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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第2章 日常と変化

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第3話 過去①

 五科工業本社ビルの廊下。段ボールの積まれたカート。その車輪が動く手ごたえを手のひらに感じながら、柚はぼんやりと歩いていた。



『探るのは、少しやめておこうか』



 昨日の凪沙の言葉が、頭の中で再生される。



 湊の研究室を出て、リビングに戻った後、柚たちは改めて互いの顔を見た。皆、疲れた顔をしていた。そして、何か話そうとすることもなかった。そのときに、凪沙がふと、そう言ったのだ。


「どんな危険があるか分からないから、取りあえずは様子を窺っていよう」


 凪沙の提案に、三人は頷く。そうするしかないことは、四人とも分かっていた。


「……ごめん、わざわざ来てもらったのに」

 珍しく弱々しい声で、凪沙は言った。

「こんなことを聞くことになるなんて、思わなかった」


「良いって。湊さんが話してくれたような危険があるってことに気づけたんだから、それだけで十分だよ」

 勝元が凪沙に笑いかけた。柚と創も大きく頷くが、凪沙は少し微笑んだだけで、その顔はまだ晴れなかった。


「……凪沙はさ」


 創が気遣うような目で凪沙の顔を覗き込んだ。凪沙は、微かに驚いた様子で創を見た。


「湊さんが、良い魔法研究者じゃないかもしれないって言ったこと、気にしてるの?」


 視線が、凪沙に集まる。凪沙は、柚たちを見回して、少し迷ってから「うん」と真剣な顔で答えた。


「あの様子だと、湊が五科工業の魔法研究について何か知っていることは確実なんだ。口止めされていることもそうだし、最後の方に言っていた『あの子』も、多分ルリちゃんのことを指してると思う。五科工業のことを知ってるのに、湊はそれを私たちに隠してる。そう考えると、五科工業が危険だってことも十分あり得るし、知らないって言いながら、実は他の研究者と繋がってるっていう可能性だってある。――何を、企んでるんだろう」


「企んでるって、湊さんが?」


 何をおかしなことを、と言うように凪沙の言葉を笑い飛ばそうとする勝元。しかし、その声は、言葉に合わず強張っていた。


 皆、分かっていた。


 最後に柚たちを呼び留めたときの、湊の様子。今までの彼からは想像ができない、別人のような空気。思い出して、スッと背筋が冷えるのを感じだ。

 あんなものを見てしまったら、否が応でも、考えてしまう。湊が、何か企んでいると。


「……きっと、大丈夫だよ」


 そんな言葉が、柚の口から滑り出す。それがただの気休めかもしれないことも、分かっている。それでも、言わずにはいられなかった。


「湊さんが言ってたように、湊さんが研究を始めた理由は、そんな後ろ暗いものじゃないでしょ。それに、今だって、柊人に良くしてくれてるし、きっと大丈夫だよ」


 凪沙は、そんな柚の言葉を静かに聞いていた。そして、少し目を伏せる。


「そうかもしれないけど、分からない」

 その声は、いつも通りの冷静な声に戻っていた。


「湊は、穏やかで無気力なように見えて、実際はえぐい性格してる。目的のためなら手段を選ばないところがあるし、自分の目的に関係する人以外は眼中になくて、雑に扱ったり傷つけたりすることもできる。都合の悪いことは言わないっていう形での裏切りは普通だし、平気で嘘だって吐く。湊はそういう人だよ」

「凪沙ちゃん……」


 淡々と自分の兄を批評する凪沙は、平然としているようにも見えるし、どこか痛々しくも見えた。柚も、思わず目を伏せる。


「ごめんね、柚。意地悪なことを言って」

「そんなことないよ」


 慌てて顔を上げると、凪沙がふっと微笑んだのが見えた。


「まあ、湊のことはただの可能性だから。もちろん、他のことも。でも、危険がないわけじゃないし、ちょっと深追いしすぎた。いったん手を引こう。また何かあったら伝える」

「分かった」


 凪沙の言葉に、勝元が答えた。柚と創も同じように答えた。


 このプロジェクトに関わっている誰かが『道』について口外してしまうことや、その危険性。それは、柚たちの行動だって例外じゃないのだ。


 五科工業のことも、集められた参加者や魔法研究のことも気になるけれど、今は仕方がない。今は、まだーー。




「おーい。ユズ、大丈夫?」


 ハッとする。顔を上げると、もうすっかり見慣れてしまったチャラい顔面が目に飛び込んできた。その気楽そうな顔に、少しだけホッとする。


「ごめん、大丈夫。ちょっとぼーっとしてた」

 答えると、五科工業でのバイトではなぜか柚とセットになってきている天瀬が、からかうような笑顔を浮かべた。


「寂しいの?」

「え?」

「ほら、今日は人数少ないし、ユズたち四人組の中だとユズしか来てないから。いつ見ても一緒にいるあの三人がいなくて、不安になっちゃってるのかなーって」

「そういうわけじゃないけど……」


 別に、柚が片時も彼らのそばを離れずにべったりしている訳ではない。他の三人がいないだけで不安になるような弱い精神だと馬鹿にされているようで、何となく気分が悪かった。


 天瀬の言う通り、今日は、もう新学期が始まる学校も多いため、参加人数は少なかった。柚たち四人も今日から新学期だったが、午前中で終わるのが柚だけであるため、あの三人はまだそれぞれ学校にいる。四人は全員別の学校に通っているから、予定が合わないのも当然だった。


