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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第2章 日常と変化

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    缶バッジの中の偶像③

「あ、あの……」


 中梛の視界に入る位置にそっと移動して、もう一度、柚は声をかけた。その声に、中梛は勢いよく顔を上げると、初めて柚の存在に気が付いた様子で微かに驚いた顔を見せた。けれどすぐに、それを誤魔化すように「何?」とぶっきらぼうに言った。


「あ、それ、なんだけど……」

 内心びくびくしながら、柚は中梛が持っている缶バッジを指さした。柚の指が示すものに目を落として、中梛は「ああ、これか」と呟いた。


「これ、お前の?」

「う、うん、一応」


 頷くと、中梛はスッと缶バッジを差し出してきた。受け取って、柚は、中梛がさっきまで見つめていた缶バッジの表面を眺めた。


 昨日、咲からもらったときにはあまり見ていなかったけれど、改めて見ると、やはり光咲翠は、一瞬見ただけでも目を奪われてしまうような輝きがあった。それこそ、本当に天から舞い降りたのだと、疑いなく思ってしまうほどの。



「随分熱心に見てたけど」


 ふと、近くから声が聞こえた。顔を上げると、櫟依が妙にニヤついた顔で、柚の持っている缶バッジと中梛の顔を見比べていた。


「んだよ」

「いや。中梛って、光咲翠に興味あるんだ」

「は?」

 中梛が怒ったような声を出した。

「んなわけねーだろ、ふざけてんのか」


 そう言う中梛の目は、櫟依のことを見ていない。目線は宙を不安定にさまよっている。声も、強い口調ではあるけれど、いつもほどの威圧的な雰囲気はなかった。


 隠し事、下手なタイプなんだな。


「誤魔化さなくても良いって。なるほど、中梛はこういう子が好きなのか」

「そういうのじゃねえって」

「まあまあ、誰にも言わないから大丈夫だって」


 強い相手の弱みを握り、ここぞとばかりに追い打ちをかける櫟依。ひどい性格だな。


 これほどからかっていたら暴力沙汰に発展してしまうのではないかと、怯えながらその様子を見ていると、不意に中梛が舌打ちをした。「うざ」と吐き捨てると、中梛は櫟依に殴りかかることもなく彼に背を向けた。そして、当然のように柚のリュックを持ち上げた。


「あ、ま、待って」


 柚は慌てて、柚のリュックを軽々と持つ中梛に声をかけた。そして、中梛に「これ」と、ついさっき彼から渡してもらったばかりの光咲翠の缶バッジを差し出した。


「持ってくれた、お礼に……」

「お礼って……」


 こんな重い荷物を運んでもらったし、それに階段で命まで助けてもらったのだ。缶バッジ一つでは見合わないとは思うけれど、少しでも中梛に喜んでもらえることがしたい。


 友達からもらったものを人にあげるのは少し気が引けるけれど、柚が渡せるものなんて他にないし、それにこのグッズは、翠ちゃんが好きな人が持っていた方が良いだろう。


 咄嗟に思い付いたにしては良いアイディアだ。柚は短く息を吸うと、顔を上げて中梛の顔を見た。



 めちゃくちゃ不機嫌な顔をしていた。



 ……あれ?


 柚の思考が停止する。


 好きじゃ、ないのか。

 じゃあ、何だ?



「さっきから言ってるけど、そんなんじゃねーから」


 中梛は柚を見下ろして言った。柚を睨むように見る鋭い目の奥に、苛立たしげな光が揺れたのを見て、柚の心臓がキュッと縮んだ。


「ご、ごめんなさい、その……」

 柚は俯いて、ゆっくりと缶バッジを持った手を下ろした。その次の言葉は、上手く出てこなかった。


「……ごめんなさい、勘違いして」

 もう一度、謝罪する。中梛を怒らせてしまったことに対して、どうするのが正解なのか、柚にはよく分からなかった。


 俯いたままでいると、ふと、頭上から大きなため息が聞こえた。びくりと体を震わせる。何か強い言葉を言われるのだろうかと、柚はぐっと身構えた。


 中梛の手が、柚の方に伸びてくる。あ、と思うと同時に、その手が柚の手に触れた。そして、固く力の入っていた柚の指を剥がすように開くと、握られていた薄っぺらい缶バッジを、器用にスッと取り上げた。


