『司者』⑥
仕事の内容が簡単な雑務だったからか、彼女自身が優秀だったからか、桜草樹は、その日の勤務が終わる頃には、かなりこの環境にも慣れた様子だった。仕事を教えるように言われていた三ツ花も、教えることはほとんどなかったと、昼休憩の際に話していた。
「やっぱり優秀だね、桜草樹さん」
更衣室で着替えをしながら柚が言うと、三ツ花も「はい」と同意した。
「むしろ、私の方が足を引っ張っているんじゃないかってくらいで」
「うーん、私ももう負けてる気がするなあ」
やっぱり元が違うのだと、柚は思った。もちろん、本人の努力あってのことだろうけど。
「桜草樹さん、なかなか来ないね」
柚は、更衣室の入り口の方を見た。終業時間となり、一緒に着替えに行こうと誘ったが、彼女はやりたいことがあるからと、どこかへ行ってしまった。彼女が何をしようとしているのかは、今までの様子から、大体予想がついていた。
「やっぱり、『司者』のこととか、魔法関連のことを知りたくて、急にバイトに来たのかな」
昨日、彼女は社長との会話の中で、『司者』について調べている、と明確に述べていた。今朝の言動からしても、『司者』について詳しく知っていた社長なら、より詳しい情報を持っていると踏んで、尋ねるタイミングを窺っているだろうと思われる。
「そうだろうね」
凪沙が、柚の言葉に同意した。
「多分、今は景山さんに色々聞いているよ」
「景山さんに?」
社長に会えないからその代わりに、ということだろうか。社長と共にこの『特別プロジェクト』を進めている景山なら、もしかしたら何か知っているのかもしれなかった。それに、今朝、桜草樹に対して言っていた意味深な発言も気になる。
「景山さんも、何か色々知ってるのかな」
「さあ。知ってたとしても、答えてはくれないだろうけど」
凪沙はすげなくそう言った。確かに、答えてくれなさそうだけど、と柚は景山の顔を頭に浮かべながら思った。
と、そのとき、入り口の扉がノックされる鈍い音が響いた。間もなくして、桜草樹が更衣室に入ってきた。その顔は、傍から見ても明らかなほど落胆した表情をしていた。おそらく、景山から何も聞き出すことができなかったのだろう。
桜草樹は、何か考え事をしている様子で、無言で自分の服が入っているロッカーの前に移動した。彼女が入ってきたことで、何となく黙ってしまった中、桜草樹の動く音だけが聞こえていて、気まずさに身体がムズムズした。
「お、お疲れさまです」
声をかけてみると、桜草樹は勢いよく顔を上げて、少しバツの悪そうな顔で柚を見た。
「お疲れさまです」
はっきりとした発音で、桜草樹は返事をした。そして、凪沙と三ツ花にも同様に「お疲れさまです」と声をかけた。どうやら、考え事に夢中で、柚たちの存在は意識の外にあったらしい。
「初めてでしたけど、もう、慣れましたか」
「はい。ありがとうございます」
「……」
「……」
会話が、できない。
桜草樹の様子を見るに、あまり話したい雰囲気ではなさそうだった。けれど、ここは友好的に、もっと話しかけた方が良いのだろうか。それとも、一度引いた方が良いのだろうか。コミュニケーションが分からない。
どうすればいいのだろう、と色々考えているうちに、沈黙が続いてしまい、声が出しづらい状況になってしまった。柚は諦めて、沈黙したまま、脱いだバイトの制服をハンガーにかけた。
柚は、気づかれないようにそっと、桜草樹のことを横目で見た。今まで、誰も使っていなかったロッカー。その前に誰かがいるという光景に慣れるまでは、もう少しかかりそうだった。
「……桜草樹さん」
唐突に、凪沙が口を開いた。驚いて、凪沙以外の三人が、彼女の方を向いた。
「何でしょうか」
名前を呼ばれた桜草樹が、少し警戒した顔で尋ねた。それをちらりと見た後、凪沙は桜草樹から視線を外して言った。
「しばらく、社長はここに来ないと思うよ。多分、ここに来ても会えない」
桜草樹は、唇をきゅっと結んで、真っ直ぐ凪沙の横顔を見つめた。
「……どうして」
ややあってから、桜草樹は口を開いた。
「どうして、入月さんがそれを知っているのですか。誰かから聞いたのですか」
「……うん」
凪沙は、桜草樹の方を見ないまま、静かに頷いた。
「社長から直接聞いた。今朝、偶然会って、そのときにそう言ってたんだ」
桜草樹は、信用できるか見定めるように、じっと、凪沙の顔を見つめ続けている。しばらくそうした後、桜草樹は凪沙から視線を背けた。
「そうですか」
小さな声でそう言ったきり、桜草樹は黙り込んでしまった。その顔は、更衣室に入ってきたときと同様、落胆した表情だったが、その中に、どこか迷っているような雰囲気も感じられた。
