、失望されないように。

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