事情と衝突⑥
「柚は、どうしたい?」
「わ、私?」
話の流れからして当然の質問ではあったのだけれど、それでも柚に対して突然問いかけられたのに少し驚く。柚は、二人のことをちらっと見ると、少し微笑んで答えた。
「二人の言う通り、明日からは来ないようにするのが良いんじゃないかな。やっぱりお互いぎくしゃくしちゃうだろうし――」
「いいよ」
勝元が、柚の言葉を遮るようにしてそう言った。驚いて勝元の顔を見つめると、彼は困ったような笑顔を浮かべた。
「いいよ、俺たちに気を遣わなくて。俺たちも、絶対にそうしたいって言ってるわけじゃないし、柚がどうしたいのか、ちゃんと聞きたいだけだ」
私が、どうしたいか。
勝元の目は、穏やかで真っ直ぐだった。柚は、少し目を伏せた後、もう一度、その目を見つめ返した。
「私、は」
柚の言葉を優しく促すように、勝元が、そして創も、軽く頷いた。それに押されるようにして、柚は声を出した。
「私は、できれば明日からも行きたい、と、思ってる」
驚かれるだろうか、怒られるだろうか。不安を感じつつ彼らの反応を窺うと、二人はただ静かに「うん」と頷いた。
「理由、聞いてもいいか?」
勝元は、ごく自然にそう尋ねた。柚は小さく息を吐くと、口を開いた。
「さっき少し考えたんだけど、ここに来るのをやめたら、みんなと会いにくくなっちゃうと思って。連絡を取り合うのも、ちょっと難しいし。それに私は、もしこのバイトに行かないことに決めたら、代わりに他のバイトを入れないといけなくなるから、あんまり会えなくなると思う」
ここ一か月間、柚はほとんど毎日このバイトに来ていた。その埋め合わせを別のバイトでするとなると、会う時間を取ることだって、難しくなる。
「さっき勝元くんが凪沙ちゃんに連絡してくれたけど、それの返事のこととかも、聞けないままに、なるかもしれないし。それに、そんなことはないかもしれないけど、もし凪沙ちゃんがまたここに来たら、そのときは会って話したいから」
桜草樹が部屋から走り去ったときの凪沙の様子。彼女の様子を観察しているようだとも感じられた、凪沙の目。もしかしたら、凪沙は自分が取った行動の結果がどのようになったのか確認するために、再びここを訪れることもあるのではないだろうか、と、柚は漠然と思っていた。
それに。
「それにね、私、この一か月、楽しかったんだ」
柚は、目の前にいる二人の顔を見た。柚の言葉が意外だったのか、二人とも少し驚いた顔をしている。それを見て、柚は自然と微笑んだ。
「今まで、お互い忙しかったし、学校も違うからなかなか会えなかったけど、このプロジェクトに参加して、同じバイトやって、ほとんど毎日のように顔を合わせられたから、何か、昔に戻ったみたいだなって思って、嬉しかった」
同じ学校に一緒に通って、放課後も一緒に過ごした小学生時代。あの頃の柚たちは、いつも一緒だった。今よりもっと、距離が近かった。
「ここに参加することだって、危険もあるけど、三人が一緒にいてくれるから参加する決断ができたし、実際いつも本当に心強くて、近くにいることが嬉しくて」
徐々に膨らむ不安が、身体を内側から圧迫する。すごく、苦しかった。
「だから、もし、また会えなくなったら、もし、本当に何か大変なことが起こって、それに巻き込まれたり、そのことを後から聞かされたりしたときに、隣に誰もいなかったらって思ったら……」
その先は、喉が詰まったようになって、言えなかった。
ああ、そうだ。
色々と理由を述べているけれど、結局のところ、ただ怖いだけなんだ。
もしも柚にとって怖い何かが起こったとき、この心強い三人が隣にいなかったら。一人で受け止めて、一人で動かないといけなかったら。もしもそのとき、四人が揃っていなかったら。
今は、凪沙が何かのために一人で頑張ってくれているけれど、その理由が分からないまま、もしも凪沙が遠くに行ってしまったら。柚の見えないところへ、行ってしまったら。何かを抱えたまま、知らない誰かになってしまったら。
