テレビの報道⑥
食堂のドアがゆっくり開く。そこに姿を現したのは、桜草樹だった。
「一華ちゃん、久しぶり」
葵が声をかけると、桜草樹も「お久しぶりです」と、愛想のない表情で応えた。
「今日はどうしたの?」
「いえ、特に用はありません。少し寄っただけです」
桜草樹は、もうお決まりとなった言葉を口にした。葵も、もうその答えが返ってくるのを予想していたようで、「そっか」と軽く答えた。
「さっき、テレビをつけてたのも、一華ちゃん?」
「はい。前に来たときにはなかったので、気になって。勝手に触ってしまってすみません」
「いいよ。あれはみんなのだから、自由に使ってね」
そう言って、葵は桜草樹に笑いかけた。それに、少し表情を和らげて、桜草樹は「ありがとうございます」とお礼を言った。
「そうだ。せっかくだから、一華ちゃんの分のクッキーと紅茶も持ってくるよ。少しだけでもゆっくりしていってね」
葵が厨房の方に歩いていく。それに、もう一度お礼を言うと、桜草樹は柚たちの方に目を向けた。二人を見つけた途端、ふと、桜草樹の表情がほんの少しだけ翳ったような気がした。
桜草樹と目が合う。ここは、挨拶をすべきだろう。柚はなるべく笑顔で桜草樹に挨拶をした。
「こんにちは」
「ごきげんよう、白葉さん」
まるで卒業式や何かの式典にでも参加しているような調子で、桜草樹は言った。挨拶が返ってきたことに、とりあえず、柚はほっと息を吐いた。
「今日はお二人なんですね」
桜草樹は、柚と凪沙を交互に見るようにしながらそう言った。柚と凪沙と、どちらが答えるべきだろうか、と迷ったけれど、短い沈黙を確認して、柚は慌てて「そう、なんですよ」と答えた。
「私が、その、たくさん課題が出たから、凪沙ちゃんに教えてもらってて」
「そうなんですね」
自分から聞いたにもかかわらず、興味がなさそうな返事だった。何なんだよ、という言葉を、柚は飲み下した。
桜草樹は、「失礼します」と柚の席から一つ離れて隣の椅子を引いた。そして、柚のことをちらりと見た。何やら柚のことを気にしている様子だった。
柚は何となく居心地が悪くなって、凪沙の方に視線を移した。そして、柚はドキリとする。凪沙は、なぜか桜草樹のことを凝視していた。
凪沙のこの目を、柚は知っている。今まで何度も、そして少し前にも、見たことがあった。
「今日は、創はいないよ」
凪沙が静かに言った。椅子に座りかけていた桜草樹は、その姿勢のまま、動きを止めた。
何のことだろう。柚は、呆気にとられたように凪沙を見た。
彼女は、桜草樹のことを、じっと、静かに見つめていた。何の感情も感じ取れない、身がすくむような、深い目だった。
「何ですか、突然」
微かな震えが感じ取れる声で、それでも気丈に、桜草樹は言った。止めていた動きを再開し、落ち着いた様子で椅子に座った。
「見れば分かりますよ、そんなことくらい」
「柚にも、何も聞かないで」
凪沙は、桜草樹の言葉なんてまるで聞こえていない様子で、そう続けた。突然自分の名前が出てきて、柚は軽く混乱する。
私に何も聞かないで、って、どういうことだろうか。
柚が、何かしたのか。創がいないことと、何か関係があるのだろうか。凪沙が桜草樹にそんなふうに言う理由に、見当がつかなかった。
「白葉さんに聞くって、何を――」
「桜草樹さんが聞こうとしていたことだよ」
悠然とした態度の凪沙を、桜草樹は口をきゅっと引き結ぶと、睨むように見た。二人の強い視線が、正面からぶつかり合う。
「何でそんなに興味を持っているのかも、何を考えて動いているのかも知らないけど、前みたいなことをされると本当に迷惑だからやめてくれる?」
「でも、前は――」
