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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第2章 日常と変化

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第4話 缶バッジの中の偶像①

 『道』をくぐると、目がくらむような感覚と共に、目の前に薄暗い地下室が現れた。まだ慣れない感覚に、柚はふうっと息を吐いた。



 新学期二日目。柚の学校では、今日からもう通常通りの授業が始まった。宣言通り学校に来た咲と話して、大量の教材を受け取って帰ってきた、という感じだった。



 それにしても。


 柚は、背中のリュックサックの重みに大きくため息を吐いた。


 学校から帰った後、家に入らずここに直行してしまったため、学校でもらった教材がまるっとリュックサックに入ったままになっていた。たいした距離でもないし、今からでも戻って家に置いて来ればいい話ではあるけれど、その短い間に何かを起こしてしまう可能性を柚は持っている。諦めて、重い荷物を背負いながら会社に向かうしかない、と柚は腹をくくった。


 そのとき、柚の使う『道』からいくつか離れたところにある『道』の表面が、少し揺れたのが見えた。そこから現れた人物を見て、柚は目を見開いた。


「中梛くん?」


 柚に呼ばれ、顔を拭いながらゆっくりと柚の方を見る中梛。その顔と手には、目を引くような、赤い血が付いていた。右頬を覆う白い絆創膏も相まって、とても痛々しく見える。


「大丈夫? 怪我したの?」

 柚は慌てて中梛に駆け寄った。中梛は、柚の慌てっぷりを馬鹿にしているように見えるほど落ち着いた声でああ、と呟くと、手に付いた血を眺めた。


「大丈夫。これ、俺の血じゃないし」

「……え?」

 意味が分からず、柚は固まった。


 俺の血じゃないって。

 じゃあ、誰の血だ。


「中梛、とうとう人を殺したのか」


 思考停止している柚の近くから、声が聞こえた。見ると、いつの間にか来ていた櫟依が、引きつった顔で中梛を見ていた。


「んなわけねーだろ」

 中梛が「とうとうって何だよ」と櫟依を睨んだ。

「喧嘩ふっかけられたから、そいつらのことちょっと殴っただけ」

「……不良こわ」


 櫟依がぼそりと呟いた。そして、ちら、と中梛の方を見て、気分が悪そうに顔を背ける。あまり血が得意じゃないのかもしれなかった。


「洗ってきたら、それ」

 櫟依が顔を背けたまま言うと、中梛は素直に「ん」と頷いた。


 柚は、改めて中梛のことを見た。不謹慎だし、そういう趣味があるわけじゃないけれど、地下の壁の白さと色白の整った顔に血の赤が映えていて、綺麗さを感じるほどだった。中梛の身体は細身で、男子としては小柄な方だ。柚がイメージするような大柄な不良の人と喧嘩しているのは、想像ができなかった。


「……絆創膏にも、ついちゃってるよ」

 顔をごしごしと拭っている中梛に、柚は言った。彼は、絆創膏で覆われた頬に触った。

「後で貼りかえる」

 彼はそう言うと、絆創膏を剥がすことなく、頬から手を離した。


 初めて会ったときから、中梛はずっと頬に大きな絆創膏を付けている。白いテープといった方が正しいかもしれない。喧嘩をふっかけられて殴った、と言っていたから、もしかすると彼は喧嘩慣れしていて、テープもそのときにできた傷があるから貼っているのかもしれなかった。


