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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第2章 日常と変化

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    過去⑥

「ただいまー」


 帰宅して、玄関の扉を開けると、先に帰っていた百合が、勢いよく顔を出して「おかえりー」と答えた。


「待ってたよ、お姉ちゃん。早く食べよ」


 百合がダイニングの机の上を指さす。そこには、コンビニで咲に買ってもらっていたイチゴのケーキが二つ、ちょこんと載っていた。一緒に食べようと思って、柚の帰りを待っていたらしかった。


「こんな頻繁にもらっちゃって大丈夫かなあ」

 柚がそれを眺めながら呟くと、百合も少し申し訳なさそうな顔をした。


「うーん。でも、お姉ちゃんが家まで課題を届けてきてくれたから、そのお礼って言ってたし、良いんじゃないかな。正当な対価なんだよ」


 百合は、どこか納得した顔で頷いた。まあ、確かにそうなんだけど、と密かに苦笑しつつ、柚は荷物を置くと、手を洗いにキッチンへ向かった。百合は、柚を急かすかのように一緒にキッチンへ行くと、机の上にあったケーキのうち一つを冷蔵庫にしまい、棚の引き出しを探り始めた。


「えーっと、二つあるから、一個を二人で分ければみんなで食べれるね。お姉ちゃん、二人で分けよ。今日は食べるよね?」


 ウキウキした様子で人数分フォークを取り出すと、百合はそのうちの一つを柚に手渡した。柚は「うん」と頷いてそれを受け取る。


「お兄ちゃんと柊人は、後で呼べばいっか」


 二人を呼ぶことよりも、早くケーキを食べたいという気持ちが勝った様子で、百合はもどかしそうに蓋を止めているテープを剝がし始めた。柚を気遣って、というわけではないだろうけれど、柚は心の中で、百合に感謝した。


 今はあの二人には、――特に蓮人には、会いたくなかった。



『ねえ、柚、事件のとき――』



 真剣な顔で、何度も事件のことを尋ねる蓮人。その顔が、必死で、苦しそうで。あんな顔を見たら、言いたくない、と咄嗟に思ってしまった。



 魔法。

 身体機能や意識の障害。

 後遺症。

 ……。



「お姉ちゃん?」


 ハッとする。見ると、百合が怪訝な顔で柚を見つめていた。


「大丈夫? 何か暗い顔してたけど」

「大丈夫。ごめん、ちょっと考え事してた」

 慌てて答えると、百合は「そっか」と、特に気にすることもなく答えた。


「ねえ、早く食べよ。ゆり、こっちから食べるね」


 柚が何か答える前に、百合は「いただきまーす」と遠慮なくケーキにフォークを突き立てた。それをぱくりと口に入れた瞬間、百合の顔がぱあっと輝いた。


「んー、めっちゃおいしい! 贅沢な味がするよー」

 満面の笑みで一口目の余韻に浸っている百合。それに促されるように、柚も一口食べてみた。そして、「んー!」と唸った。

「確かに、贅沢な味がするー」


 イチゴの甘酸っぱさに、生クリームの甘さ。特別な日でもない限り、食べられない類の味だった。幸せだ。


 余韻に浸り終わって、二人で二口目に行こうとしたとき、ガチャリ、と部屋の扉が開く音がした。振り返って、柚の口から思わず「あ」と声が漏れた。


「あ、お兄ちゃん」

 部屋に入ってきた蓮人に対して、百合が無邪気に呼びかけた。


 呼びかけられた蓮人は「ああ、二人ともいたんだね」と答えた。その声が少しぎこちないことに、柚は気づかないふりをして、静かに蓮人から視線を逸らした。


 今は、会いたくなかったのに。


 こっちに意識を向けてほしくない、声をかけてほしくない、このままやり過ごしたい、と切に願うけれど、その願いも虚しく、蓮人は柚に声をかけてきた。


「柚」


 心臓がキュッと縮まる。身体の芯が、スッと冷たくなる感覚がした。


「何?」


 口の中に残った甘さが、今はやけに気持ち悪い。柚は、自然を意識して笑うと、蓮人を振り返った。それでも、何か強い力が目に働いているかのように、どうしても、蓮人の顔を見ることは出来なかった。