 そんなわけで、今参加しているのは、学校が早く終わった柚と、まだ始まっていない天瀬と櫟依、そして学校に行っている様子を見かけたことのない藍代だけだった。


「ふーん。じゃあ、どうして元気ないの?」

 天瀬は、からかう調子を残したままの顔で柚を見た。


「どうしてって……」


 口ごもる。天瀬は相変わらず、無遠慮なほどの視線を柚に向けていた。その顔を見ていると、ふと昨日の会話の一部が頭の中で照らし出された。



『天瀬と桜草樹さんは、ちょっと気を付けた方が良いかもしれないね』



 柚はゆっくり顔を背ける。何となく、後ろめたかった。


「……ちょっと疲れてるだけだから、大丈夫。特に何もないよ」

 柚は少し笑って答えた。実際、精神的にかなり疲れている。この数日間、色々なことがありすぎた。


 進んでいく廊下の床を眺める。こうして昨日までと同じように過ごしていると、ふと、自分はここにいてもいいのだろうか、という不安が心の奥からじんわりと浮かび上がってきた。


 もちろん、ここにいなければならないということは分かっている。だけど、そのことが、夜の森の中で一人佇んでいるような、いつ危険が自分を襲うのか分からない中、それをじっと待っているような、そんな気持ち悪い恐怖を感じさせていた。


 寂しい、という言葉。さっきは否定したけれど、やっぱりそうだったと思い直す。あの三人に、今はたまらなく会いたかった。この気持ちを共有しているであろう幼馴染と、話したかった。



 段ボールを運ぶよう指示されていた部屋に着いた。扉は閉まっている。ちょうど、天瀬が扉の前で止まったため、彼が扉を開けるのを待った。


 けれど、少し待っても、その手は扉に伸びなかった。不思議に思って見上げると、彼は柚の方を見ていた。柚は微かに息を飲む。


「天瀬くん……?」

「ねえ、ユズ」


 天瀬が呼びかける。柚と目が合うと、彼はサッと目を逸らした。天瀬は、この数日間で時々見せた陰りのある表情と似ているようで少しだけ違った、初めて見る顔をしていた。


「何?」

 尋ねると、天瀬は目を逸らしたまま、ゆっくりと口を開いた。



「ユズが元気ないのって、もしかして、昨日のことで?」



 心臓が勢い良く跳ねる。全身の筋肉が、急激に強張った。


「昨日の、こと……?」


 引きつった頬を無理やりに動かして、柚は聞き返した。彼は、何のことを言っているのだろう。もしかして――。


 ついさっき頭の中に浮かんだばかりの言葉が、まだ鮮明に残っている。気を付ける、べきだったのかもしれない。


 天瀬は柚の言葉に「そう」と頷いた。そして、意を決したように、逸らしていた目を柚に対して向けた。


「ほら、昨日の昼に、オレ、ユズのこと『特殊能力』持ってるのかってみんなの前で聞いたから、それで嫌な思いしたのかなって。凪沙センパイにも注意されたし」



「……へ?」

「……え?」



 思わず素っ頓狂な声を出してしまう。ハッとして口を押さえ、天瀬を見ると、柚の答えが意外だったのか、彼はいわゆる鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。その顔があまりにも新鮮で、柚は吹き出してしまう。


「え、何? 違ったの?」

「違うよー。そんなの気にしてないから大丈夫」


 答えると、安心して更に笑えてきた。柚は、笑いと共に大きく息を吐き出した。


 てっきり、天瀬が湊との会話を何らかの手段で聞いていたのかと思ったのに。


「もー、紛らわしいよ」

「ちょ、笑いすぎ。こっちは本気で気にしてたのに」


 言いながら、天瀬も同じように笑いだした。


「何だ、違うんだ。じゃあ、わざわざ言わなくてよかったじゃん。あーあ、損した」

 そう言って笑う天瀬の顔は、普段よりもずっと自然な笑顔のように見えた。


 笑いを落ち着かせようとしていると、急に、昨日の天瀬の顔を思い出した。昼休みの終わり、他のメンバーが食堂を出ていく中、柚だけが食べ終わらずに焦っていたとき。天瀬は食堂を出る際、柚のことを気にするような素振りを見せていた。


 柚は、また何か自分がやらかしたのかと思っていたが、おそらく違っていた。天瀬の行動の意味。彼はきっとそのときから、今柚に伝えたような気持ちを抱えていたのだろう。


 あれだけ無神経に自分から聞いておいて、どうしてそんなことを、と思わなくもないけれど、それでも彼の優しさを見た気がした。きっと、柚たちが考えているほど危険な人ではないのだ。


「ありがとう。心配してくれて」

 お礼を言うと、天瀬は一瞬きょとんとした後、ニコリと笑って「いーよ」と答えた。


「でも、それじゃないんだったら、どうしてユズは元気ないの? ホントに疲れてるだけ?」

 天瀬が柚の顔を覗き込む。近い。態度が変わるのが早すぎる。柚は少し身を引いて、ガクガクと頷いた。


「そっか。じゃあ、段ボールを下ろして積むのはオレがやってあげる」


 天瀬が扉を開けた。自分でやるから大丈夫、と言おうとしたところで、先に天瀬が口を開いた。


「よかった。ユズ、さっきよりも元気になったっぽい」


 そして、いつもの甘い笑顔を浮かべる。


「そっちの方がかわいーよ」


 背中を冷や汗が伝う。柚は、なぜか頭から抜け落ちていた大切な情報を思い出した。


 そうだ。この人、違う意味で危険な人だった。

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