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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第1章 始動

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    招待状②

 英語のノートを職員室まで届けて頼まれた仕事を終えた柚は、帰宅部として速やかに家に向かった。平坦な市街地を、いつも通りの道を通って自転車で走り抜ける。


「さてと」


 自転車を降り、柚は目の前にある、生い茂った木に埋もれた道を眺めた。


 柚の家は、山のように盛り上がっている森の、一番奥まったところにある。かなり坂が急なうえに、道が複雑で、獣道のような場所まで通らなければ家まで辿り着けない。毎日の登下校が修行だった。


「何とかならないのかな、これ」


 文句をぶつぶつ言いながら、ギシギシとうるさい自転車を押して坂道を登り始める。


「えーっと、この目印を左、次の目印を右手前、っと」


 声に出しながら進んでいく。自慢じゃないけれど、一か月に一回は遭難して、家族に見つけ出してもらっている。意識しないとすぐに迷うから困る。


 しばらく経つと、自宅の近くにある目印が見えてきた。


 ああ、やっと着いた。

 柚は大きく息を吐いた。もう一度息を吸って、「疲れたー」と叫ぼうとしたところで、うっと声を飲み込んだ。それが喉につかえて、軽く咳が出る。

 


 あれ?


 柚は、下を向いて口元を覆ったまま、ゆっくりまばたきを繰り返した。


 私、今何を見たんだろう。



 ふわりと吹いた春の風が、なぜか体温を奪っていく。耳元で、慌てて動く心臓の音が聞こえた。


 どうして、ここに。


 見間違いだろうか。そう思って、柚は冷えた身体をゆっくりと起こして自宅の方を見た。そして、ついさっき見たままの光景に、目を見開く。



 自宅の扉の前。滅多に家族以外の人が近寄らない、慣れている人でないと辿り着けないはずのその場所に、見たことのないスーツ姿の男の人が立っていた。



 その男の人は、インターホンを押すでも、何かを探すでもなく、ぼんやりとどこかを見つめて立っていた。手には茶色いA4サイズの封筒。それ以外は何も持っていない。


 家まで来るのは難しいからと、郵便受けは森の入り口のところに設置してある。だから、ただ郵便物を届けるためだったら、わざわざここまで来る必要はないはずだ。


 変なセールス? それとも、危ない組織の人? もしくはもっと別の。


 きゅ、と心臓が縮まる。何にせよ、ここまで来た人なんだ、普通の人じゃない。

 誘拐、という言葉が頭にちらつく。どうしよう、逃げた方が良いのかな。


 柚はちらりと家の二階の部屋を見た。電気はついている。百合(ゆり)柊人(しゅうと)が家の中にいる。


 よし。

 柚は息を吸い込むと、鉄の錆びた音を立てながら自転車を止めて、家の方に近づいていった。



「あ、あの」


 数メートル離れたところで立ち止まると、柚は男の人に声をかけた。


「何か、うちに用があるんですか」


 男の人は、その声に緩やかな動作で振り返ると、おお、と声を上げた。


白葉(しろば)柚さんですか」


 低く落ち着いた声で、男の人は言った。柚は少し迷った後、「そうですけど」と答えた。


 すると、男の人は表情を変えずに軽く顎を引くと、柚の方に近づいてきた。恐怖が頭を強く殴る。柚はパッと二、三歩後ろに下がった。


「え、あ、ちょっと何ですか」


 じりじり近づいてくる男の人と一定の距離を保ちながら、柚は後ろに下がり続ける。それに、男の人は困ったような顔をした。


「ちょっと待ってくださいって。何もしませんよ。ただ招待状を届けに来ただけです」

「……招待状?」


 立ち止まる。すると、男の人は安心したように息を吐いた。


「まったく。あなたが逃げるから、私がそれを追いかける変質者みたいになってしまったじゃないですか」

「ええ……」


 私が逃げなくても十分変質者だったよ、と心の中で呟いた。


「その、招待状って」

「あ、はい。招待状です。白葉柚さんへ」


 男の人が手に持っていた茶封筒を差し出した。柚はそれを恐る恐る受け取る。


「シロバ、って読むんですね。俺、初めて見た時シラバだと思いました」

「は、はあ。そうですか」


 何だこの人。

 目の前に立つ不審者を警戒しながら、柚は封筒を観察した。何の変哲もない、薄っぺらい封筒。裏返すと、『五科(いつしな)工業』と書いてあった。


「五科、って」

「そうです。あなたがご存知の、あの五科工業です」


 驚いている柚に、男の人は頷いた。


 五科工業は、家電や電子機器など、様々な機械を製造、販売している、国内有数の大企業だ。最先端の研究もおこなわれていて、今一番勢いがあり、注目されている。


「何でそんなところから……」


「まあ、一種の実験みたいなものです。詳しいことは中に入っている書類に書かれているので、よく読んでおいてください。もちろん、協力していただければ十分な報酬も出ます。余裕のないあなたの家計にとって、なかなかいい話だと思いますよ」


 十分な、報酬……。

 柚は、まじまじと封筒を眺めた。


 報酬とは、どのくらいなんだろう。もし、高額だったら――。



「ああ、それと」


 と、男の人は付け加えた。その声に、柚は慌てて封筒から目線を上げる。


 その瞬間、ザっと、静かだった森の木々が急に揺れた。あれ、と思う。



 何で、急に――。



「断ったら」


 木々のざわめきの中、彼の低い声が、不気味なほど綺麗にその音と調和する。



「もし断ったら、後悔することになると思いますよ」



 ぞわり、と全身に鳥肌が立った。目だけを動かして男の人を見る。彼の目は、さっきまでとは別人のように冷たく、少しでも動いたら肌が切れてしまいそうなほど鋭かった。



「それは、どういう……」


 震える声を絞り出す。一歩間違えれば殺されてしまう。そんな気さえした。


「忠告みたいなものです」


 男の人は、パッと元の雰囲気に戻ると、ため息を吐いた。


「まあ、私は社長が何を考えているのか知らないので、何を後悔するのかは全く知りませんよ。社長の指示通りに言っただけです。ご容赦ください。それにしても――」


 呆気に取られている柚に、男の人は、突然ぐっと顔を近づけた。驚いて、身体がのけ反る。


「なるほど、あなたが彼女の――」

「な、何ですか」


 震えた声で尋ねると、男の人は、何でもないことのように「いえ」と答えて、ゆっくりと柚から顔を遠ざけた。


「すみません。少し気になることがあっただけです。特に意味はありませんよ」


 それでは、と言って、男の人は柚に背を向けた。そのまま迷わず足を進めていく。


「あ、あのっ」

 柚はその後ろ姿に声をかけた。


「帰り道、分かりますか」


 男の人はゆっくりと振り返ると、「はい」と答えた。


「来た道を帰ればいいので。ご心配、ありがとうございます」


 そう言うと、男の人はすたすたと細い道を歩き始めた。木の隙間に消えていくその姿を、柚は呆然と見送った。

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