「じゃ、もらってく。これで貸し借りナシってことで」

「え……」


 急いで顔を上げる。中梛は、もう柚に背を向けて、エレベーターの近くまで歩いていた。その背中には、柚が転んだ位置に置いたままになっていた柚の荷物が背負われていた。


 貸し借りナシ、という言葉が、一拍おいて脳に吸収される。柚は咄嗟に、その背中に声をかけた。


「でも、そんなのじゃ……」

「いーから」


 中梛の表情は見えない。まだ怒っているのかどうか、柚には分からなかった。しかし彼が、行きで柚を助けてくれた中梛と同じ人物だということはよく分かった。


 エレベーターの扉が閉まる音と、動き出す音が続けて聞こえた。柚は、中梛が歩いていった先をぼんやりと眺めていた。


 気を遣われてしまった。


 柚は深く息を吐き出した。申し訳なさがどっと押し寄せてくる。

 やっぱり私は、迷惑をかけてばかりだ。


 もう一度息を吐いて顔を上げると、視界の端に、戸惑った様子で柚を見る三ツ花の姿があった。柚と目が合って、彼女は小さく「あ」と呟いた。


 三ツ花が、どこか不自然な様子で柚に近づいてきた。会話に入れず、その上目の前であんなやり取りを見せられたのだから、かなり居心地が悪かっただろう。そんな姿に、何となく親近感を抱きながら、柚は三ツ花に「帰ろうか」と呼び掛けた。重かった荷物がなくなって、背中に違和感が張り付いているような気分がした。


「ごめんね、待たせちゃって」

「いえ、大丈夫です」


 三ツ花は慌てて首を横に振った。二人が歩きだしたのに合わせて、櫟依も歩き始めた。


「……あれ、さすがにヤバかったかな」


 櫟依がぼそりと言った。あれ、というのは、櫟依が中梛のことをからかったことだろうか。それとも、柚が、中梛が気を悪くするような行動をしてしまったことだろうか。どちらにしても、柚がはっきり答えられることはなかった。


「ヤバい、かも……?」

 柚は苦笑いする。それに、櫟依も苦い顔をした。そして、自分の髪をくしゃっと触った。


「分かんないんだよな、あいつの性格。何考えてるのかよく分かんない」


 それは柚も同意だった。柚はまだ、中梛の性格が良く掴めていない。優しいというのは分かるけれど、そういう行動をどういう気持ちでやっているのか、彼自身何が嫌なのか、どう接すればいいのか、想像ができなかった。


「でも、今日『家』の地下で会ったとき、あいつ顔に血つけてたから、ガチの不良ってことは確実なんだよな」

「そうなんですか?」


 三ツ花が目を丸くする。そういえば、三ツ花はあのとき一緒にいなかったな、と柚は思い返す。


「あれ、自分の血じゃないってことは、誰か殴ったりした相手がいるってことだよな……」

 櫟依は独り言のように言った。柚も「そうだね……」と答えた。


 櫟依の言いたいことは分かる。中梛は、人に暴力を振るうことのできる人なのだ。助けてもらった手前、悪くは言えないけれど、その事実だけで、恐れを抱くには十分だった。


 ふと見ると、櫟依も三ツ花も、少し気まずいような、困惑しているような顔をしていた。二人とも、中梛がただ悪い人ではないとは認識しているのだろう。だから、反応に困っているのだ。


 また改めてお礼をしたら、中梛は怒るだろうか。それとも、何もしない方が失礼なのだろうか。柚はそう考えながら、そっとため息を吐いた。


 中梛との関係は、思った以上に、難しいのかもしれなかった。

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