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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第3章 不和と隠し事

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    覚悟の結果④

 階段を上り終わると、『家』のロビーが見えてきた。そこに、勝元と創の見慣れた後ろ姿を認めて、柚は少しホッとする。咲に相談に乗ってもらった関係で、いつもよりも来るのが遅くなってしまったが、二人はここで待っていてくれたのだろう。


 天瀬と会ったことで消えてしまった覚悟を、もう一度作り直そう、と思った矢先、唐突に、前を歩く凪沙が立ち止まった。予想していなかった動きに、柚は身体のバランスを崩しそうになりながら慌てて止まった。


「どうしたの、凪沙ちゃん」


 柚は、凪沙のことを見た。そして、その様子に、思わず息を止めた。


「……どうして」


 いつも、おかしいくらいに冷静な凪沙の顔。その表情が、驚きと怯えのような感情でいっぱいになっていた。意志の強そうな目は大きく見開かれ、瞳は戸惑っているように微かに揺れている。



「どうして、あの子がいるの?」



 あの子。

 見開かれた目が向けられた先に、柚も目を向ける。



 勝元と創の向こう側にいる、彼らに何か熱心に話しかけている人物。それは、昨日凪沙に強く注意されたはずの、桜草樹だった。


 柚たちの気配に気が付いたのか、勝元と創が振り返った。そして、凪沙の姿を認め、驚いた表情を浮かべる。


「凪沙、来たんだな」


 声をかける勝元の横から、桜草樹も顔を出す。凪沙の姿が目に入った途端、彼女は目つきを鋭くした。


「……うん」

 冷静さを取り戻した凪沙が、軽く頷いた。しかし、そう答えている間も、凪沙の目は桜草樹のことを見ていた。


「桜草樹さん」


 凪沙が、ゆっくりと桜草樹の方へ足を踏み出した。そして、何歩か彼女に近づくと、少し距離を置いたところで、凪沙はピタリと足を止めた。


「昨日、言ったよね。しばらくここに来ないで、って。どうして、来てるの?」


 静かなその声には、いくらか動揺が含まれているような気がした。桜草樹は、しっかりと凪沙を睨んだまま、堂々と答えた。


「私が、それを承諾していないからです」


 桜草樹は、まるでそれが正しいと決まっているような、心の底から正しいと信じているような様子で言い放った。


「何度でも言いますが、私には、どうしてもやらなければならないことがあるんです。何よりも大切な、何よりも優先すべきことです。入月さんの言うことに従う義理はありません。勝手にやらせてもらいます」

