第1話 手のひらの上の後悔①
『何で』
拳が振り上げられる。
『何でなんだよ』
脳を揺さぶるような痛み。柚は短い両腕で、その小さい身体を庇うようにした。
ごめんなさい。
『世界に数人しか存在しないのが、何でうちに三人もいるんだよ。何で、うちばっかり』
痛みが降ってくる。
痛い。
怖い。
ごめんなさい。
痛い。
『お前なんて、生まれてこなければ』
ごめんなさい。
柚は繰り返す。
ごめんなさい。
生まれてきて、ごめんなさい。
振りかざされる拳。身構えて、ぎゅっと目をつむった。
痛みが、襲ってこない。恐る恐る目を開けると、柚の目の前には、蓮人が立っていた。
『大丈夫』
蓮人の温かい手のひらが、優しく、柚の頭を撫でる。
『大丈夫。二人のことは、僕が守るから』
蓮人が微笑んだ。柚は頷くと、隣で同じように怯えた表情をしている柊人の小さな手を、ぎゅっと握った。
『大丈夫』
大丈夫。
お兄ちゃんがいるから。
お兄ちゃんが、きっと私たちを守ってくれる。
だから、大丈夫。
柚はそう信じて、その背中を見送る。柊人と身を寄せ合って、大丈夫、と繰り返す。
大丈夫。大丈夫。
だって、お兄ちゃんがいるから。
だから。
大丈夫。
大丈夫じゃ、なかったのに。
扉の向こう。怒鳴り声。
やめて、と訴える母と百合の声。
何かが壊れる音。割れる音。
大きな怒声。
何か固いものがぶつかった、鈍い音。
叫び声。
百合の名前を叫ぶ、母の声。
どうしよう、百合が。
揺らいだ空気の流れ。
爆発的な魔力。
爆風。壊れた扉。
血だまり。
床に横たわる百合。
倒れている両親。
固く閉じられた目。
降り注ぐ、緑の光の欠片。
その中で、たった一人、床に座り込んだ状態で、宙を見上げる、兄の姿。
中身が抜け落ちてしまったような、壊れてしまったような。
どこも見ていない、虚ろな目。
ああ。
ごめんなさい。
私のせいだ。
私が、全部、押し付けてしまったから。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
大丈夫じゃ、なかったのに。
ハッと、目を覚ます。
一番初めに目に入ったのは、一度どこかで目にしたことがあるような、見慣れない天井だった。
「目を覚ましたか」
聞き覚えのある声がした。驚いて目を向けると、そこには、柚の顔を覗き込む朔也の姿があった。
「朔也、くん……?」
柚は、久しぶりに見る顔をぼんやりと眺めた。そして、視線を動かして、周囲の景色を確認した。どうやら、プロジェクト初日に確認しに来た、『家』の二階にある個人部屋らしかった。
「悪い夢でも見ていたのか」
朔也は、ベッドのそばに置かれた椅子から立ち上がると、柚の額に置かれていたタオルを手に取った。柚は小さく「うん」と答えた。
全身がだるくて、熱っぽい。柚は、完全には開かない目で朔也を見上げた。
「どうして、朔也くんがここに……」
「凪沙に聞いて来た」
「凪沙ちゃんに?」
「ああ」
朔也は頷くと、真っ直ぐに、柚の目を見た。
「お前、自分が何をしたのか、覚えているか」
「何、を」
その瞬間、頭の中で、とある光景がパッと弾けた。
魔法使いの男。刺された桜草樹。その傷口に、無我夢中で手をかざす。そして――。
柚は、勢いよく身体を起こした。頭が重く痛んだけれど、そんなものを気にすることはできなかった。
重力に従って落ちるときのような、身体の芯から感じるぞわりとした感覚が、一瞬のうちに全身を貫く。ああ、と声にならない嘆きが、口から漏れる。
「どうしよう」
自分の手のひらが目に入る。それに、あのときに見た光景が重なった。目の前が真っ暗になる。
「どうしよう、私」
下がった体温の中、心臓だけが、急速に動いている。柚は、朔也の静かな瞳を見つめて、震える声で言った。
「みんなの前で、魔力を、使っちゃった」
「……ああ」
現実を正面から突き付けるように、朔也は、柚の目を見つめたまま頷いた。
「そうだ」
咄嗟に、息ができなくなる。
「どうしよう」
頭の中が真っ白だった。何も考えられない中、どうしよう、という単語だけが繰り返し湧き上がってくる。
「どうしよう、私」
「一旦落ち着け」
朔也が静かにそう言った。柚は、首を横に振った。
「でも、だって」