そんな彼女の横顔を、今度は反対に、凪沙がじっと見つめていた。じっと、見定めるように。けれどもその視線は、先程まで桜草樹が凪沙に向けていたものよりも、ずっと冷静で、ずっと鋭かった。
しばらくして、桜草樹が着替え終わると、柚たちは四人一緒に更衣室を出た。
先に帰ってもよかったのかもしれないけれど、向かう先は同じであるし、桜草樹を歓迎していないようになってしまうのも気がかりだった。柚も三ツ花も、そして凪沙も、先に行こうと言い出す人はいなかったため、気まずい沈黙の中、一緒に帰ることになった。
廊下に出ると、そこには中梛以外の男子メンバーがいた。どうやら、柚たちのことを待っていたみたいだった。
「お、四人とも来たな。じゃあ行くか」
勝元の言葉で、柚たちは皆、ぞろぞろと『家』へ向かった。
道中、誰も、一言も話さなかった。人と話すのが得意な勝元も天瀬も、今日は黙ったままだった。二人とも、昼休憩では積極的に桜草樹に話しかけていたけれど、彼女の反応があまり良くなくて、これ以上はやめておいた方が良いだろうと判断したようだった。
そして、桜草樹に話しかけない手前、いつものように他のメンバーだけで盛り上がるのも憚られた。桜草樹がどんな目的を持っていて、何を悩んでいるかは分からないが、彼女を刺激しない話題というのも、現状なかなか難しい。その結果、『特別プロジェクト』初日でさえ見られなかったほどの空気の悪さが、メンバーの周囲を満たしていた。
息苦しい。
桜草樹のことを責めてはいけないけれど、それでも、彼女が来なければ、と思ってしまう。
せっかく、この環境にも慣れてきて、以前よりもメンバーとの仲も深まってきたところだったのに。どうして、こんなに居心地の悪さを感じなければならないのだろう。どうして、後から急に来た一人のせいで、こんな気持ちにならなければいけないのだろう。
柚は、前を歩く凪沙をそっと見た。更衣室で彼女が言っていたことが本当かどうかは分からないけれど、あの言葉からは、もう桜草樹に来てほしくない、という意思が感じられた。あの言葉を、桜草樹はどう捉えたのだろう。
結局誰も喋らないまま、『家』に辿り着いた。『家』に入ると、ソファーに座っていたルリが「おかえりなさいです」と言った。それと共に、内容はよく聞き取れないが、ニュース番組のアナウンサーの声が聞こえてきた。
「ルリちゃん、今日もテレビ見てるの?」
天瀬が近づいて尋ねると、ルリはテレビの画面から目を離さずに「はい」と答えた。
「ニュースを見てるです。何か、大変なことになってるみたいです」
「大変なこと?」
天瀬が、画面に目を向けた。そして、小さく「え」と呟いた。その顔から、いつもの軽い笑顔が抜け落ちたのを見て、柚たちも急いでテレビが見える位置に移動した。
「――え」
乾いた呟きが、口から漏れる。
画面に踊る文字。『速報』と赤く囲まれた表示。
『今朝、R県T市で、女の子の遺体が発見されました』
深刻な顔のアナウンサーが、明瞭な声で原稿を読み上げる。
『発見された遺体は、今月初めにT市で魔法使いに誘拐された女児であることが判明しました』
「これって」
勝元が、柚の方を見た。柚は頷く。
そうだ。あのときの、柚が魔法使いの攻撃に巻き込まれかけた誘拐事件の、被害者の子だ。
映像が切り替わる。発見された場所の映像。黄色のテープで囲まれ、警察の人が横切るその風景は、柚のよく知っている、柚の家からそう離れていない場所だった。
『遺体は、何らかの液体で濡れた状態で、身体に火傷のような跡も見られました。また、腕や足が片方ない状態で、複数箇所から出血した様子も見られました。身体にかなり強い負荷がかかったと見られ、魔法使いの攻撃を受けたか、あるいは魔法研究者により実験に利用されたことが考えられます』
画面に映ったブルーシートが、妙に生々しかった。柚は思わず口元を押さえた。
自分がいたすぐ近くで、誘拐された女の子。
自分が生活しているすぐ近くで、死体として捨てられた女の子。
どれほど残酷な扱いを受けたのか、どれほど壮絶な最期を遂げたのか。考えただけで足が竦んだ。それが、本当にすぐ近くで、柚の生活している裏側で行われていたのだということが、ただ怖かった。
「――どうして」
ふと、誰かの微かな声が聞こえた。特にその声の主を探そうという気もなく、後ろを振り返ってみて、柚は小さく息を呑んだ。
声を発したのは、桜草樹だった。血の気が引いた、病的なほど白い顔をした彼女は、目を見開いて、食い入るように画面を見つめていた。その顔は、まるでその女の子の親族であるかのような衝撃と絶望を張りつけていた。
「どうして、こんな――」
ぎこちなく動く唇の隙間から、嘆くような声が漏れた。
「私、私は――」