「……」

 蓮人が、何かを言いかけた気配がした。けれど、そこから言葉は発されなかった。一拍間を開けて、蓮人が小さく吐いた息だけが聞こえてきた。



「……帰ってたんだね。バイト、お疲れさま」


 その声は、驚くほど落ち着いていた。恐る恐る、目線を蓮人に向ける。彼は、どこか寂しげな、傷ついているような、そんな顔をしていた。


 柚が声を出せないでいると、蓮人はいつも通り、ニコッと笑った。いつも通りを、意識していることが、痛いほど分かる笑顔で。


「僕は今からバイトに行ってくるから、色々よろしくね」

「……うん」


 頷くことしか、できなかった。


 戸惑いが大きかった。昨日まで、あれほどしつこく聞いてきたというのに、もう、聞いてこないのだろうか。もう、言及されることは、ないのだろうか。


 突然の変わりように、少し拍子抜けしたけれど、取りあえずは安心だ、と柚は息を吐いた。



「そんなことよりさ、お兄ちゃん」

 居心地の悪い空気を蹴散らすような明るい声を出して、百合が食べかけのケーキを示した。


「ケーキもらったから、良かったらお兄ちゃんも食べて。一個冷蔵庫に入ってるから、柊人と分けてね」

「あー、ありがとう。でも、僕はいいや。良かったら三人で食べて」

「え、何で? せっかくだから、食べればいいのに」


 不思議そうな顔で言う百合に、蓮人は「いやー」と少し笑った。


「最近、胃が甘いものを受け付けなくて……」

「え、大丈夫?」


 心配そうな百合に、蓮人は「うん」と平気そうに答えた。


「多分、年だから……?」

「お兄ちゃん、まだ十九歳なのに?」


 絶望的な顔をする百合。その口からは、「十九歳になったらもう甘いもの食べられないんだ……」という呟きが聞こえてきた。かなりショックだったらしい。


「いや、個人差はあると思うから……」

 慌てて百合を励ます蓮人。ここまで百合が落ち込むとは思っていなかったようだった。


「大丈夫大丈夫。百合だったら何歳になっても甘いものたくさん食べられると思うよ」


 励まし方がいいかげんすぎる。


「まあとにかく、今からバイト行ってくるから、よろしくね」


 落ち込んだままの百合を尻目に、部屋を出ていこうとする蓮人。それを、百合が「待って」と呼び止めた。


「何?」

「一口くらいなら食べれるでしょ?」

 そう言うと百合は、手に持っていたフォークでケーキを一口分取ると、振り返った蓮人にずいっと差し出した。

「ほら、あーんして」


 その顔があまりにも真剣だったからか、蓮人はフッと吹き出すと、「じゃあもらうね」と笑顔でそれを食べた。


「美味しい?」

「うん、美味しい」

 蓮人が笑顔で答えると、百合も満足気ににこりと笑った。


「ありがとう、百合。いってきます」

 手を振って部屋を出ていく蓮人に、柚たちは「いってらっしゃい」と手を振った。



 玄関の扉が閉まる音が聞こえると、特に示し合わせたわけでもなく、柚と百合は顔を見合わせた。


「お兄ちゃん、喜んでくれてよかったね」

 百合が嬉しそうに言った。それに、柚も「うん」と答える。


 出発する直前の蓮人は、いつも通りの蓮人だった。よかった、と柚は心の中で呟いた。


「でもさ、お姉ちゃん」

 百合がケーキを突きながら口を開いた。

「これ以上心配させたくないっていうのは分かるけど、さすがにお兄ちゃんのこと避けすぎじゃない?」

「う……」


 触れないでいてくれたと思ったら、急に来た。


 百合を見ると、彼女は柚の様子を気に留めないで、黙々とケーキを食べ進めていた。深い意味はなく、単に気になったことを口にしただけのようだった。


「確かに、そうかもしれないけど……」


 柚自身、それは自覚していた。けれど、その話題を避けるためには、こうするしか方法が思いつかないのだった。


「まあ、別にいいけどさ」


 百合がおもむろに顔を上げた。柚のことを見たのかと、一瞬ドキリとするけれど、百合の視線は柚ではなく、その後ろの方に向けられていた。


「あんまり避けたらかわいそうだよ。ね、柊人」

「うん」


 小さな声が、背後から聞こえた。驚いて振り返ると、そこには、この部屋にはいなかったはずの柊人が、静かに立っていた。


 いつ入ってきたんだろう。扉が開く音も聞こえなかったのに。


「柊人、いつ来たの……?」 

