あの日の言葉の意味⑥
「わあ……」
『道』を通り抜けた柚のすぐ近くから、小さな歓声が聞こえた。振り返ると、柚に続いて『道』を通ってきた桜草樹が、周囲の景色を驚いたような顔で見回していた。
今朝、皆が起きるくらいの時間に『家』に行ったにも関わらず、待ち合わせ場所となっていたロビーには既に、身なりをきれいに整えて姿勢よく座る桜草樹の姿があった。柚がこのまますぐに来てほしい旨を伝えると、彼女は普段のふるまいからは想像ができないほど喜んでそれを承諾した。
緊急事態ということで、ルリに頼み込んで桜草樹も柚の『道』を通れるようにしてもらった。それを使って、『家』から遠く離れた柚の自宅まで、すぐに彼女を連れてくることができたのだった。
「ここが、白葉さんが住んでいらっしゃるところなんですね」
桜草樹は、ゆっくりと辺りを見渡した。
「綺麗な森ですね。少し不思議な感覚がします」
純粋に感動している桜草樹は、何だか無邪気で可愛らしかった。彼女は都会のお嬢様だし、もしかしたらちゃんと森を見たことがないのかもしれない。
「桜草樹さん、森とか山とかあんまり見たことない?」
尋ねると、彼女は「いえ」と答えた。
「毎年夏に、山にある別荘を訪れるので」
別荘。
なるほど、お金持ちにはそういうのがあるのか。柚の負けだ。
「じゃあ、取りあえず家に入ろう。お兄ちゃん、そこにいるから」
柚が促すと、桜草樹は緊張した面持ちで「はい」と頷いた。
家の表へとまわり、玄関の扉を開ける。開けたすぐ先には、柚たちが来るのを待ち構えていた蓮人の姿があった。
「お兄ちゃん、ずっとここで待ってたの?」
「ずっとではないよ。柚たちが来た気配がしたから、さっき部屋から出てきたんだ」
蓮人は少し笑ってそう言うと、柚に続いて家に入ってきた桜草樹の方に目を向けた。
「いらっしゃい、桜草樹さん」
穏やかに微笑んで、蓮人は桜草樹に呼び掛けた。
「柚の兄の蓮人です。今日はわざわざここまで来てくれてありがとう」
桜草樹は、キュッと表情を引き締めると、しっかりと姿勢を正して、その表情を蓮人の方に向けた。
「初めまして、桜草樹一華と申します。本日は、急なお願いにもかかわらずお時間を設けてくださり、ありがとうございます」
そう言うと、彼女は上品な所作で、丁寧に頭を下げた。その一連の動作があまりにも綺麗で、柚は思わず息を呑んだ。
今まで意識していなかったわけではないけれど、今柚の隣に立つ彼女は、本当にあの桜草樹家の人なのだと改めて思った。
「いえいえ。こちらこそ、急に今日来てほしいなんて頼んでしまってごめんね。ここには問題なく来られた?」
桜草樹のかしこまった態度を受けてもなお、今までの口調を変えることなく蓮人は尋ねた。蓮人の質問に、桜草樹はほんの少しだけ表情から力を抜いて、「はい」と答えた。
「白葉さんの『道』を使わせていただいたので。ルリさんにも、快く、とまではいきませんでしたが、すぐに設定をしていただけました」
「そっか。それならよかった」
蓮人は安心した表情を見せた。
「じゃあ、来てもらったばかりだけど、早速話をしようか。この部屋に来てくれるかな」
「はい。お邪魔します」
はきはきとした声でそう言って、桜草樹は靴を脱ぎ始めた。大人っぽい白のパンプス。それがこの家の古い玄関に置かれた様子には、何だか強い違和感があった。
蓮人が示した部屋は、いつも通り、ダイニングやキッチン、リビングがある部屋だった。蓮人に続いて部屋に入ると、柚は椅子に座るよう、桜草樹に勧めた。
「ごめんね。この家そんなにきれいじゃないし、そんなに良いものも出せないけど」
そう言いながら、蓮人はキッチンからお茶を持ってきた。コップを三人分、そっとダイニングテーブルに置いていく。
「いえ、お気遣いなく。私が無理を言って押し掛けたようなものですので」
桜草樹は、申し訳なさそうに言った。
「私こそ、今日すぐにお会いできるとは思っていなかったので、特に何もご用意できませんでしたし」
「そんなこと気にしなくていいよ。本来であれば、僕が桜草樹さんのもとへ行くべきだったんだから」
