テレビの報道⑤
テレビがロビーに置かれ始めてから、数日が経った平日の夕方。普段通りであればアルバイトのため会社に向かうのだけれど、今日は、柚は食堂を借りて学校の課題をしていた。無計画にも先生が急に大量の課題を出してきたため、それに取り組まなければならなかったからだ。
「何でこんなことやらなきゃいけないのかなあ」
「柚が今までやってなかったからでしょ」
柚の向かい側に座った凪沙が、何を当たり前なことを、とでも言いたそうな顔をした。
今日は、凪沙も柚の課題に付き合ってくれている。一つ学年が上であり、成績も良い凪沙は、時々こうして柚に勉強を教えてくれる。基本的にどの教科もできるけど、帰国子女と言うだけあって英語は特にできる。英語が苦手な柚にとっては、ありがたいことこの上なかった。
「バイトで忙しかったんだよ」
柚が言い訳を口にすると、凪沙は仕方がないな、というふうにため息を吐いた。
「言っても無駄かもしれないけど、あんまり無理しちゃだめだよ。まあ、柚が頑張りたいっていうんだったら止めないし、私が手伝えることは手伝うけど」
「うん。ありがとう」
お礼を言うと、凪沙は短く「うん」と答えた。
「でも、凪沙ちゃんこそ良いの? 受験生で自分の勉強もあるのに、私に勉強教えてて」
「教えることも勉強なんだよ」
しれっと答える凪沙。確かにそうかもしれないけれど、進路が全く決まっていない人が言っているということを考えると、何だか心配したくなるセリフだった。
「あー、疲れた。集中力切れちゃったよ」
手を止めて、柚は天井を仰いだ。
「実際に高校生になってみて分かったけど、お兄ちゃんって本当にすごかったんだなあ」
蓮人は高校生のときも、今と同じように、毎日のようにバイトをしていた。その傍ら、現在勝元が通っている、地元では割と進学校な高校に通って勉強にもしっかり取り組み、偏差値の高い国公立の大学に合格したのだ。それに加え、家事もかなりの割合を蓮人がやっていた。本当に頭が上がらない。
「蓮人さんはすごい人だよ」
凪沙も、柚の目線の先を追うように、天井を見上げた。
「あんな人なかなかいない」
「そうだよねー。私も見習わないと」
「それはいいけど、完全にあんな風になられると困るよ」
凪沙は、そこに何かを見ているように、じっと天井を見据えながら言った。
「いつか、壊れる」
「……うん」
それは、柚が蓮人のようなハードな生活をすると仮定して、ということなのか、それとも蓮人自身のことなのか。凪沙がどちらを指して言ったのかは分からなかったけれど、どちらもきっと、あまり意味は変わらないのだろうと柚は思った。
そのときふと、足音が近づいてくることに気が付いた。顔を天井から戻して見ると、柚たちの方に歩いてくる葵と目が合った。
「お疲れさま。よかったら少し休憩しない?」
葵は、持っていたお盆の上にあった皿とカップを、静かに机に置いた。コトリ、という重い音が、人のいない食堂に響いた。
「クッキー、作ってみたから、良ければ食べてね。飲み物は紅茶を入れてみたよ」
皿の上に載った、星やハートの形のシンプルなクッキーと、カップから緩やかにのぼる湯気。ふわり、と甘い匂いが柚の鼻腔をくすぐる。その香りに刺激されたように、柚の胃が少し動いた。
「ありがとうございます。わざわざすみません」
「気にしなくていいよ。私が勝手に趣味で作ったものだから」
そう言って、葵は柔らかく笑った。
柚と凪沙は各々お礼を言うと、「いただきます」と手を合わせた。
クッキーを口に入れる。サクッとした食感と、程よく甘くて香ばしい香りが、少し疲れた脳にじんわりと広がっていく。
「これ、すごくおいしいです」
手作りのクッキーなんて久しぶりに食べた。そういえば、昔、お母さんが家にいた頃は、時々こうやってクッキーを作ってくれたりしたっけ、と何となく思い出した。懐かしい味だった。
「柚ちゃんは本当に、美味しそうに食べてくれるね。見てて嬉しいよ」
葵が「ね」と凪沙を見る。凪沙も「はい」とそれに同意した。
「柚はどんなものでも大抵美味しそうに食べます」
それはちょっと悪口混ざってない?