 頬の怪我。大きな白い絆創膏テープ。殴り合い。彼の姿でそれを想像してしまって、柚の心臓が恐怖で揺れた。


 そんなことを考えている間に、中梛と櫟依は階段を上り始めていた。目的地が同じ人と離れてしまうとまずい。柚は慌てて二人の後を追った。


 置いていかれないよう、駆け足で階段を駆け上がる。少人数で、かつ誰も喋っていないと状況だと、足音が思ったよりもはっきりと反響しているのが分かった。



 そのとき柚は、自分が背負っているリュックサックの重さを、完全に忘れていた。



「あ」


 何かに導かれるように、重心が、緩やかに後ろに傾く。身体が、予測していなかった不安定な感覚に引っ張られる。一拍遅れて、あ、これはヤバいやつだ、と自覚した。


 咄嗟に手を前に伸ばす。壁に触れようとした瞬間、手首をぐっと掴まれた。



「ったく、危ねーな」


 柚の手首を掴んだのは、もう階段を上り終わっていたはずの中梛だった。


 中梛は、軽々と柚の身体を引き上げて、素早く柚の斜め後ろの位置に回ると、自然な流れでリュックサックを支えた。


 落ちそうになったことへの衝撃と、中梛の一連の行動への驚きに目を見張りながら、柚は、中梛をまじまじと見た。


「何だよ」

「助けてくれるとは、思わなくて」

「は? 落とすぞ」

「あ、待って、そうじゃなくて」


 機嫌が悪そうな声の中梛に、柚は慌てて首を振った。


 柚が今いるのは、ちょうど階段の半ばくらいの位置。既に階段を上り切っていた中梛は、後ろにいた柚がバランスを崩したのに気づいて、それからの一瞬でここまで移動した。


 それは、普通の人ならできないことだし、そんなことができる人がいるなんて思いもしなかった。どんな身体能力だろう、と純粋に柚は驚いていた。


 もちろん、血が出るまで人を殴るような不良が、柚を見捨てず助けたことへの驚きもないわけではなかったけれど。


 それでも、一歩間違えれば死んでいたかもしれない状況から助けてくれたのは事実だった。柚は、少し後ろを振り返って、中梛の目をしっかりと見た。


「ありがとう。助けてくれて」

「……別に」


 ふいと顔を背ける中梛。その横顔が、微かに赤くなっているのを見て、柚は小さく息を飲んだ。何だか意外だった。


「二人とも、大丈夫かー?」


 上から声が降ってくる。顔を上げると、櫟依が一番上の段に立って、柚たちの方を見ていた。


「ごめんねー。大丈夫」

「そっか。びっくりした」

 櫟依はため息を吐いた。


「中梛が急に振り返って階段に飛び込んでいったから、何事かと思った。よく気が付いた、っていうか、よく間に合ったな」

「別に、たいしたことじゃねーし」

「へえ、格好いいじゃん」

「馬鹿にしてんのか?」

「いや、純粋に褒めてるんだけど」


 中梛が舌打ちをする。それに対して、櫟依が微かに笑った雰囲気が感じ取れた。


「にしても重すぎだろ、これ。何入れてんだよ」

 柚のリュックを支えながら、中梛が尋ねた。


「学校でもらった教材だよ。教科書とか、問題集とか」

 答える柚を、中梛は理解できないものを見るような目で見た。

「全部持って帰ってきたのか?」

「うん」

「馬鹿じゃねぇの、お前」


 呆れた顔をする中梛。


「『道』の入り口って、家の近くだろ。来る前に置いてこればよかったのに」

「そうなんだけど、その、一回部屋戻って、教科書全部出してから来ると、時間かかるし面倒だなって思って」

 柚が答えると、中梛は怪訝な顔をした。


「何で全部出す必要があるんだよ」

「あ、私、まともなカバンこれしか持ってないから、バイト行くときとか、休みの日とかもこれを使ってるんだ。だから、中身はその度に入れ替えないといけなくて」


 柚はリュックに触った。学校でもプライベートでも、柚が使うカバンはいつもこの学校指定のリュックサックだ。幸い、柚は誰かと外に遊びに行く機会がほとんどないため、そんなに違和感なく使えている。


 中梛は、柚の答えを聞いて、今度は黙ったままでいた。さすがに引かれたかもしれない、何か言った方が良いのだろうかと考えていると、突然、背中の重みがふわりと消えた。驚いて後ろを見ると、中梛が柚のリュックを持ち上げていた。


 中梛は柚に、リュックを下ろすよう目で促した。言われるがまま両腕を肩ひもの部分から引き抜くと、彼は綿か何かを持つような雰囲気でひょいとリュックを担いだ。


「使えそうなカバンがあったら、また持ってきてやるよ」

 柚の方を見ずにそう告げると、中梛はスタスタと階段を上っていってしまった。


 状況が上手く飲み込めずに、ぼんやりとその様子を見上げていると、静かに待っていたらしい櫟依に「おーい」と呼び掛けられた。


「早く行くぞ」

「あ、うん」


 足元に注意しながら、柚は階段を駆け上がる。


 中梛は、柚のことを気遣ってくれたのだと、階段を上り終わったときに気が付く。重い荷物を代わりに持ってくれて、そして、おそらく別のカバンまで用意しようとしてくれている。人は見かけによらないんだな、と、失礼を承知でしみじみ思った。


 お礼、言わないと。

 そう思って前を見ると、中梛の姿は既になかった。安心したような落胆したようなため息が口から洩れる。


 中梛との関係は、以前景山が言っていたような難しいものではないのだろう。柚は進む方向に意識を向けながら、もう一度、今度はゆっくり息を吐いた。

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