魔法使いは、正体がバレたら、社会的に生きていけない。
魔力を持っている『司者』も、生きていけない。
以前見た、SNSでの騒ぎを思い出す。『司者』だと言われ、個人情報をばら撒かれた女の子。その画面が、脳裏でちらつく。
知られてしまったのだ。
あの場にいた人たちに、知られてしまった。
柚が、『生命の司者』であるということを。
心臓が、口から飛び出してしまいそうだった。柚は、不規則な浅い呼吸を繰り返した。
「だって、知られちゃったから、もう」
どうしようもなくなって、柚はベッドから足を下ろした。立ち上がろうとして、少しふらついたのを、朔也がすぐに支えた。
「柚」
柚を宥めるように、彼は名前を呼んだ。
「そのことは、後で考えればいい。だから、一旦落ち着け」
その落ち着いた声を聞くと、ぐちゃぐちゃになった感情が、少し落ち着いたような気がした。朔也に促されるがまま、柚はベッドに座り直した。
「横にならなくて大丈夫か」
朔也が尋ねた。少し身体はだるかったけれど、寝ているのも落ち着かない。柚は「大丈夫」と答えた。
「じゃあ、取りあえず、今の状況を伝える」
柚が落ち着いたのを確認して、朔也も椅子に座った。
「柚は、魔力を使った後、気を失って倒れた。俺が車でうちの病院に運ぶこともできたが、時間がかかるし柚の身体の負担にもなるから、取りあえずここに運んだ。一応魔力を落ち着かせてはあるけれど、後で改めて検査を受けてもらうつもりだ」
柚はこくりと頷いた。そして、気になっていたことを尋ねた。
「桜草樹さんは、どうなったの?」
「その子は無事だ」
朔也ははっきりと言った。
「きれいに傷もなくなっているし、身体に異常もない。あれから一度目を覚まして、正常な受け答えもできたから、魔力を受けたことによる影響はそれほどないだろう。今は、家の人に迎えに来てもらって、そのままうちの病院に向かっている」
桜草樹の家は、都心に近い場所にあって、ここからも近いはずだ。桜草樹を寝かせて運ぶことのできる大きな車も持っていそうだから、そのまま遠く離れたT市の病院まで向かうのも納得だった。
「他の、その場に居合わせた人たちにも、魔力を受けたことによる大きな影響はなさそうだ。一人、腕を怪我した子だけが、魔力のせいか犯人に直接襲われたせいか分からないが、調子が悪そうにしていたけれど、今は大分落ち着いたようだ。皆、ここの一階に集まっている」
「……そっか」
柚は小さく息を吐いた。
人間が魔力を浴びてしまって、身体に負荷がかかると、体調を崩したり一部の身体機能に障害が出たりする。今回も、柚の魔力のせいで、近くにいた参加者が皆、そうなってしまう可能性だってあったのだ。
「よかった」
柚が呟くと、朔也も「ああ」と頷いた。
「凪沙から聞いたが、かなり深い傷だったようだから、それを治すための魔力も相当大きかったはずだ。それこそ、下手をすれば、周囲にいた人たち皆に障害が残るくらいに。でもそれがなかった。やはり、理由ははっきりとはしないが、あいつと違って、柚の魔力は安定しているようだな。周りの人に与える影響が少ない」
あいつ。
その言葉を聞いて、冷水を頭からかけられたような衝撃が、柚の全身を冷やした。ある程度落ち着いていた感情が、急激に膨らんで、かき回される。
「朔也くん」
どうしても、彼の顔を見ることができなくて、柚は顔を伏せたまま尋ねた。
「……お兄ちゃんには、連絡したの?」
朔也は、小さくため息を吐いた。そして、短く答えた。
「した。今、こっちに向かっている」
ぎゅっと、心臓が握り潰されるような、感覚がした。
「バイト先に連絡した。柚が魔力を使って倒れたことを伝えたら、すぐ行く、って。しばらくすればここに来るだろう」
淡々と続ける朔也の声は、柚のことを気遣っているようにも、責めようとしているようにも聞こえた。目の前が、ぼんやりと、暗くなる。
「……お兄ちゃん」
掠れた息で、柚は言った。それだけで、息が切れそうになる。
彼の顔が、頭に浮かぶ。柚たちのために、必死に働いてくれる、兄の姿。どれだけ大変でも、柚たちのために、笑顔を絶やさない、兄の姿。
柚たちのために、犠牲になった、兄の姿。
「お兄ちゃん、怒ってるかな」
