覚悟の結果⑤
翌日の朝。会社には、五月の連休の初日だというのに、『特別プロジェクト』の参加者全員が揃っていた。
一昨日の、バイトをやらずに帰されたあの日と比べれば空気は悪くなかったものの、何となく、皆の立ち振る舞いはぎこちなかった。
これ以上何もしない、と宣言した凪沙は、柚がここに来たときにはもう既に着替えを終えていた。宣言通り、桜草樹と距離を置くだけでなく、柚たちにも話しかけて来なかった。本当に、ただ見ているだけのようだった。
桜草樹は、凪沙のことを警戒している様子だったけれど、凪沙のその様子に対して少し怪訝な表情を見せていた。
他のメンバーも、凪沙と桜草樹の様子を、そして柚たちのことを窺っているような雰囲気だった。しかし、視線も気にならないほどに、柚は緊張していた。
今日、凪沙が危惧していた何か起こるかもしれないし、何も起こらないかもしれない。何かが起こるのは、今日じゃないかもしれない。けれど、起こるとしたら、何か大変なことが柚の身に訪れるのかもしれない。
柚は、震えそうになる両手をぎゅっと握り合わせた。
何が起こっても頑張ると、言い切ってしまった。何があっても、凪沙は手を貸してくれないだろう。ここからは、柚が一人で頑張らないといけない。結果を受け入れないといけない。
大丈夫だ、と柚は心の中で呟いた。
大丈夫。きっと、大丈夫だ。
「本日は全員集まっていますね。一昨日よりも、ほんの少しだけですが、ましな雰囲気になったように見受けられますが」
部屋に入ってきた景山が、ぐるりと柚たちを見回した。一昨日は、おそらく雰囲気が悪いという理由で、全員を帰らせるという強引なことをしたというのに、雰囲気が改善したことにも特に興味がない様子だった。
景山が、いつも通り役割を伝えていく。ここ数日のやり取りをどこかから見ていたからなのか、それとも偶然なのか、柚の今日のペアは、天瀬ではなく三ツ花だった。
皆それぞれ、伝えられた場所に移動していく。その中で柚は、天瀬が柚の方を見ているのに気が付いた。
『あの、ユズ、昨日は――』
二人きりになった地下室で、何かを言いかけた天瀬。その表情。
柚は、その目を少しでも見てしまわないように注意しながら、三ツ花に声をかけた。
「三ツ花さん、よろしくお願いします」
「は、はい。よろしくお願いします」
三ツ花も、天瀬の視線に気づいているのだろう。彼の方を少し気にしながら、三ツ花は柚にぺこりとお辞儀をした。
直接言葉を交わしていないけれど、三ツ花もまた、一昨日この場所にいた。凪沙と桜草樹の会話も、そして柚と天瀬のやり取りも、その一部始終を見ているのだ。柚たちが気まずく感じているのはもちろんだけれど、当事者じゃないからこそ、三ツ花はどう振舞えばいいのか分からない気まずさを感じているのではないだろうか。
勝手に巻き込んで、気を遣わせてしまっていることを申し訳なく思いながら、柚は、なるべく明るい声で「行こっか」と呼びかけた。
淡々と仕事をこなしていると、気が付けば昼休憩の時間となっていた。
第一会議室に戻った柚は、近くにいた勝元と創に「お疲れさま」と声をかけた。
「お疲れ。大丈夫そうか?」
「うん。特に何もないよ」
答えながら、柚は部屋を見回した。先に『家』に向かったのか、中梛と櫟依の姿は見えなかったけれど、それ以外のメンバーはまだ残っていた。
その中でも、部屋の奥の方で、一人で静かに立っている凪沙の姿に目が行った。凪沙は、おそらく柚たちが戻ってきたことに気が付いているけれど、こちらに近寄ってくることも、こちらを見ることさえもしなかった。他の人とも距離を置いて立つ凪沙は、まるで自分の存在をこの空間から切り取ろうとしているようだった。
「凪沙は、本当に誰とも関わらないつもりなんだな」
柚の視線の先を見て、勝元が呟いた。柚は、凪沙のことを見たまま「うん」と答えた。
凪沙が今一人でいるのも、柚が願った結果なのだ。そう思うと、罪悪感で胸が締め付けられた。
「じゃあ、先に行くか」
勝元は、呆気なさを感じるほどの軽い声でそう言うと、凪沙から視線を外した。
「天瀬と藍代も一緒に行くか?」
「あ、行きまーす」
椅子に座っていた天瀬が立ち上がった。藍代も頷いて、それに続いた。
「じゃあ、柚、後でね」
創が小さく手を振った。
「うん。また後で」
柚が返事をすると、創は既に廊下へと移動している勝元たちの後に続いて、部屋から出ていった。
エレベーターや『家』へ向かう道中で、柚と天瀬が一緒になることを避けてくれたのだろうか。柚は、そっと息を吐き出した。
「じゃあ、私たちも行こうか」
三ツ花に声をかける。三ツ花は「はい」と少し不安げに返事をした。一瞬、ちらりと、背後の凪沙の方に視線を向けたが、彼女は何も言わずに、視線を出入口の扉の方に戻した。
ドアノブに手をかける。先に行った勝元たちも、もうエレベーターで下っているだろう、と考えていると、後ろから声をかけられた。
「あの」
思わずびくり、と肩が震える。急いで声が聞こえた方を向くと、そこには、桜草樹が立っていた。その姿を認めた瞬間、柚は来た、と思った。
「あ、その……」
桜草樹は、柚の反応に、戸惑ったような表情をしていた。
「驚かせてしまってすみません。もしよろしければ、一緒に行きたいと思いまして」
「あ、そ、そうだね」
柚は、慌てて笑顔を浮かべた。