 幽霊でも見ているような気分で柊人に尋ねると、柊人は「ついさっき」と囁くような声で答えた。

「百合姉ちゃんの声が聞こえたから、来た」

「そっか……」


 どのくらいの大きさだったのかは分からないけれど、百合の声はさぞうるさかっただろう。


「ねえ、柊人も食べるよね、これ。お兄ちゃんいらないって言ってたから、二人で分けようよ」

 立ち上がって、冷蔵庫の方に歩いていく百合。どうやら、一番多く取り分を得ようとしているらしい。がめついやつだ。


「柚姉ちゃん」


 百合の様子を眺めていると、柊人に名前を呼ばれた。振り返ると、彼は真っ直ぐに、柚のことを見つめていた。


「何?」

 ゆっくり息を吸って、気持ちを落ち着けると、柚は柊人の目を見つめ返した。


「兄ちゃんと、ちゃんと話した方が良いと思う」

 柊人は、落ち着いた声でそう言った。言葉に詰まる。


 柚が何も言えないでいると、柊人はなおも同じ調子で続けた。


「兄ちゃん最近、柚姉ちゃんのこと、色々心配してる。話せないのも分かるけど、あれじゃ、苦しそう」

「……うん」


 柚は、目を逸らして、頷いた。


「……柊人は、どこまで知ってるの?」

 勢いで、尋ねてみる。すると、今度は柊人が、そっと目を伏せた。少し間を開けて、柊人は口を開く。

「……大体は」

「そうなんだ」


 色々心配してる、と柊人は言った。その様子だと、柚の身に起こっていることは、五科工業のプロジェクトのことも含め、もうほとんど知っているのだろう。やはり、柊人に隠し事など、できない。



「二人とも、何話してるの?」


 二つ目のケーキを取った百合が戻ってきた。


「さっきの話だよ」

「さっきの話?」

「うん。お兄ちゃんは心配してくれてるんだから、あんまり避けちゃダメだって、柊人に注意されちゃった」


 軽い調子で答えると、百合は「そうだよねー」と大きく頷いた。


「心配するのも当然だよ。ゆりだって、ホントに心配したんだから」


 ごめんね、と言おうとして、ふと止まる。「ホントに、心配した」と、もう一度百合は言った。その顔は、心の底から憎いものを睨むように険しく、そして痛々しかった。


「意味わかんない。何で魔法使いって、急に関係ない人を危ない目に合わせようとするの? ゆりたち、別に何もしてないのに。ひどいやつばっかりじゃん」


 その声は、悲痛で震えていた。伏せられた顔の表情を見ることは出来なかったけれど、今にも叫び声に変わってしまいそうな声と、爪が食い込むほど強く握られた手から、百合がどんな気持ちでいるのかは、容易に想像ができた。


 柚は、柊人と顔を見合わせた。柊人の目は、いたたまれなさで揺れていた。きっと、柚も同じような表情をしているのだろう、と思った。


「……百合」

 呼び掛ける。すると、百合は小さく「うん」と答えた。


「ごめん。何でもない」

 下を向いたまま、百合は答えた。そして、身体の奥から溢れてくる感情を流そうとするように、ゆっくり、震える息を吐き出した。


「何でもない。だってお姉ちゃんは、ちゃんとここにいるもんね」


 百合は顔を上げると、ついさっきまでの言葉が噓であったかのような笑顔を見せた。柚は「うん」と頷く。


「そうだよ。何ともなかったんだから、大丈夫」

 力強くそう言うと、百合は「そうだよねー」と笑った。


「よし。じゃあ、甘いもの食べて気持ち切り替えよっと。ほら、柊人」

 百合が、柊人にフォークを手渡す。まだ、百合の切り替えについていけていない柊人が、促されるままにそれを受け取った。


「柊人はここからそっち側食べてね。ゆりは残りのこっち側食べるから」


 小さい子が遊ぶときによくやるように、自分の陣地を決める百合を眺めながら、柚は今更ながら、心配させてしまったのだ、と思った。


 事件に巻き込まれたのは不可抗力だったけれど、それでもそのせいで、百合を、こんなふうに心配させてしまったのだ。こんな気持ちにさせてしまったのだ。


 もしも、プロジェクトのことで何か柚が危険な目に遭ったりしたら、百合をまた同じような気持ちにさせてしまうのだろうか。それならばもう、話してしまった方が良いのだろうか。


「お姉ちゃん、どうしたの? 食べないならゆりが代わりに食べてあげるよ」

 百合が無邪気にそう言った。柚は、「食べるよ」と笑って答えた。

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