他にも色々あるはずなのに、まず口を突いて出たのは、そんな幼稚な言葉だった。言葉にしてみて、どうしようもない気持ちになる。
「怒りはしないだろう」
朔也は、至って冷静に答えた。
「あいつだって、魔力を使って似たようなことを――もっとひどいことを、やったんだから」
柚は、強く服の裾を握りしめた。
何も、言えなかった。
「蓮人のときは、家庭内で起きて、今回は、偶然他の人もいる場所で起きたってだけだ。だから、柚のことを責めたりはしない」
静かに、朔也は言った。きっと、柚のことを励ましているのだろう。その優しい言葉にも、柚は、そんなことは分かっている、と恨めしく思ってしまう。
そんなことは、分かっているのだ。
でも、もし、柚の力のことが、何かしらの形で拡散されて、柚の生活する場所まで届いてしまった場合、柚は最悪、柚のことを知る人がいない場所に逃げることだってできる。柊人も、百合も、逃げようと思えば逃げられる。けれど、蓮人は、逃げられない。蓮人だけは、あの場に居続けなければならない。
柚たちのことをいつも考えてくれる蓮人は、当然、柚たちだけでも遠くへ行くように言うだろう。けれど、そうすればまた、彼は犠牲になることになる。
また、彼だけが『生命の司者』の力の犠牲になることになる。
また、そうやって。
「……凪沙ちゃんは、こうなることを、分かってたのかな」
柚は、掠れた声で呟いた。
桜草樹が会社に来ることを、必死に阻止しようとしていた凪沙。それができないと分かった途端、彼女は柚が会社に行かないように訴えてきた。もしそれが、このような出来事を避けるためだったのだとしたら、違和感があった彼女の行動すべてに納得がいく。
「さあな」
朔也は、短くそう答えた。
「あいつの考えていることなんて、誰にも分からない」
「……うん」
確かに分からない。けれど。
「私、凪沙ちゃんに、何か大変なことが起こるかもしれないから、今日は会社に行くなって、言われてたんだ。ちゃんと、凪沙ちゃんは、言ってくれてた。それなのに、私は、それを――」
自分のせいで凪沙が誰かを傷つけるのも、凪沙自身が苦しむのも、嫌だった。たくさん悩んで、考えて、答えを出して、伝えたつもりだった。それが間違っているかもしれないことへの責任も、その後に訪れる危険への覚悟も、持っていたつもりだった。
けれど、凪沙の見ていたものは、そんな程度のものじゃなかった。そんなもので邪魔していいほどのものではなかった。
ただ一人で、部屋の隅で、柚たちのことを眺めていた凪沙。これから起こるかもしれないことの恐ろしさを知りながら、もう何もしない、何が起きるか見届けたい、と言った凪沙。彼女は一体どんな気持ちで、あの場所に立っていたのだろう。柚は一体、どれほどの苦痛を、彼女に強いてしまったのだろう。
「ちゃんと、凪沙ちゃんのことを信じて、その通りにしてたら、こんなことには、ならなかったのかな。自分の感情だけじゃなくて、もっとちゃんと、考えていれば、こんなふうには、ならなかったのかな」
どんな結果でも、ちゃんと頑張る、なんて言っておきながら、こんな状態になって。
何も考えずに、皆が見ている前で、魔法を使って。
自分の感情で動いたせいで、よりひどい結果になって。
結局、いつも通りじゃないか。
「起きたことを後悔しても無駄だ」
朔也は、厳しく言った。
「それに、仮に柚が凪沙に従っていたとしたら、刺された子は死んでいた。そうなったとしても、どうせ同じように後悔するんだろう」
「……」
それは、そうだけど。
桜草樹を助けられたのは、良かったけれど。
でも、それで素直に良かったなんて、思えない。
柚も、柚の家族も、きっともう、今まで通りの生活には戻れないのだから。
柚の、せいで。
柚が、しっかりしていないせいで、また――。
そのとき、扉の向こうで、複数の足音が聞こえた。階段を駆け上がる足音。慌ただしいその音が、柚の部屋に近づいてくる。
この部屋です、と勝元の声が聞こえた。間を置かずに、ガチャリ、と勢いよく扉が開く。そこに現れた姿を見た瞬間、柚は、今すぐ逃げ出したいような感覚に駆られた。
熱で揺れる視界の真ん中。そこには、肩で大きく息をしながら、こちらを真っ直ぐに見つめる、蓮人の姿があった。