「確かに謝ったし、途中でやめた。けれど、また同じことをしようとしている。桜草樹さんにとっては意味があるのかもしれないけれど、そのせいで創や柚に何かあったら責任が取れる? 自分が話そうとしていることの意味を、もう少しちゃんと理解してほしい」
「……理解していますよ。その上で――」
「どんな理由があったって、私は許さない」
桜草樹の言葉を遮って、凪沙はそう言い放った。とても静かで、強い言葉だった。
桜草樹がぐっと黙り込んだ。凪沙の圧力に潰されそうになりながらも、目だけはしっかりと、凪沙のことを捉えていた。柚は、桜草樹さんはやっぱり強いな、と場違いにも思った。
凪沙は、そんな桜草樹の様子に少し目を細めると、冷静さは崩さず、それでも今までの言葉よりずっと鋭い口調で言った。
「もし、そういう話をするためだけに柚や創に近づこうとしているんだとしたら、絶対に近づかないでほしいし、話しかけないでほしい。そんなに軽々しく口にしていい話題じゃないんだよ」
そして、凪沙はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「本当に、迷惑だから」
「……っ」
桜草樹が顔を歪めた。そして、とうとう凪沙から目を逸らして俯いた。食いしばった歯の隙間から「どうして」と言うつぶやきが聞こえた。それがあまりにも苦しそうで、柚は思わず「桜草樹さん」と呼び掛けた。
咄嗟の柚の呼びかけに、桜草樹は顔を上げなかった。続く言葉が出てこなくて、柚はそのまま口を噤んだ。
「急にどうしたの、二人とも」
突然、近くから声が聞こえた。とげとげしい空気の中、それを拭いとるような優しい声。振り返ると、葵が近くに立っていた。柚は気が付かなかったけれど、少し前から近くにいたみたいだった。
「とりあえず、お菓子とお茶、持って来たから、一華ちゃんも食べて。食べれば少しは落ち着くと思うから」
葵がそっと、桜草樹の前にお皿とカップを置いた。桜草樹は、それに目も向けず、黙り込んだまま俯いていた。
葵は諦めずに、桜草樹に笑いかけた。
「きっと美味しいと思うよ。あ、無理して食べなくても大丈夫だからね」
桜草樹は、なおも黙っていた。その様子を窺っていると、少しだけ困った様子の葵と目が合った。柚の表情を見て、葵は眉を下げて微笑んだ。
「そうだ。さっき柚ちゃんと、またお菓子づくりをしたいねって話してたんだけど、良かったら一華ちゃんも一緒にどうかな。忙しいと思うけど、せっかくだから、みんなと仲良くなれるとい――」
「やりませんっ」
突然、桜草樹が大きな声で葵の言葉を遮った。その大きさに、柚の身体がびくりと震えた。葵も、柚ほどではないけれど、少し驚いた顔をしていた。
桜草樹は俯いたままだった。机の上で固く握られた拳は、微かに震えていた。
「そんな不必要なことをやっている暇はないんです。私にはもっとしなければならないことがあるのに、何よりも優先しなければならないことがあるのに、そんなどうでもいいことなんて――」
と、急にハッとして、桜草樹は顔を上げた。そして、そのまま勢いよく葵の方を見た。
桜草樹の顔が、ふと、泣き出しそうに歪んだ。彼女は、今までとは打って変わって、か細い声で「……すみません」と言った。
「すみません。私、また」
「いいよ。気にしないで」
葵が、そっと微笑んだ。今にも泣き出してしまいそうな桜草樹の涙を、ギリギリのところで止めようとしているような、繊細で丁寧な笑顔だった。
「きっと大変なんだよね。もし話したいことがあったら、いつでも相談に乗るからね」
「……はい」
弱々しく返事をすると、桜草樹はゆっくりと立ち上がった。
「今日はもう帰ります」
小さな声でそう言うと、桜草樹は顔を伏せたまま食堂を出ていった。
扉が閉まる音が響く。あんなことがあった後でさえも規則正しい足音が完全に聞こえなくなると、食堂の中にしんとした空気が落ちた。空席の前に置かれたカップから立ち上る湯気だけが、それでも優しく微笑むように揺らいでいた。
