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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第2章 日常と変化

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    缶バッジの中の偶像④

 中梛が運んでくれた柚のリュックサックは、『家』の地下、柚の『道』の入り口の前に置いてあり、中梛の姿は見当たらなかった。櫟依と三ツ花に挨拶をして、柚は自分の『道』をくぐった。



 何とか転ばずに玄関まで荷物を運び、家の中に入る。「ただいま」と家の中に呼び掛けると、「おかえり」と声が返ってきた。百合の声だった。


 部屋に入ると、百合がキッチンに立っているのが見えた。百合は振り返って、もう一度柚に「おかえり」と言った。


「珍しいね。百合がこの時間にここにいるなんて」


 柚はリュックをよいしょ、と床に下ろした。リュックの中身が床に当たって鈍い音を立てるのを、理解できないものを見るような目で見ながら、百合は「うん」と答えた。


「今日は私が夜ご飯作るから」

「ええっ」

 思わず大きな声が出る。顔がサッと蒼ざめるのが分かった。


 以前、『家』で振舞われたルリの料理で死にかけたが、百合が作る料理は、それに匹敵するほどの破壊力を持つ。昔、家庭科の授業の宿題だと言って、百合が夕飯を作ったことがあったが、その夜は思い出したくないほど悲惨な状況になった。地獄絵図だった。


 もう二度と、あんな事件を起こしてはいけない。柚は、キョトンとした顔の百合に、にっこりと笑いかけた。


「百合、疲れてるでしょ。私が作るから、百合は休んでていいよ」

「え、でも、お姉ちゃんだって疲れてるよね。バイトだってあったし」

「今日は、バイトなかったんだよ。うん、なかった。だから元気が有り余ってるんだよ」

「でも……」

「あ、そうだ。じゃあ、何か他のことをやってきてくれないかな。お風呂とか」

「えー」


 百合が不満げに頬を膨らませる。料理する気満々だったみたいだ。自覚がないって怖い。


「ね、お願い」

 柚は笑顔のレベルを上げて言った。それでも百合は「えー」と言い続けている。駄々っ子め、お前本当に中学生か?


 百合の口が開かれる。それをいち早く察知して、その口から何か発せられる前に、柚は「あー」と意味もなく声を上げた。


「何?」

「あ、えっとねー」


 何か、話題を変えなければ。


「あ、そうだ。そういえば、お兄ちゃんは? 今日もバイト?」


 柚は咄嗟に思い付いた質問を口にした。蓮人は、バイトで夜家にいないことも多いから、別にわざわざ聞くことでもない。うんそうだけど、と言われて終わりだろうか、と、言ったそばから心配になる。


 けれど、その答えは、柚が想像していたものとは違った。


「ううん、今日は違うよ」

 百合は、突然の質問にさほど疑問を抱いていない様子で、素直に答えた。


「今日はお兄ちゃん、病院に検査受けに行ってるよ」

「あれ、そうなんだ」


 うん、と百合は頷く。柚は、会話が続いたことにホッとしながら、壁に掛かっているカレンダーに目を向けた。家族四人分の予定が書きこまれたカレンダー。確かに、今日の日付のところに、小さく印が付けてあった。


 蓮人は月に一、二回、T市記念病院に検査をしに行っている。今日は、ちょうどその日のようだった。


「まったくー、お兄ちゃん不健康すぎるんだよ。ガリガリだし、顔色悪いし。どこが悪いのかよく知らないけど、もうちょっと健康体になるように、運動とかすればいいのに。ね、お姉ちゃん」


