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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第2章 日常と変化

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    過去③

 え、いつの間に入ってきたんだろう。


 急に現れた社長を前に、柚は身動きが取れなくなっていた。横目で勝元を見ると、彼は『いつ来たんだ』と言いたそうな目をしていた。柚は勝元に対して小刻みに首を振る。


「みんな、そんな緊張しなくても大丈夫だよ。藍代くんにちょっと手伝ってもらってて、さっき終わったから、せっかくだし、第一会議室までついていこうかなって思って。様子を見に来たんだ」


 この凍った空気を見てなお微笑んでいる社長。逆に怖い。


 社長の後ろには、確かに藍代が立っていた。柚たちの様子を見て、その異様な雰囲気に怪訝な顔をしている。


「社長、いついらっしゃったんですか?」


 勝元がおそるおそる尋ねた。今の話は、ほとんど冗談だったが、プロジェクトのメンバー選抜が作為的なものである可能性についてだった。五科工業も、参加者が一切疑いを抱いていないなんて思っていないだろうけれど、もし話を聞かれていたら、何かしら危険な目に遭わされるかもしれない。


 社長は、勝元の質問に、気を悪くすることなく答えた。


「ついさっきだよ。みんなが笑い始めたあたりから」

「そうなんですか……」


 良かった、それならセーフだ。

 セーフ、なのか?


「すみません。気が付かなかったので驚いてしまって……」

 勝元が言うと、社長は「いいんだよ」と笑った。


 それをきっかけに、皆の空気が緩む。ほっと息を吐いて見回すと、皆まだ動揺が表れた顔をしている中、一人、凪沙だけが平然としていた。いつものことながら、柚は密かに恨めしい目を向ける。


 凪沙ちゃん、絶対気づいてたな。


 そんな柚の目にも気づいているはずなのに、知らないふりをしながら、凪沙は社長に対して言った。


「ここにいる人全員が帰宅部だから、面白い偶然だねって話していたんです」

「そうなんだ。それは偶然だね」

 社長が驚いたように答えた。その反応は、白々しくも見えたし、素直に答えているだけのようにも見えた。


「ちなみに、どうしてみんなは部活に入らないの?」

 社長の質問に、皆は何とも言えない表情で黙り込んだ。


 どうして、って……。

 柚たちは顔を見合わせた。その表情は、誰が答えるか探っているというよりも、言っていいのかどうか、その答える内容について迷っているような雰囲気だった。


 短い沈黙の後、皆、恐ろしいほどタイミングよく、同時に口を開いた。


「……面倒だから」


 声が揃う。そして、うなだれた。

 ダメだ、これ。


「そっか。みんなそう答えるのか」

 図らずも一致してしまった、何とも不甲斐ない答えに、社長が吹き出した。

「白葉さんとかは、バイトで忙しいから、とか答えると思ったのに」

「いや、私は、その……」


 急に名前を呼ばれて、柚はうろたえる。確かに、そう答えればよかった、と今更思った。


「それもありますけど、一番大きいのは、やっぱり面倒だってことかなって……」


 言いながら、ふと思う。不思議な男の人がプロジェクトの招待状を届けに来たときにも、白葉家の家計について言及していた。それに、それらの言葉は全て社長の指示だとも。


 社長は、柚の家が経済的に厳しいことを知っているのだ。


 参加者の家の経済状況なんて、どうして知っているのだろう、と思ったところで、すぐに、靄のように広がりそうになる不安を振り払った。柚を少し見ればそれくらい簡単に分かることだ。別に深い意味はないだろう。