もしもまた、この四人が離れている間に、取り返しのつかないほどのことが起こってしまったら。いつの間にか、この関係が終わってしまったら。そんなことを考えると、怖くて仕方がなかった。
これから何が起こるかは分からない。本当に何か起こるのかどうかも、分からない。けれど、何か起きてしまったとき、三人がそばにいてくれなければ、すぐ近くで変わらず立っていてくれなければ、柚はきっと、一人で立つことだってできない。
「……そうだな」
勝元が、静かにそう言った。柚の言葉も感情も全て包んでしまうようなその声に、柚はハッとする。胸を圧迫していた不安が、サッと罪悪感へと塗り替えられる。
だめだ。
こんなのは自分勝手だし、ただの甘えだ。柚一人が我慢すれば、解決することなのに。それなのに、こんなことを言ってしまったら、優しい二人は、柚のことを気遣って、柚に合わせてしまう。
「ごめん、変なこと言って。何か、私、今日はちょっとおかしいみたい」
柚は慌てて誤魔化した。二人が柚の意見に同意する前に、急いでさっきの発言の効力を消さなければ、と柚は口を開く。
「あの、全然深い意味はないよ。ちょっと寂しいなってくらいだから、全然、気にしないで」
天瀬に言われた言葉が、ふと脳内で再生される。四人でくっついて、気持ち悪い。
それだって、きっと柚のせいだ。柚が弱くて、頼りないから。四人に頼って、甘えてしまうから。
凪沙のことだって、柚がこんなに弱くなかったら、自分で危機管理ができて、自分で対処できる能力を持っていたら、たとえ何が起こるか分からないとしても、凪沙があんなことをする必要だってなかったのかもしれない。
守ってもらって、それを黙って受け入れて。そんなのはきっと、ただの甘えだ。
中梛の言葉が刺さったところが、ズキリと痛む。
誰かが中心の、誰かのための世界なんて、あるはずない。皆が柚の弱さを補うために存在しているなんて、ありえない。
皆を犠牲にして、自分だけ守ってもらってばかりで。
こんな状態で、本当に、良いのだろうか。
「だから、えっと――」
「分かった。分かったから一旦落ち着け」
勝元が苦笑いをした。
「とりあえず、柚の言いたいことは分かった。だから、俺の意見も言わせてもらう」
勝元は、柚が落ち着いたのを見て、口を開いた。
「俺も、明日以降も行きたいと思う」
「だめだよ」
柚は思わず声を上げていた。
「だめだよ。さっきのは、何かちょっと変なことを口走っただけだから。それに勝元くんが合わせるのはだめだよ」
「だから落ち着けって。俺がそう言った理由も、ちゃんと聞いてくれよ」
勝元が「なっ」と柚に笑いかけた。柚は、渋々口をつぐんだ。
柚が黙ったのを確認すると、勝元は口を開いた。
「柚も言ってたけど、連絡が取りにくくなるのは俺も考えた。やっぱり大切なことは四人ですぐ共有できた方が良いし、またあんまり会えなくなるのも不安だ。もし危険があった場合も、みんなで対処した方が良いと思う」
「……本当に?」
柚が躊躇いつつ尋ねると、「本当だよ」と勝元は答えた。
「俺だって、連絡が取れないのも会えなくなるのも不安だよ」
「本当に?」
「本当だよ、本当」
心なしか雑な返事だったけれど、柚は素直に引き下がった。
「それに、ああやって言われた翌日から俺たち四人が来なくなるのは、さすがにわざとらしいというか、あからさまというか。中梛や天瀬も、少しは気にするんじゃないかと思う。柚は今まで毎日行っていたわけだしな」
続く勝元の言葉に、柚は、確かにそうだ、と頷いた。柚たちが突然来なくなってしまったら不自然だ。中梛や天瀬が、どの程度柚たちに対して不満があるのか分からないけれど、二人とも悪い人ではないし、少なからず気にしてしまうかもしれない。