桜草樹は数歩、何かに怯えるように後ずさった。そして、紐を切られた操り人形のように、突然カクリと膝を曲げて倒れかけた。あ、と口に出しそうになるのと同時に、桜草樹の近くにいた櫟依が慌てて彼女を支えた。
ガタ、と近くで窓ガラスが震えた音がした。皆が一斉に桜草樹の方に意識を向けたからだろうか、固まっていた空気に流れが生じたように感じた。
「だ、大丈夫?」
櫟依が尋ねると、桜草樹の身体がびくりと震えた。彼女は、片方の腕で自分を抱きしめるようにして、もう片方の手で口元を押さえていた。床の方に向いた目は、ずっと見開かれ続けている。
「……すみません」
桜草樹は、か細い声でそう言った。そして、パッと櫟依から離れると、逃げるように走っていってしまった。
少しして、階段を駆け下りる音が聞こえた。地下に向かったようだった。
「……どうしたんだろう、桜草樹さん」
皆が呆然と桜草樹が向かった方を眺める中、勝元が口を開いた。
「かなりショック受けてたけど」
その言葉に、皆が頷いた。
「でもさ、確かに辛い事件だけど、あそこまでになるのはびっくりした」
天瀬が、純粋に思ったことを口にした、というふうに言った。
「あの女の子と知り合いだったとか――はさすがにないよね。住んでる場所も生活も全然違うし、関わりがあったら普通にびっくりする」
確かにそうだ。桜草樹は、都心に近い場所に構えた大豪邸に住む、この国有数の財閥の娘。一方で、事件の女の子は、そこからずっと離れたT市に住んでいる普通の小学生だ。それに加え、桜草樹は、『特別プロジェクト』初日に柚たちがT市出身だと告げたときの反応を見ても、決してT市にいい印象を抱いていなさそうだった。この二人に接点があったと考えるには無理がある。
しかし、あの桜草樹の様子は、ただ痛ましい事件の報道を見てショックを受けた、というだけでは説明が付かない気がする。ショックを受けるには十分なほど酷い事件であることは、確かなのだけれど。
柚は、ニュースを見た後の桜草樹の発言を思い出した。
『どうして』
『私は』
怯えた声で、うわ言のように呟く桜草樹。何かに対して震えていた、桜草樹。
「そうなると、やっぱり――」
その言葉も、その態度も。
「やっぱりあの様子だと、桜草樹サンが、事件の――」
事件の、関係者じゃない限り。
「天瀬」
ふいに呼ばれた名前で、天瀬の声が止められた。声を出したのは、櫟依だった。
「さすがに、それは」
そう言いつつ、櫟依は天瀬から視線を外して、俯いた。その顔に、困惑と、後ろめたさのような感情が浮かんでいるのを見て、天瀬は素直に「うん」と答えた。
「わかってる。ごめんね」
「……うん」
櫟依が小さく答えた。それを機に、柚たちの周りは、重い沈黙で満たされた。
誰も、何も言わなかった。
『――亡くなったのは、小学二年生の――さん。友人の家に遊びに行き、自宅へ帰る途中で誘拐されました。事件現場は、自宅から百メートルほどしか離れていない場所であったということです』
静まり返った中、アナウンサーの声だけが、まるで画面を超えてこの空間を支配しようとしているように、存在していた。
『――通っていた小学校の先生に話を聞くと――』
プツ、と、突然音声が途絶えた。驚いて見ると、創がリモコンを持ち上げて、電源ボタンに指を乗せていた。
皆の視線が集まっていることに気が付いて、創は「ごめん」と言った。
「ごめん。もう、見たくなくて」
「……いや、いいよ。ありがとう」
勝元が、創を見て微笑んだ。他のメンバーも皆、黒に落ち着いたテレビ画面に、少し安堵した様子だった。
「今日は、もう解散しよう」
勝元が提案すると、皆、各々同意を示した。そして、「お疲れさまです」と告げて、それぞれの方向に歩いていった。
「凪沙」
皆が移動する中、創が凪沙の名前を呼んだのが聞こえた。
「凪沙、大丈夫?」
心配そうなその声に、ふと心が翳る。柚は、会社を出てから一言も発せずにいる凪沙の方を見た。
凪沙は、ただ静かに目を伏せていた。その顔には、特別はっきりとした感情は浮かんでいなかった。けれど柚には、その顔から、やるせない気持ちが読み取れた。
ああ、そうか、と柚は納得した。目立つ行動を避けている創が、あの空気の中でテレビを消したのは、きっと凪沙のことを気遣ったからだ。
あの報道を見て、凪沙は一体、何を思ったのだろう。
「大丈夫。特に何もないよ」
凪沙は、創の心配が的外れであったかのように、至って落ち着いた様子で答えた。
「待たせてたならごめん。私たちも早く帰ろう」
そう言った凪沙の顔色は、心なしか悪く見えた。
誰にも、声をかけた創にすらも目を向けずに歩き出した凪沙に、柚たちはただ「うん」と答えて後に続くことしかできなかった。