「まあ、確かに面倒だよね、部活」

 社長が肯定的な答えをする。それに、天瀬が「へえ」と意外そうな声を出した。


「社長は、何か部活入ってたんすか?」

「いや、僕も帰宅部だった」

「え、そうなんだ」


 天瀬が目を見開いた。


「何かやってそうなのに」

「どうして?」

「何となく、イメージで」


 天瀬の言葉に、皆、頷いた。具体的な部活のイメージは全く浮かばないけれど、社長の家柄や立場的に、人との交流という意味で、部活動に参加していたのだと思っていた。


「何か、個人で習い事とかをしたりしていたんですか?」

 勝元が聞くと、社長はまた、首を横に振った。

「そういうものは、何もやってないよ」

「そうなんですね……」

「意外だった?」


 社長が勝元に笑いかけた。何だかもう、友達に話すような雰囲気だった。勝元は少し迷った後、「はい」と答えた。


「この会社の前社長って、社長のお父さんでしたよね。その前は、社長のお祖父さん。代々社長を継ぐ家系だから、そういうことにも力を入れているんだと思っていました」


 勝元の素直な言葉に、社長は「そうだよね」と少し笑った。


「普通だったらそうだと思うけど、僕はちょっと特殊だからなあ」

「特殊、ですか?」

「そう。僕、養子だから。しかもある程度成長してからの」


 さらりとそんなことを言う社長。衝撃で、再びその場の空気が固まる。柚もまた、目を見開いて、目の前で微笑んでいる社長を見つめた。


 どこか幼い印象の整った顔立ち。そして、深緑の瞳。五科工業のことを調べたときに見た、前社長の写真と比べて、身にまとう雰囲気はかなり似ていたが、顔の作りは似ていなかった。てっきり、母親似なのだと思っていたけれど。


「父とは血の繋がりがなくて、養子になる前は赤の他人だったんだ。昔から五科工業にいる社員の中じゃ有名な話だけど、あまり公にしたくないのか、その人たちもその話は口にしないみたいで、ほとんどの人は知らないよ」


 急に変わった空気を気にも留めずに、同じ調子で話し続ける社長。柚たちは、呆気に取られたようにそれを眺めることしかできなかった。



「……もしかして、社長に就任するときに、反対が多かったのって」


 ややあって、勝元が尋ねると、社長はすぐに頷いた。


「そう、それも一つの理由。他にも色々とあるんだけどね」


 周りの反対が多い中で就任した社長。それは、まだ若いからというだけではなく、前社長との血の繋がりがないから、という理由もあったのか。


「ある程度成長してからって、どのくらいなんですか」

 今度は櫟依がためらいがちに尋ねた。社長は、その問いに少し考えるようにして答えた。

「正確な年は覚えてないけど、確か、十歳くらいだったかな」

「十歳……」


 確かに、その家が習い事などの教育を行うには成長しすぎている、ような気もした。



 それじゃあ、と柚は思う。



 それじゃあ、社長は、それまでの間、一体どこで何をしていたんだろう。



「まあ、僕の話はどうでもいいんだよ」


 その社長の一言で、シャボン玉がピ、と弾けて消えるように、強制的に張りつめた空気が壊された。


「みんな、今までは少し険悪な雰囲気だったから心配していたけど、順調に仲良くなれているみたいで安心したよ。データも問題なく取れている。これからはもっと協力してもらうことになると思うから、よろしくね」


 社長がにこやかにそう言った。夢から覚めたような心地で、柚は社長の言葉を聞いていた。


 そのとき、不意にノックの音が響いた。叩かれた扉の方に目を向けると、ボードを持った景山が入ってくるところだった。


「皆さん、そろそろ休憩終了です。新しく来た人もいるので、今から指示を――」


 と、そこで言葉を止めて、景山は柚たちの集団の方を向いた。視線の先には、さっきまでの微笑みを崩して引きつった顔をした、社長が立っていた。


「いないと思ったら、こんなところにいたんですか」

 落ち着いた声。氷点下の冷たさだった。


「……それじゃあ、みんな、頑張ってね」

 社長がぎこちなく柚たちに手を振った。そのままそそくさと部屋を出ていこうとするが、案の定、景山に腕を掴まれる。


「何しに来たんですか」

「よ、様子を見に……」

「毎日来ないと気が済まないんですか」

「ええっと……」


 黙り込む社長に、景山が大きくため息を吐いた。


「社長が仕事をさぼっているわけではないことくらい、分かっていますよ。だから、心配なんですよ。昨日だって、そうだったじゃないですか」


 そして、もう一度ため息を吐く。それは、ただ怒っているというよりも、遅い時間まで遊んで帰ってきた子供に対して母親がするような、少し優しいため息だった。


「社長も、仕事に戻ってください。私もすぐに行きますから」

 景山が社長の腕から手を離した。スーツにありえないほどくっきりと跡が残っていることから、かなり強く掴んでいたことが窺われた。やっぱり容赦がない。


 解放された社長は、一度軽く頭を下げると、部屋をそっと抜け出すように猫背気味で退出していった。会社のトップらしからぬ態度だった。


 柚たちがその様子を遠巻きに眺めていると、景山に「皆さん」と呼び掛けられた。


「今から仕事を伝えます。その後、着替えていない人は着替えて、準備ができた人から担当の場所に向かってください」


 何事もなかったかのように振る舞う景山に、柚たちは弱々しく「はい」と答えた。

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