「そうなると、もう仲を改善することは難しくなる。せっかく知り合ったんだし、最初と比べてかなり仲良くなったんだから、俺は他の六人ともいい関係を築ければいいとは思ってるよ。仲良くなれば、これから起こるかもしれない危険を防げたり、一緒に対処したりできるかもしれないし。だから、俺は行こうと思う」
「……そっか」
柚の意見に合わせるために、咄嗟に考えたのかもしれないけれど、そんなふうにしっかりと理由を言われたら、だめだ、なんて言えない。柚は、「分かった」と答えた。
「……僕も行くよ」
おもむろに、創が口を開いた。
「創も?」
勝元が、微かに焦った表情を見せた。
「別に、俺たちに合わせなくたっていいんだぞ。元々創は、そんな頻繁にアルバイトの方には参加してなかったわけだし」
「うん。だけど、二人の言ってることも分かるし、僕も思ってたから。それに、みんなが頑張ってる中で、自分だけ無関係でいるのは嫌だし、何か大事なことがあるなら、僕もそれをみんなと共有できたらいいなって、思って」
「そっか」
そう答えた勝元と、一瞬目が合う。表情こそ平常通りであるものの、勝元の目には、微かに焦りが残っていた。
創を、そこに行かせてもいいのか。
勝元が考えているのは、きっとそれだ。柚も、少し不安になる。
柚が行きたいと言わなければ、創はおそらく、行かない、という選択をしただろう。それが、どのような結果に繋がるのかは、分からないけれど。
創が来てしまったら、凪沙は。
「……やっぱり、行かないでおこうかな」
創が、少し眉を寄せて微笑んだ。数十秒前の発言を取り下げたことに、柚はドキリとする。
考えていたことが顔に出てしまっていただろうか。人のそういうちょっとした感情の動きに、創は恐ろしいほどに敏感だ。
「僕が行くと、迷惑かけるかもしれないし」
何でもないことのように、創はそう言った。それに、勝元は「いや」と首を振った。
「そんなことないよ。三人揃った方が、きっと良い。創が自分で行きたいって思ったなら大丈夫だ」
勝元が笑うと、創はホッとした表情を浮かべた。
「ありがとう。じゃあ、できる限り、一緒に行こうかな」
そう言いつつも、創の顔はどこか不安げだった。それに気が付いて、柚は「うん」と大きく頷いた。
「ありがとう。よろしくお願いします」
「ああ、よろしくな」
勝元も、しっかりと頷いた。
「また明日ここに来よう。凪沙から返信があれば、そのときに伝える。色々辛いと思うけど、取りあえずは様子を見ながらって感じだな」
「うん」
柚と創は頷いた。
「じゃあ、そろそろ帰るか――っとその前に」
勝元が、柚の顔を見て、軽く笑った。
「柚、一回顔洗ってくるか?」
「あ」
柚は頬を押さえた。乾いた涙のせいで、頬の表面がパキパキになってしまっている。泣き顔なんて、二人には今までに何度も見られているけれど、何となく恥ずかしさを感じて、柚は俯きがちに頷いた。
「洗ってくる」
「うん。ゆっくりでいいよ」
創の言葉に頷きつつ、柚は部屋を出ると、手洗い場の方に向かった。
結局、二人に合わせてもらってしまった。
歩きながら、柚は思った。
それぞれ、最後は自分の意思で決断した様子には見えたけれど、それでも、柚がああ言わなければ、二人はまた違う答えを出していたのではないだろうか。柚が心配だから、柚のために合わせてくれたのではないだろうか。
じゃあ、凪沙は?
瞼の裏に焼き付いた、桜草樹を傷つける凪沙の姿。柚のために、凪沙があんなことまでしたんだとしたら?
守られてばかりで。
それで、本当に、良いのだろうか。
『人のこと傷つけて、それで自分らは守ってもらえて、それで満足かよ』
ズキリ、と胸が痛む。
分かっている、と、もう何度も心の中で繰り返した言葉を、もう一度呟く。
分かっている、そんなこと。
手洗い場に着く。鏡に映った顔。情けない、自分の顔。
分かっている。頼ってばかりで、甘えてばかりで。
じゃあ、私は。
本当に、これで良いのだろうか。




