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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第3章 不和と隠し事

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    覚悟の結果③

 一歩前へ進むと、それまで何もなかった家の裏庭に、ぼんやりと『道』の枠が浮かび上がった。木々に囲まれたこの場所は、他のところよりも先に夜を迎える気配を湛えていた。その中で揺らぐ空気の表面を見つめながら、柚はゆっくりと深呼吸をした。



 凪沙が今日来るかどうかは分からない。けれど、来なかったとしても、自分の気持ちを勝元と創に伝えて、凪沙に会いに行こう。もし来たとしたら、そのときはその場で直接凪沙に伝えよう。



 よし。

 気合を入れると、柚は『道』をくぐった。



 感覚が一瞬消えて、一瞬でまた戻ってくる。歪んだ景色の輪郭が、再び綺麗に結ばれていく。目の前に現れたのは、いつも通り、『家』の地下室だった。



 静まり返った、白くて薄暗い空間。存在感を増した鼓動と、それに伴って上がる体温が、その空間に吸い取られてしまうような感覚がした。柚は、小さく息を吐くと、その空間を見回すように視線を動かした。


 と、そのとき、同じ空間に柚以外の人物がいたことに気が付いた。その姿が目に入った瞬間、心臓が、ぐん、と変な動きをする。


「あ、ユズ」


 柚と目が合った天瀬が、柚に対して呼びかけた。彼は、ずらりと並んだ『道』の枠のうち、柚のものから少し離れた場所にある枠の前に立っていた。どうやら、柚がここに来る少し前か、ほとんど同時にここに来たようだった。


 よりにもよって、と内心思ってしまう。もう少し、本当にもう少しだけでも時間をずらしていたら、こうして二人きりの空間で鉢合わせることにはならなかっただろうに、と自分のタイミングの悪さを恨んだ。こんな偶然は、さすがに想定していない。


「お疲れー」


 天瀬は、柚に笑いかけた。その声も、表情も、普段通りに振舞おうという意識を持っているかどうか判断しかねるような、中途半端なぎこちなさだった。


「うん、お疲れ」


 こうして会ってしまったら、戻ることも、無視して先に行くこともできない。柚は、今すぐ逃げ出したい気持ちをぐっとこらえて返事をした。


 いつもなら、ここですぐに天瀬が何か喋ったりするけれど、少し待ってみても、彼は何も言わなかった。動き出す気配もない。


 背後に並んだ『道』。その枠四つ分の距離の先で、天瀬は気まずそうに顔を逸らした。柚も、それに合わせるように顔を背けた。


 早く、ここから離れたい。


 全身の皮膚を、目に見えない何かに撫でられているような感覚がする。猛烈に、巻き戻しボタンを押して二分前に戻りたいと思った。


 どちらかが何かを言うまで、このまま動くことができないような気がした。けれど、何か言おうにも、何を言えばいいのか分からない。天瀬が何をどのように気にして、どう考えているのか、分からない。


 自分の気持ちを三人に伝えよう。そう決めていたのに、その三人に会うことすらできないのだろうか、と情けない気持ちになっていると、突然「あのさ」と天瀬が声を出した。


「え、あ、何……?」


 柚は慌てて天瀬の方を見た。声を出す準備をしていなかったから、間の抜けた声を出してしまった。けれど、いつもならその声を笑う天瀬は、今は少しも笑うことなく柚のことを見ていた。


「えっと、その……」


 柚と目が合って、天瀬は少したじろいだ。先ほど柚に呼び掛けた声は力強かったはずなのに、彼は困ったように視線を彷徨わせている。どうすればいいか分からずに、柚はじっと天瀬を見つめて次の言葉を待った。


 少しの沈黙の後、天瀬は、もう一度柚に向き直った。そして、ゆっくりと口を開いた。


「あの、ユズ、昨日は――」



 と、そのとき、二人の間にある『道』の一つが動いた。枠の中の空気が、油を浮かべた水のように光を反射して光る。その鈍い光の中から現れた人の姿に、柚は息を呑んだ。



「凪沙ちゃん!」



 地下室の床に静かに降り立った凪沙は、緩やかな動きで柚の方を見た。そして、頭を動かして、自分を挟んで柚と反対側に立つ天瀬の姿を見ると、目を瞬いた。


「……ごめん、何か話してた?」

「ううん、大丈夫だよ」

「特に何もー」


 柚と天瀬は同時に答えた。そして、お互い目を合わせないように凪沙のことを見た。


「びっくりしたー。凪沙センパイ、今日は来ないと思ってた」

「来ない方が良かった?」

「いやー、別に」


 すっかりいつもの調子に戻った天瀬が、凪沙に対してニコリと笑った。


「昨日あれだけみんなの前で揉めてたから、来たくないんじゃないのかなって。凪沙センパイはすごいね」

「別に、すごくはないよ」


 凪沙は、自分の前にある床を見つめながら呟いた。その落ち着いた表情に、ふと恐怖や不安のようなものを感じて、柚の胸がギュッと締め付けられる。


「ねえ、凪沙センパイ」


 柚と同様に、凪沙の横顔をじっと見ていた天瀬が口を開いた。



「凪沙センパイは、何でそんなにつらそうなの?」


「……」



 凪沙は、何も答えなかった。


 つらそう、と天瀬は言った。彼の目からも、そう見えてしまうのか。



 凪沙が、黙ったまま歩き出した。一階へ上がる階段へ真っ直ぐに向かっていく彼女に、柚と天瀬は、止めていた足を動かして続いた。

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