蓮人は、桜草樹の正面、テーブルを挟んだ向かい側の席に座った。どちら側に座るべきか少し迷った後、柚は桜草樹の隣の席に座った。
柚が座ったのを確認すると、蓮人は桜草樹を真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「まず初めに伝えておくと、今この部屋にいるのは僕たちだけで、この話に参加するのもここにいる三人だけだ。一人、弟が上の階にいるけれど、この部屋には来ないと言っていた。今この家に、他の家族は誰もいない。家の外にも、盗み聞きをしようとしている人はいない。だから、今から話すことを、僕たち以外の人に聞かれる危険はない。僕たちも、無断で口外することはしないから、安心して話してほしい」
「……はい」
桜草樹は頷くと、キュッと唇を結んだ。顎を引いて、しっかりと蓮人を見据える。
「改めて、本日は急なことにもかかわらず、お時間を設けていただき、ありがとうございます」
桜草樹は、深く頭を下げた。そして、ゆっくり顔を上げると、再び蓮人のことをしっかりと見つめた。
どこまでも礼儀正しい態度。毅然とした姿勢。けれどその目には、蓮人に縋りつくような弱くて必死な思いが、そんな態度や姿勢では隠せないほどに克明に表れていた。
「ご存じのことだけで構いません。『生命の司者』であるあなたに、どうしても、お聞きしたいことがあるのです」
膝の上で握られた彼女の拳が、机に隠れて小さく震えていた。その必死さが、気丈さが、息苦しいほどに伝わってくる。
蓮人は、桜草樹の言葉に、ゆっくりと頷いた。
「……知ってるよ」
桜草樹から押し寄せるその感情を優しく受け止めるように、落ち着いた声で蓮人は言った。
「桜草樹さんが聞きたいことを、僕は昔、君のおばあさんから預かっている」
桜草樹が、息を呑んだ気配がした。見開かれた目が、その瞳が、微かに揺れる。
「そ、れは……」
吐息のように、不明瞭に発せられた言葉が、小さく、溶けていく。唇が、もどかしそうに動く。そんな桜草樹の様子を見て、蓮人は小さく息を吸うと、力強く感じられる声で言った。
「桜草樹さんが知りたいのは、『扉の番人』のことだよね」
息を吸い込んで、そのまま止めた気配が、はっきりと柚の耳に届いた。
隣を見ると、桜草樹は、大きく目を見張って蓮人のことを見つめていた。ただ純粋に驚いているような、内側から溢れ出る感情の大きさをそのまま表しているような、そんな目だった。
『扉の番人』。
聞きなれない単語。けれど確かに、柚は以前この言葉を聞いた気がする。
いつ聞いたのだろう、と記憶を掘り起こそうとしたところで、それはするりと頭の中に浮かんできた。
『まあ、それもこれも、事件を起こしている魔法使いたちを捕まえるか、『扉の番人』がちゃんと役割を果たせばいい話なんですよ。事件を起こしているのなんて、ほとんどが新しく人間界に入ってきた魔法使いたちだろうって、社長も言ってたですし』
そうだ。確かこれは、ルリの言葉だ。
半月ほど前になるだろうか。『家』のロビーにテレビを設置したとき、流れていたニュースを見て、ルリが何気なく発した言葉。疑問に思ったけれど、柚がリモコンの音量ボタンを誤って押してしまったことでうやむやになってしまい、結局聞きそびれていた。
その『扉の番人』が、桜草樹がずっと知りたがっていたことなのだろうか。
瞬きを忘れてしまったかのように、大きく開かれた桜草樹の目。その瞳の表面で、小さくまばゆい光が反射して揺れた。
「……はい」
かすれた声が、唇の隙間から零れ落ちる。その表情が、ゆっくりと、和らいでいく。
「はい、そうです」
喜びと安堵を持て余す声でそう答えた彼女は、泣き笑いのような表情をしていた。
まるで全ての苦しみを手放したようなその横顔を見て、柚は小さく息を吐いた。
これが、正解だったんだ。
やっと、辿り着いたんだ。
「あの、私――」
桜草樹は、自分がずっと欲していたものに手を伸ばすように、椅子から少し腰を上げて、身を乗り出した。しかし、次の瞬間、彼女は我に返った様子で表情を硬くした。