「……大丈夫かな、一華ちゃん」
葵が、扉の方を見つめたまま呟いた。柚も同じように、もう向こう側に桜草樹のいない扉を見た。
桜草樹がきつい物言いをする場面にも、それを反省して謝る場面にも出くわしたことがあるけれど、今日ほどに余裕がない彼女を見るのは初めてだった。まだよく知らない人に対して言うことではないのかもしれないけれど、桜草樹がここまで感情をぶつけてくる人物だとは思っていなかった。
「ねえ、凪沙ちゃん」
葵が、ゆっくりと視線を動かして、凪沙のことを見た。
「凪沙ちゃんにも、何か思うところがあるのかもしれないけれど、さすがにあの言い方はひどいんじゃないかな」
責めるような雰囲気のない、落ち着いた声。それでも、純粋な怒りがそこに含まれているように感じ取れた。
凪沙は、のんびりと表現する方が良いくらいに緩やかに顔を動かして、葵を見上げた。そして、「そうかもしれませんね」と答えた。
「そ、そうだよ」
柚は、葵が再び何か言う前に、慌てて口を開いた。
「凪沙ちゃんのことを良く知らない人が見ると、凪沙ちゃんって結構怖いんだよ。言い方がストレートというか、目力が強いというか。それと、一華ちゃん、凪沙ちゃんより二学年も下なんだから、きっとびっくりしちゃったんだよ。それに――」
それに、凪沙があんな厳しいことを言った理由を、さすがに柚も分かっていた。
晒されて責められることなく生きていこうとする上での、要注意人物。凪沙の発言からすると、彼女は、柚や創に、以前した不思議な体質についての話の続きを聞くために接触しようとしていた。だから凪沙は、彼女の行動を牽制しようとして、あんなことを言ったのだ。もちろん、柚や創を守るために。
「そんなに心配しなくても、私なら大丈夫だよ。桜草樹さんだって、ちゃんとやめてほしいって言えばやめてくれるし、そんなに悪い人じゃないと思うよ」
現に、もう一人の要注意人物である天瀬は、皆の前で柚の体質について言及したことを、かなり気にしていた。きっと桜草樹だって、そこまで気が遣えない人ではないだろう。
「私の体質とかについて聞かれたって、そんなに大変なことにはならないだろうし。だから大丈夫。いろいろありがとう、凪沙ちゃん」
柚が笑ってそう言うと、凪沙も薄く微笑んで「うん」と答えた。その様子に、柚はほっと息を吐いた。
「でもね」
凪沙は、微笑んだまま、視線を柚から机の方へと向けた。お皿でもカップでもない、実体のない別の何かを机の上に見ているような雰囲気だった。
「でも、大丈夫じゃなかったんだ」
「え?」
凪沙は、顔を上げなかった。代わりにもう一度、「大丈夫じゃなかった」と呟いた。
「凪沙、ちゃん……?」
葵も、凪沙のただならぬ様子に困惑しているようだった。ついさっきまで見せていた怒りも、綺麗に消えていた。
と、そのとき、閉じられていた入り口の扉がガチャリと開く音がした。ハッとしてその方向を見ると、何とも言えない顔をした男子メンバーたちが、そろそろと食堂に入ってきていた。
腕時計を見ると、その針は確かに終業時間を過ぎた時間を指していた。思っていたよりも時間が経過していたようで、柚は密かに驚いた。
「あー、えっとつまりー」
先頭で食堂に入ってきた天瀬が、柚たちの方を見るなり、妙に納得した顔をして、開口一番にそう言った。
「凪沙センパイが桜草樹サンのこと、いじめたんだー」
「別にいじめてないよ」
凪沙は、机に視線を向けたまま答えた。
「ただ、ちょっと忠告しただけ」
「え、何それ怖い」
不良とかが言うセリフじゃん、それ、と天瀬は可笑しそうに笑った。
「桜草樹さんに会ったの?」
凪沙が、天瀬を無視して、天瀬の後に入ってきたメンバーに向かって尋ねた。それに、勝元が代表して「ああ」と答えた。