 百合は、怒ったようにそう言った後、不意に寂しそうな表情をした。


「……お母さんもお父さんも死んじゃったのに、お兄ちゃんまでいなくなっちゃったら、ゆり、生きていけないよ」

「……」


 咄嗟には、言葉が出なかった。


 弱々しい呟き。周囲の空気が急に薄くなったように感じた。柚は、胸の重い痛みとともに、何とか息を吐き出して、そして笑った。


「そんな縁起でもないこと言っちゃだめだよ。お兄ちゃんは元気だから大丈夫」


 百合は、キュッと唇を結んで、こくりと頷いた。そして、ゆっくり顔を上げると、柚の方を見ずに、「そうだよね」と笑った。


「お兄ちゃん、元気だもんね」


 泣き笑いのような表情の百合に、それでも柚は根気強く笑顔を向け続けた。


「気になるんだったら、お兄ちゃんと一緒に、何か運動でもしてみたら?」

「えー、無理だよ。お兄ちゃん運動音痴だから、頑張っても意味なさそう」


 辛辣だなあ。


「ま、いいや。じゃあ、ゆり、お兄ちゃんが帰ってくる前に、お風呂の準備してくるね」

 百合はそう言うと、パッと顔を柚の方に向けた。そして、ニコッと愛らしい笑顔を浮かべた。


「しょうがないから、今日の夜ご飯の準備は、お姉ちゃんに任せるよ」


 へへ、と笑いながらパタパタと部屋を出ていく百合。その後ろ姿を見送って、柚はそっと息を吐き出した。



 この四人で暮らすようになってから、もう、七年ほど経つ。あのときの悲しみが完全に消えたわけではない。けれど、両親がいた頃の生活は、柚にとっては既に、いつか見た夢のようにぼやけた遠い記憶となってしまっている。


 それでも、百合の中にはまだ、割り切れない寂しさや悲しみが重く残っている。おそらく、兄弟の中の、誰よりも。


 普段は明るく振舞っている百合だけれど、今日のように、そして以前もあったように、家族がいなくなることへの恐怖で、時々不安定になることがある。そういうときは、柚は大抵大丈夫だと笑うようにしているけれど、それが正しいという自信はなかった。


 キッチンに立ち、手を洗いながら、柚はそっと目を伏せる。



 お兄ちゃんは、いつまで百合に隠しているつもりなんだろう。



 包丁とまな板を取り出す。昔、母も使っていた、包丁とまな板。



 いつまで隠し続けることができるんだろう。

 彼自身のことを。

 そして、母のことを。



「……早く、作らないとね」

 つぶやくと、柚は軽く頭を振って、冷蔵庫の扉を開けた。



    ***



 冷たさを感じるほど静まり返った空間。清潔感のある白い壁に反響して、自分の足音だけが、やけにはっきりと聞こえていた。自分が歩いていることに疑問を感じてしまうほど場違いに響くその音を聞いていると、ふと、夢の中にいるような感覚が襲ってきた。


 並んだ病室の扉。以前訪れたときには開いていた病室の前に、名札がかけられているのを見て、思わず息を漏らした。


 やがて、廊下の突き当りまで辿り着いた。蓮人は、このフロアの中で一番奥にあたる病室の扉の前に立ち、少し目を閉じた。そして、再び目を開けると、彼は目の前の扉をそっと開けた。