「……」
桜草樹は、息を止めて姿勢を戻すと、胸のあたりを押さえるように両手を強く握った。そのままゆっくり呼吸を繰り返すと、彼女はゆっくりとその指を解いた。
「……え」
その手の中には、ぼんやりとした光の塊があった。薄い黄色の光は、桜草樹の細くて白い指の上で、音もなくその輪郭を滲ませていた。
「魔法……?」
柚が呟くと、桜草樹は険しい顔で軽く顎を引いた。そして、おもむろに自分の服の襟を掴んで、くいっと下に引っ張った。
彼女の鎖骨の下あたりの肌が突然あらわになって、柚は思わずぎょっとする。けれどすぐに、その目はそこに現れたものに引き寄せられた。
そこには、少し複雑な鍵のようなマークが煌々と浮かび上がっていた。
これは……。
桜草樹を見ると、彼女は柚の反応を見て「はい」と頷いた。
「おそらく魔法です」
その言葉に、柚は息を呑んだ。
桜草樹も、魔力を持っていたのか。
彼女は今まで、白い目を向けられても仕方がないくらいに、かなり踏み込んで魔法や『司者』のことを調べていた。だから、そんな危機感のない行動をする彼女は、当然魔力を持たない普通の人間なのだろうと思っていた。そもそも、魔力を持っている人自体そうそういないのだから、まさか知り合ったばかりの相手がそうだなんて疑えるわけがないけれど。
柚は改めて、桜草樹に現れたマークに目を向けた。
魔力を使うときに特有の模様が現れる『司者』と違い、普通の魔法使いが魔力を使うときには、特に見た目に変化はないと聞いたことがある。だから、模様が現れている点では『司者』に近いのかもしれないけれど、彼女に現れた模様は、どの『司者』のものとも違うものだった。加えて、瞳には模様が見られず、瞳の色も変わっていないため、『司者』ではないことは確実だ。
それなら、彼女が持っている力は何なのだろうか。
「その、おそらく、っていうのは?」
疑問は次々に頭の中に湧いてくるけれど、柚はまず、桜草樹の発言の中で少し引っかかったところについて尋ねてみた。すると、桜草樹は表情を曇らせて俯いた。
「……分からなくて」
「分からない……?」
「はい」
襟元をそっと元に戻しながら、桜草樹は頷いた。
「この力は、今から三か月ほど前――私の祖母が亡くなってすぐ後に突然現れました」
「え?」
柚の口から、思わず声が漏れた。
三か月前、って。
魔力を持つ存在は、魔法使いと『司者』の二つ。魔法使いは、もちろん親の遺伝で生まれながらに魔力を持つことが決まっているし、『司者』の力も、生まれる前か生まれたすぐ後、遅くても幼児のうちには受け継がれるとされている。だから、魔力を持つ場合、その力は子供の頃にはもう現れているものだ。高校生にもなって突然魔力が現れるなんて、聞いたことがない。
「そんなこと、あり得るの?」
勢いでそう口にすると、桜草樹は険しい顔をして、軽く首を横に振った。
「私も、初めは信じられませんでした。けれど実際、この力は突然現れたのです」
「……」
柚は戸惑って、蓮人の方を見た。すると彼は、この上なく真剣な表情で「あり得るよ」と言った。
「今回の件に関しては、あり得ることなんだ。だから僕は昔、桜草樹さんのおばあさんに会って、万が一のときのことを頼まれた」
万が一のときのこと。
それって、つまり。
と、突然、柚の隣でガタンと大きな音がした。驚いて見ると、桜草樹が椅子から立ち上がって、向かい合う蓮人のことを見つめていた。
桜草樹の潤んだ目は、それでも涙が落ちることがないと確信できるくらい、力強いものだった。彼女は、自分の身体全体で懇願するように、ゆっくり、丁寧に、頭を下げた。
「お願いします。どうか、教えてください。この力は何なのか。どうして突然現れたのか。祖母は私に何を伝えようとしていたのか」
凛とした、真っ直ぐな声。けれどそれは、彼女の悲痛な叫びのように聞こえた。
同じ姿勢のまま、桜草樹はぎゅっと強く目を閉じた。そして、まるで迷子になってしまった子供のように、すぐに消えてなくなってしまう弱々しい声で言った。
「私は、どうすればいいんですか」