「会ったというか、俺たちが会社から戻ってきて『家』に入ったときに、ちょうど桜草樹さんが歩いているのを見かけたって感じだな。向こうはこっちに気付いてなかったみたいだけど」
「そっか」
凪沙は勝元を少しの間見つめた後、また視線を目の前の机に戻した。
「泣いてた?」
「うーん。少し距離があったし、俯いてたから何とも言えないけど、それらしい感じではあったかな」
何とも曖昧な言い方で、勝元は答えた。勝元がこういう言い方をしたということは、きっと桜草樹は堪えられず泣いていたのだろう、と柚は思った。
「何があったかは知らないけど、桜草樹さんをあんなふうにするなんて、かなりきついこと言ったんじゃないのか」
「まあ、多少強く言ったことは認めるよ」
近くまで来た勝元を見上げて、凪沙は悪びれもせず答えた。
「でも、ああいう子にはちょっと言いすぎなくらいがちょうどいいんじゃない?」
「ちょ、それはさすがに……」
「言ったでしょ、忠告だって。必要だからそうしてるだけ」
凪沙はきっぱりとそう言い切った。その言葉は、他の人の言葉が滑り込む隙が全くないくらいに、揺るぎないものだった。
「お前はまたそうやって……」
勝元は、ため息を吐くように言った。そんな勝元の様子を気にも留めない様子で、凪沙はふいと彼から視線を逸らした。
勝元の後ろで、創が心配そうに凪沙の様子を見ていた。柚と目が合うと、彼は弱々しく柚を見つめて、すぐに目を伏せた。その口が悔しそうにきゅっと結ばれるのを見て、柚の心に、やるせない気持ちが波のように押し寄せてくる。
分かっている。凪沙は、柚たちのために、こんな役を買って出てくれている。ここで何かを言えば、凪沙のその思いや覚悟を否定してしまうことになるのかもしれない。
でも、そうだとしても。
どうして、柚たちはただそれを見ていることしかできないのだろう。
「まー、凪沙センパイに何か考えがあって、その上でやってるんだったら、オレは別にいいけどね。桜草樹サンだって、ちょっと強く言われたくらいでどうにかなる子でもないだろうし、またすぐに来るよ」
場違いなほど気楽そうな声で、天瀬はそう言った。
「でも、さすがに泣かせちゃうのはかわいそーだから、ほどほどにしてあげてね」
「それであの子が聞き入れてくれるなら、そうするよ。私だって、泣かせたいわけじゃないんだ」
凪沙は静かに答えた。そんな様子の凪沙に、天瀬は困ったなあ、とでも言いたそうに眉を寄せた。そして、彼は、座っている凪沙を覗き込むように、少し身体を傾けた。
「だいじょーぶ、安心して。ちゃんとオレも気を付けるからさ」
凪沙は、何も答えなかった。
少しの間、凪沙の顔を見つめた後、天瀬は「よし」と身体を起こした。
「じゃ、オレは部屋に戻りまーす。お疲れ様でーす」
そう言うと、天瀬はスタスタと食堂から出ていった。それをきっかけに、他の参加者たちも、周囲を窺いながら順に部屋を後にする。
「凪沙ちゃん」
周りの注意が凪沙から逸れたことを確認して、柚は凪沙に呼び掛けた。
「えっと、あの……」
「ごめん」
凪沙は短くそう言った。柚はハッと口をつぐむ。
彼女は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「ごめん、今日は先に行くね」
その目は伏せられたままで、柚のことは見ていなかった。ただ、その言葉に弱々しさはなく、通常通り、凪沙の気の強さが感じ取れる声だった。今日自分が言ったことに少しも疑いを抱いていないような、それこそ、必要だからそうしただけだというような。
柚がかろうじて「うん」と返事をすると、凪沙はすぐに食堂から出ていってしまった。その背中を、柚と、そして創と勝元は、黙って見送ることしかできなかった。