「あ、じゃあ、このクッキーも実は不味かったりする?」
「いえ、これはとても美味しいです」
柚の味覚を疑い出す葵に、凪沙が答えた。地味に傷つく。
「ちゃんと美味しかったですよ」
勘違いさせてはいけない、と思い、柚は少し身を乗り出して、真剣な顔でそう言った。すると、葵は何が面白かったのか、クスリと笑った。
「よかった。それなら、今度はもう少したくさん作って、みんなに配れるようにしようかな。柚ちゃんにももっと食べてもらいたいしね」
「ありがとうございます! 私、クッキー大好きなんです」
また食べられるのか、と柚は密かに心を弾ませる。正直、今日だけでこれを食べてしまうのはもったいないと思っていた。口の中に残った、どこか懐かしい味。それは普段、白葉家では食べられない味だった。クッキーの優しい甘さが溶けだしたような嬉しさで、柚の心が満たされていく。
しかし、すぐにちくりとする苦みが心に刺さった。柚は、皿の上に置かれたクッキーを見つめた。
私だけが良い思いをして、いいのかな。
最近、『家』では葵が、普段食べられないようなものを振舞ってくれる。それは嬉しいことだけれど、でもその嬉しさを感じているのは柚だけだ。家族皆、同じ状況で生活しているはずであるのに、柚だけが今、クッキーを食べている。
特別高級なものはもらっていないし、そこまで気に病むほどのことではないのかもしれない。けれど、普段の生活を考えると、どうしても後ろめたさを感じてしまう。家族を、特に、いつも必死に働いている蓮人を差し置いて、自分だけがこんなことをしていていいのだろうか。
「……よかったら、持って帰る?」
声が聞こえた。ハッとして顔を上げると、葵が柚に向かって微笑んでいた。
「兄弟、いるんでしょう? せっかくだから、みんなで食べたらどうかな」
「えっ」
他のどの感情よりも、まず初めに心の中に現れたのは驚きだった。葵を見ると、葵は柚がそう反応するのを分かっていたかのように、いつも通りの穏やかな表情をしていた。
どうして、考えていたことが分かったのだろう。
凪沙を見ると、彼女は小さく首を横に振った。柚の知らないうちに、凪沙が葵に対して何か言ったのかと思ったのだけれど、違うみたいだった。それにしても、凪沙も凪沙で、柚が考えていたことを何か言う前に察してしまうから、何だか変な気分になってくる。
「嬉しいですけど、申し訳ないので……」
柚は改めて葵に目を向けた。葵は趣味だから気にしなくていいと言っていたけれど、実際時間や手間はかかっている。こんなところで意地を張っても仕方がないとは思うが、葵の厚意に甘えてばかりなのは嫌だった。
「そっか」
葵は、優しい顔を崩さないまま言った。
「柚ちゃんは、家でお菓子を作ったりしないの?」
「あんまりしないです。材料揃えたりするのも大変なので……」
「そうだよね。じゃあ、料理とかは?」
「料理はよくします。お兄ちゃんに頼ってばっかりなんですけど」
「なるほど」
ふむふむ、と葵は頷いた。そして、何かいいことを思いついたのか、「あ、そうだ」と顔を明るくした。
「じゃあ、今度私と一緒に作るっていうのはどうかな?」
「一緒に、作る……」
「そう」
葵は大きく頷いた。
「柚ちゃんの時間に余裕があるときに、短時間で作れるお菓子とか作ったらいいんじゃないかなって。柚ちゃんが作ったお菓子なら、家族のみんなも喜んでくれると思うよ」
なるほど、と柚は思った。確かに自分で作るのだったら、罪悪感なく家族に美味しいものを食べさせてあげられるかもしれない。
「すごく嬉しいですけど、でもいいんですか? 葵さんだって忙しいだろうし、私に付き合わせちゃうのは……」
「それは気にしないで。私、毎日結構暇してるから」
それに、と葵は続けた。
「一人で作るより、柚ちゃんと作った方が楽しそうだから」
そう言って、葵は笑った。その嫌味のない笑顔を見て、柚はありがたいと思うと同時に、思わずすごい、と心の中でため息を吐いた。
柚の家庭環境から、柚の考えていることを察し、柚が気を使わないような解決策を提案してくれた。やはり彼女は、あの五科工業の社長の妻なのだ。
「ありがとうございます。じゃあ、また一緒に作ってもらえると嬉しいです」
柚がそう言うと、葵は嬉しそうに「うん」と頷いた。
「もちろん、凪沙ちゃんも歓迎するよ。受験勉強で忙しいかもしれないけど」
「はい。時間が合えば参加します」
そのときふと、食堂の外から声が聞こえてきた。はっきりとは聞こえないけれど、プロジェクトの参加者のものではない声だった。
「テレビの音かな」
葵がドアの方に目を遣った。耳を澄ますと、確かに、最近よく聞く夕方のニュースのテーマソングが流れているのが分かった。聞こえてきた声は、アナウンサーの声だったらしい。
「ルリちゃんがつけたのかな。最近、喜んで見てるし」
「そうなんですか?」
「うん。柚ちゃんのためと言いつつ、自分も欲しかったみたい」
普段は大人びた発言をしているルリだけれど、こういう子供っぽいところがあるのは可愛いな、と柚は思った。
「でも、見ている番組はニュースばかりなんだけどね。やっぱり魔法研究者だから、魔法関連の事件の情報に興味があるみたいで、前も熱心に聞いてたよ」
やっぱりそうなのか。全然子供っぽくなかった。
「まあ、最近はニュースだけじゃなくて、他の番組でも魔法使いについての話題ばかりだから、時間帯によっては他の内容のものが少ないっていうのもあると思うよ。今流れてるのも、魔法使いの事件についてのニュースだし」
凪沙が手に持ったカップを動かして、揺れる紅茶の表面を眺めながら言った。凪沙がそのままカップを口に運ぶのを見て、柚もまた、自分の紅茶を一口飲んだ。
しばらくすると、テレビの音声がプツンと止んだ。ルリがテレビを見るにしては、短い時間だったなと思っていると、今度は足音が聞こえてきた。
その足音は、少しずつ大きくなって耳に届いてくる。誰かが食堂の方に歩いてきているみたいだった。規則正しい足音。その音に、柚は、あ、と小さく呟いた。
食堂のドアがゆっくり開く。そこに姿を現したのは、桜草樹だった。