「……会社に、また明日からも、来るつもりなの?」


 昨日のやり取りと比べて、二人の立場が逆転しているようだった。気丈な凪沙の言葉は、どこか弱々しかった。


「はい」

 凪沙の問いに、一片の迷いもなく、桜草樹は頷いた。


「入月さんに何を言われようと、私はまた来ます。そうしなければ、ならないので」


 桜草樹は、ただ真っ直ぐに凪沙を見つめていた。何をどうしても、彼女の行動を変えることは出来ない。そう思ってしまうほどに、揺るぎない態度だった。



 凪沙は、しばらく黙って桜草樹を見ていた。それは、どこを狙っても倒せない敵を前にしているような、そんな絶望が感じられる姿だった。



「……分かった」


 耳を澄ましていないと聞こえないくらいの大きさで、凪沙は呟いた。そして柚たちに「行こう」と呼びかけた。


「行くって……?」


 戸惑う柚の手を、凪沙が掴んだ。そのまま、先程上ってきた階段の方へ進んでいく。


「凪沙ちゃん?」


 凪沙に手を引かれるがまま、階段を下りていく。


「凪沙ちゃん、待って」


 凪沙は止まらず進み続ける。後ろから、二人が「凪沙」と呼びかける声が聞こえたけれど、それでも凪沙は止まらなかった。



 だめだ、このままじゃ。


 踊り場まで辿り着く。柚は短く息を吸うと、遠くにいる人に声をかけるように、名前を呼んだ。



「凪沙ちゃん」



 びくり、と凪沙の肩が震えた。進み続けていた足が、スッと止まる。


 止まったのを確認して、柚はもう一度「凪沙ちゃん」と呼びかけた。


「ねえ、どうしたの? 今からどこに行くの?」


 柚に背を向けている凪沙の表情は、よく見えなかった。ややあって、凪沙は小さな声で答えた。


「……ここじゃない、どこか」



 勝元と創も、踊り場まで下りてきた。二人とも、凪沙のことを心配そうに見ている。


「ここに来たら、だめだから」

「それは、桜草樹さんがいるからか?」


 凪沙は、答えない。その様子を見て、勝元は表情を険しくした。


「……なあ、凪沙。お前、さすがにちょっと変だよ」

 心配だという気持ちが滲む声で、勝元は言った。


「何か大変なことが起こるかもしれないって気づいたんだろ。それが何なのか、少しでもいいから俺たちに話すことは出来ないのか? そうすれば、協力できるかもしれないし、こんなふうにお互い不安になることだってなくなる」


「そうだよ。凪沙、すごく苦しそうだから、一人で抱え込まないでほしい」

 創も、訴えかけるように言った。


 握られた手に、きゅっと力が入る。柚は、その手を握り返した。



「……ない」



 消えてしまいそうな声で、凪沙は言った。


「え?」

「分からない」


 今度ははっきりと、そう答えた。


「分からない、って?」

「起こるかもしれないし、何も起きないかもしれない。確信がない」


 凪沙の言葉に、柚は驚いた。てっきり、これから起こる危険に対して、確信とは言わないまでも、ある程度確かな情報を掴んでいると思っていた。


 でも、そうか。


「不確定だから、むやみに話せない。ごめん」

 きっぱりと、凪沙は謝った。弱さの感じられない声色。凪沙は今、どんな表情をしているのだろうか。


「明日からも桜草樹さんはここに来る。それは、さっき話して分かった。だから、明日以降しばらくここに来ないようにしてほしい」

「でも」

「特に柚は、来ちゃだめ」


 手が、さらに強く握られる。名前を呼ばれて、昨日の痛みがまた胸のあたりに戻ってきた。


「……やっぱり、私なの?」


 柚は、凪沙の背中に問いかけた。


「私のために、凪沙ちゃんは頑張ってくれてるの?」


 凪沙は、答えなかった。ただ、強く握られたままの手が、その答えを表していた。


 何が起こるか分からない中で、起こるかもしれない何かから柚を守るために、凪沙は辛い思いをしている。


 階段の上。一階のロビーには、まだ桜草樹と天瀬がいるかもしれない。あの二人が凪沙の発言を聞いていたら、どう思っただろう。自分たちから逃げようとしている柚たちを見て、どう思っただろう。


 凪沙が一人で苦しむのも、桜草樹たちが傷つくのも、全て、柚を守るためなのだとしたら。



『ちゃんと、伝えればいいよ』



 咲の言葉。柚は心の中で頷いた。


「……ごめんね、凪沙ちゃん」


 思えば、こんなふうに凪沙に対立する意見を言うのは初めてかもしれない。それでも柚は、躊躇うことなく口を開いた。



「もう、やめてほしい」



 凪沙が、驚いた気配がした。構わず、柚は続ける。


「もう、嫌だよ。私を守るために、凪沙ちゃんが苦しい思いをするのも、みんなが嫌な思いをするのも。凪沙ちゃんが頑張ってくれるのは嬉しいし、それを嫌だって言ってるわけじゃないよ。危険なことが起こるのも、怖い。けど、それだけじゃ、やっぱりだめだよ」


 もしかしたら、柚は今凪沙を傷つけているのかもしれない。後から起こることを考えずに、またその場の感情で動いているだけなのかもしれない。そう考えると、身体の中で膨らんだ恐怖が、柚の身体ごと破裂してしまいそうだった。