 静かに滑る扉。開けた先には、ベッドに横たわる、一人の女性の姿があった。



 蓮人は小さく息を吐くと、ゆっくりと、その女性のもとに近づいていった。そして、ベッドの少し手前、手を伸ばしても届かないくらいの距離で足を止めた。


 少し顔の角度を変えて、女性の顔を覗き込むようにして見る。固く閉じられた瞼。痩せた身体。この数年間、ほとんど変わっていない。


 柚は最近、ますます母さんに似てきたな。

 病室の空気に溶け込むように横たわる目の前の女性をぼんやりと眺めながら、蓮人はふと、そんなことを考えた。



 そのとき、不意にノックの音が聞こえた。反射的にベッドから離れて、勢いよく後ろを振り返ると、そこには蒼柳朔也が立っていた。


「久しぶり」

 相変わらずの無表情でそう言うと、朔也は数歩だけ、病室に入ってきた。彼の後ろで、微かな音を立てて扉が閉まった。


「検査、どうだった」

 朔也が、目線はベッドの方に向けながら、そう尋ねた。蓮人は、朔也の方に身体を向けた。ちょうどベッドに背を向けるような状態になった。


「大丈夫。特に問題はなかったよ」

 蓮人はニコリと笑った。


「朔也はどうしてこっちに戻ってきたの? 春休みも帰ってきてなかったし、大学始まったばかりなのに」

「創が妙なものに参加しているって聞いて」


 そう言うと、朔也はゆっくりと、蓮人に目を向けた。


「何か、知ってるんだろう」


 朔也の目は、こちらが気圧されてしまうほど真っ直ぐだった。


「……五科工業の、『特別プロジェクト』のこと?」


 蓮人は仕方なく口を開いた。


「研究に参加してるんだってね。創くんから聞いてなかったんだ」

「ああ、何も」

 そう答える朔也の声からは、苛立ちが感じ取れた。


「何でそんな危険なことに首を突っ込んでるんだ、あいつは」

「それは、分からないけど、創くんにも何か事情とか考えがあるみたいだし、今のところは大丈夫そうだと思うけど」

「大丈夫そう、か」


 朔也は、まだ蓮人から目を逸らさなかった。その目に、呆れたような感情が仄かに宿るのを見て、蓮人は思わず苦笑した。


「また、詳しく話すよ」

「ああ」

 朔也は頷いた。そして、何の前触れもなく言った。


「数日前に起きた魔法使い絡みの事件、柚も巻き込まれたらしいけど」

「……っ」


 蓮人の心臓が跳ねる。そして、やはり来たか、と内心呟いた。このタイミングで現れたのだ。朔也がその話題に触れないわけがない。


「そう、みたいだね」

 そう言って、蓮人は口を閉じた。


 しばらくの間、相手が何か言うのを待って、二人は互いに見つめ合った。肌をざらりと撫でるような沈黙が、病室の白い壁に吸い取られていく。


 ややあって、その沈黙を先に破ったのは、朔也だった。


「柚の身に何が起こったのか、大体は把握しているのか」

「……うん」

「それは、柚から直接聞いた話か」

「……いや」


 蓮人は弱々しく首を振った。そして、耐えられなくなって顔を伏せた。


「色々聞いてみたりはしてるんだけど、話したくなくて僕のこと避けてるみたいで、あれからまだ何も話せてなくて。見た感じ、もう元気そうなんだけど」


 自分の足元の床だけ、変に歪んでいるような気がした。朔也の視線が、蓮人の頭部を刺している。全身にまとわりついた居心地の悪い感覚に溶かされてしまう前に、一刻も早くその場から逃げ出したかった。


「それで、あいつと話すことを諦めて、またうやむやにしようとしているのか」

「そんなこと」


 ない、という言葉が、口の中で消える。


 朔也が深く、ため息を吐いた。


「今回は、幸いほとんど被害がなかったみたいだが、一歩間違えれば、柚もお前と同じようになっていたかもしれないんだぞ」

「……分かってるよ、そんなこと」


 分かってるよ、ともう一度呟いて、蓮人は唇をかんだ。



 分かっている。蓮人は、どうしようもないほどに、臆病だ。



「……柚は、まだ危険性を十分に理解できていないんだ。これから先、また同じような事件が起こる可能性だってある」

 朔也は、静かにそう言った。


「別に、昔のことを全て話せと言っているわけじゃない。簡単に明かせないことだって分かる。だがそろそろ、ある程度のことは、少なくとも柚には話すべきなんじゃないかと思う。そのときには、俺も立ち会って、フォローする」


 淡々と言葉を続ける朔也の声には、もう、蓮人を責めるような雰囲気はなかった。蓮人は顔を伏せたまま、「ありがとう」と答えた。


 朔也が、視線をベッドの方に向ける気配がした。



「初めにあいつらに――百合に嘘を吐いたのは、俺だから」


「……」


 何も、言えなかった。


 蓮人はゆっくりと顔を上げて首を回すと、朔也と同じように、ベッドの方に目を向けた。



 嘘。

 妹弟たちに話していない、隠し事。



「大丈夫だよ。ちゃんといつか、話すから」

 そう言った蓮人の声は、微かに震えていた。それに気づいて、蓮人は自分の情けなさに呆れる。そのいつかは、蓮人ではない、誰かの手によってもたらされてしまうのだろうと、何となく思った。


 そのときが来てしまえば、蓮人たち家族の関係は完全に崩れてしまうだろう。――あのとき、柊人との関係が、壊れてしまったように。


 自分は、どうすればいいのだろう。

 蓮人は、目の前に横たわる女性を見て、そして、目を閉じた。



 どうすればいいと思う?

 ねえ、母さん。



  《第二章 終》

第2章終わりです。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


第3章は、仲良くなってきた参加者が揉めたりしてギスギスした展開が続きます。

第3章の一番最後で話の流れが大きく変わると思うので、そこまで読んでいただけるとありがたいです。

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