「一緒に行こう」
心臓が早鐘を打っている。柚は、強張った指を再びドアノブにかけて、扉を開けた。
廊下は静まり返っていて、空気の温度が何度か下がったような気がした。三人分の揃わない足音が、心臓の鼓動と合わさって、緊張感が増幅される。
喋る余裕もなくて、柚は黙ったまま廊下を進んだ。三ツ花も、元々自分から話すタイプでもないけれど、今日はいつもより落ち着かない様子で黙っている。
「今日は――」
しばらく進んだ後、唐突に、桜草樹が声を発した。先ほど声をかけられたときほどではないけれど、柚の肩が気づかれない程度に小さく震えた。
「今日は、静かでしたね」
何気ない、世間話のようなことを、桜草樹は口にした。
「昨日来たときは、会社員の方も多くいたので、今日とはかなり雰囲気が違いました」
「そうだね。今日から連休だし」
連休は何する予定なのか、とか、ここにはどれくらいはたらきに来るのか、とか。話を繋げられるものは色々とあったけれど、それを繋げられないくらい、とにかく頭が働いていなかった。桜草樹の気遣いも虚しく、再び三人の間に沈黙が訪れた。
無言のまま、エレベーターに乗り込み、下っていく。エレベーターを降りたところで、ふと、桜草樹が足を止めた。
「白葉さん」
「何?」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。柚は、桜草樹に合わせて足を止めた。
桜草樹は、どこか不安そうな目で、柚のことを見ていた。
エレベーターから会社の裏口へと繋がる、薄暗い通路。今まで全く感じなかった空気の熱を、じんわりと肌に感じた。
「入月さんは、どうされたのですか」
息が、止まる。
柚は、黙って桜草樹を見つめ返した。彼女の瞳は、どうしようもなく、純粋だった。
「ここへ来てからも誰とも話さないで、私が白葉さんに声をかけたのを見ていたのに、何も言わなかったので。なぜ、突然あのような態度になったのか、気になって」
「どうして、って、言われても……」
彼女は知らないのだ。一昨日、部屋を飛び出した後、何があったのかを。柚たちの間にどんな言葉が交わされて、どういうやり取りがあって、どういうふうに決断して、この状況に至ったのかも、何一つ、知らないのだ。
そう思うと、ただひたすらに、やるせなかった。
柚は、サッと視線を逸らした。
「色々、あったんだよ」
目を逸らしたまま、柚はぎこちなく笑った。再び桜草樹を見る勇気もなく、柚はそのままぎゅっと拳を握って、桜草樹の反応を待った。
「……分かりました」
ややあって、桜草樹は、静かにそう言った。色々、と濁した部分を更に詳しく聞いてくるのだろうか、と柚は身構える。けれど、少し待ってみても、普段の桜草樹が向ける、興味を真っ直ぐにぶつけてくるような視線を感じることはなかった。
「すみませんでした」
桜草樹は、か細い声で、そう言った。
「え?」
思いがけない言葉に、柚は慌てて視線を桜草樹の方に戻した。そのときにはもう、彼女は出口の方に歩いていて、その表情を見ることは出来なかった。
歩いていく桜草樹の後ろ姿を、戸惑いながら見つめる。彼女がどうしてこんなにもあっさり引いたのか、どういう感情でそう動いたのか、分からなかった。けれど、前を歩いている彼女を追いかけることもできなかった。
桜草樹が外へ出て、姿が見えなくなる。静かに扉が閉まる音が響いた瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。立っているのさえ、やっとだった。
回避、したのだろうか。
桜草樹が何も聞いてこなかったのは、柚の態度のせいだったのかもしれない。傷つけたくないと言ったにも関わらず、結果的に傷つけてしまったのかもしれない。自分で大丈夫だと言ったのに、こんなに怯えるのはズルいのかもしれない。けれど、何よりもまず先に、そう思ってしまった。思わずには、いられなかった。
彼女によってもたらされるかもしれない危険を、回避できたのだろうか。
急激な安心感で、胸が破裂しそうだった。柚は、ゆっくり息を吐いた。
これで本当に、凪沙が危惧していたことを防げたのかどうか、分からない。このことが何も関係なくて、これからまた別の出来事が待ち受けているのかもしれない。けれど、膨らんだ安心感は、しぼむ様子を見せなかった。
ふと隣を見ると、困った顔の三ツ花が立っていた。桜草樹についていかずに、柚のことを待っていてくれたようだった。
「ごめんね、三ツ花さん」
声をかけると、三ツ花は小刻みに首を横に振った。
「全然、大丈夫です」
柚は、三ツ花の言葉に軽く頷くと、三ツ花とともに『家』に向かった。
食堂では、男子たちは近くの席に固まって会話をしていた。勝元が中心となっているのもあり、特に険悪な様子もなさそうだった。
一方で、女子はバラバラに昼食を取っていた。桜草樹が座っていた席から少し離れたところに、柚と三ツ花は座った。二人で座ったけれど、会話をする余裕もなく、二人とも黙って食事をしていた。凪沙は、いつの間にか来ていたらしく、誰からも離れた席に、息を潜めるようにして座っていた。
そうして昼食を済ませ、再び会社へ戻り、仕事を再開した。力の抜けてしまった頭を何とか動かして働いていると、気が付けば、何もないままに終わりの時間を迎えていた。