 それでも、そんな状態でも、柚は伝えないといけない。

 口を開けばそこから飛び出そうになる恐怖を抑え込んで、隠して。


 凪沙に、伝えないといけない。

 このままじゃ、だめだから。



「もし、私が守られることで、みんなが――桜草樹さんが傷つくんだとしたら、私はずっと後悔すると思う。凪沙ちゃんがつらそうなのも、見たくない。だから、もういいよ」



 目頭が熱くなる。けれど、そこから涙がこぼれることはなかった。柚は、振り返らない凪沙を真っ直ぐ見つめて、しっかりと笑顔を浮かべた。



「頑張ってくれたのに、ごめんね。何か起こったとしても、ちゃんと、頑張るから」



 今出せる中で一番力強い声で、柚はそう言った。


 心臓の音が、全身に響いている。吐き出す息には、これ以上にないくらいの緊張がまとわりついていた。


 階段で話していて、声が反響していたからだろうか。誰も喋らない状態だと、ここが夢なんじゃないかと疑いたくなるほどに静かだった。柚の鼓動の音だけが、この空間を現実に繋ぎとめているようだった。



「……そうだったね」



 自然と、つないでいた手がほどかれる。手のひらにあった凪沙の熱が、スッと遠ざかる。

 あ、と思うと同時に、ずっと背を向けていた凪沙は、緩やかに振り返った。


「柚は、そういう子だった」


 そう言った凪沙の表情は、息を呑むほど、優しかった。


「ごめん、柚。嫌な思いさせて」

 申し訳なさそうに、凪沙は言った。柚を見つめるその目から、何かを諦めたように力が抜けているのを見て、柚の胸に熱がこみ上げてきた。柚は、きゅっと唇を結ぶと、大きく何度も、首を横に振った。


 柚の様子にフッと微笑んだ後、凪沙はすぐに表情を引き締めた。


「柚は、明日からも会社に行くつもりだよね」

「うん。できれば、なんだけど……」


 柚が頷くと、凪沙は「分かった」と答えた。


「私はこれ以上何もしないし、もう桜草樹さんとも接触しない。でも、一緒に会社には行かせてほしいし、何が起きるか見届けたい。それでもいい?」


 そう言った凪沙は、もう既に、いつも通りの凪沙に戻っていた。柚は、気持ちを落ち着かせるためにゆっくり息を吐くと、「うん」と答えた。


「二人も、明日は来るんだよね?」

 凪沙が、柚の後ろで成り行きを見守っていた勝元と創に問いかけた。二人は、当然だとでも言うように頷いた。


「行ってもいいか?」

「うん。一緒に来て」


 凪沙はそう言うと、改めて、二人の方にも向き直った。


「二人も、巻き込んでごめん。私のことで、何か色々言われたでしょ」

「そんなこと気にしなくていいって」


 勝元は笑顔で答えた。創も、大きく頷いた。


「うん。ありがとう」

 凪沙は微笑んだ。そして、地下へと続く階段の方を振り返った。


「今日は遅いから、もう帰ろう。明日は祝日だから、みんな、朝から来てね」


 その姿を見て、ふと、これでよかったのだろうか、という思いが浮かんできた。


 こうすることが良いと思って行動したのは確かだ。でも、あれだけ必死に動いていた凪沙が、柚が少し訴えただけで、こんなにもすぐにそれを引き下げてしまったことに、今更ながら驚きを覚えていた。


 柚のために行動してくれる凪沙は、どこまで行っても、やはり柚のために行動してくれる。柚が望めば、凪沙は今までの行動を全部無意味にして、放棄してしまう。



 もしかしたら柚は、凪沙の大切な何かを諦めさせてしまったのかもしれない。



「凪沙ちゃん」

「何?」


 柚の呼びかけに、凪沙はすぐに振り返った。柚は、少し迷った後、口を開いた。


「色々ごめんね。ありがとう」


 凪沙は、その言葉を静かに受け取ると、ゆるゆると首を振った。


「柚が謝ることもお礼を言うことも、私は何もしてないよ」


 凪沙は優しく微笑むと、階段を下り始めた。

 柚はその後ろ姿を見つめたまま、凪沙に続いて階段を下っていった。

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