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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第2章 日常と変化

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    『特殊能力』と体質③

 食堂に行くと、厨房に立っていた葵が、柚たちを見て笑顔を浮かべた。


「みんな、お疲れさま。今日はラーメンですよ」


 おおー、と歓声が上がる。ラーメンが好きな人は多いけれど、ここにいるメンバーもまた、同じようだった。


 各自、自分の分を葵から受け取り、席に着く。ラーメンの美味しそうな香りが湯気と一緒に器の中から溢れ出る。柚はそれを、しっかりと吸い込んだ。


 ラーメンは、インスタントのラーメンが特売のときによく買って食べていた。ちゃんとした店のものは食べたことがないけれど、柚にとっては好きな食べ物の一つだった。


 ああ、幸せだ。

 美味しいものを食べられる喜びに浸りながら、柚は手を合わせた。


「いただきます」


 麵をすすると、ダシの香りが口いっぱいに広がる。インスタントラーメンとは違って、もっと本格的なもののように感じた。


 食べ進めようと思ったところで、ふと、向かいに座っている桜草樹の姿が見えた。彼女は自分の前に置かれた器の中を、物珍しいものでも見るような顔で凝視していた。


「……その、桜草樹さん」

「はい、何ですか」

「もしかして、ラーメン、食べたことない……?」

「…………あ」


 桜草樹がゆっくりと顔を上げて、上目遣いで柚を見た。


「ありますよ、もちろん」


 あ、これ、ないやつだ。


「さすがお嬢様」

 ぼそりと櫟依が呟く。桜草樹が睨むように見ると、彼は知らん顔で麵をすすった。


「……いただきます」

 桜草樹は静かに手を合わせて、慣れない動作で麺を食べた。その瞬間、パッと顔が明るくなる。


「美味しいですね」

「本当に? ありがとう」


 葵が嬉しそうに言うと、桜草樹はぎこちなく、それでも嬉しそうに微笑んだ。


 ……可愛いな、やっぱり。


 ぼんやりと桜草樹の様子を眺めていると、「柚」と隣から声をかけられた。ハッとしてその方を見ると、凪沙が柚の器を指さしていた。


「髪の毛、汁に浸かってる」

「……え」


 柚は慌てて頭を起こした。髪の先端から、がっつり汁の匂いがする。


「マジですか」

 濡れた髪をつまみながらため息を吐く。


「大丈夫? 洗ってきたら?」

 創が持っていたティッシュを渡してくれる。すぐにティッシュを出せるあたり、さすが創、という感じだった。


「ありがとう。洗ってくるね」


 柚は受け取ったティッシュで軽く髪を拭くと、水道がある方に向かおうと、食堂を出た。



 確か、階段を上がったところに共用の水道があったはず。


 階段を上り、目的の場所まで辿り着いた。匂いが取れるまでしっかり髪を洗い、ハンカチで軽く拭く。おそらく、これで大丈夫だ。


 柚は何度も髪の毛を嗅いで確かめると、来たときと同じルートで食堂まで戻った、はずだった。



「え、ここ、どこですか」


 周りを見回す。見たことがあるような気もするし、無いような気もする風景だった。


 まずい、また迷った。


 迷うような構造の建物ではないはずなのに。柚は慌てて回れ右をして速足で歩いた。見つけた階段を下りると、またよく分からない場所に出る。同じ階段を上がって、今度は反対の方向に行こうとして、柚は、足を止めた。



 何で、こうなるんだろう。



 柚はいつもよりも大きくため息を吐く。それでもまだ、息は吐き足りなかった。何かが喉につかえているような、そんな感覚がする。


 私は、いつもこうだ。

 何をやっても、すぐに失敗する。注意力散漫で、考えなしに行動して、周りの人に助けてもらって。守ってもらって。


 ふと、桜草樹の顔が脳裏に浮かぶ。喉につかえたものが、更に大きくなる。



 私は、いつも――



「柚」


 ハッと振り返る。そこには、呆れたように微笑む凪沙が立っていた。


「凪沙ちゃん……」

「迷ってると思って、迎えに来た」


 そう言うと、凪沙は柚に近づいてきた。


「何泣きそうな顔してるの。いつものことでしょ」


 行くよ、と静かな声で言って、凪沙は歩き出した。その声が優しくて、柚は思わず泣きそうになる。


「ありがとう、凪沙ちゃん」

「いいえ」


 凪沙が柚の手首を軽く握る。いつも通りだった。


「……柚はさ」

 おもむろに、凪沙が口を開いた。

「桜草樹さんのこと、気になる?」

「……」


 柚は黙って、前を歩く凪沙の後ろ姿を見た。


 気になる、というのは、気に入らない、という意味なのだろう。凪沙はきっと、柚のために、あえて柔らかい言い方をしてくれた。


「……気になる、かな」

 柚は、落ち着いた声で、素直に答えた。


「多分、私ね、桜草樹さんのことが、羨ましいんだと思う」

「羨ましい、か」


 うん、と答えて、柚は凪沙が繰り返したその言葉を、確認するように、心の中で繰り返す。ついさっき、頭にじんわりと浮かび上がったその言葉は、思った以上に的確に柚の気持ちを表しているようだった。


 桜草樹が、社長に堂々と質問していたこと。歓迎パーティーを一番に断ったこと。その態度を、翌日に皆の前で謝ったこと。柚にも、皆の前で謝ったこと。


 周りの目を気にせず、たとえそれが人の気分を害するものでも、自分の言いたいことをはっきり言う姿。物事を深く考え、真っ直ぐ現実に向き合おうとしている姿勢。聞いてはいけないことを、堂々と聞いてしまう強引さ。桜草樹家を、一人で背負おうとする姿。あの笑顔。


 それら全てが、周囲の人や、彼女自身にとって良いものだとは言い切れない。けれど、それら全てが無条件に正しく見えてしまうのは、どうしてだろうか。


 きっとあの子は、自分の力で、自分の世界を上手く生きられる人だ。



「私、どうしてこんなに子供っぽいんだろう」

 自嘲的な言い方になっていることを自覚しながら、柚は呟いた。


「いつも、ちゃんと考えずに動いたり、嫌なことから逃げたりしてる。自分自身のことも十分にできないのに、目に入って気になったことに勝手に必死になって、空回りして――桜草樹さんとは大違いだね」


 柚は目を伏せて、凪沙に導かれて正しい方向に歩く爪先を見つめた。


 後先考えずに、その場の勢いや感情で行動して、今まで何度失敗してきただろう。相手の真意も確かめずに行動して、結果的にその人を傷つけたり、更にひどいことになって関係のない人を巻き込んでしまうことになったり。


「それで、いつも迷惑ばっかりかけちゃって、結局誰かに助けてもらって。だから――」



 だから、私は。

 こうやって、生きているのに。

 いつまで経っても、何も、変えられないまま。



「……ごめんね、こんな話して」


 柚は誤魔化すように、笑顔を作った。


「まあでも、前に言ったみたいに、ただお金持ちの桜草樹さんを僻んでるっていうのが大きいと思うけどね。それか、劣等感、みたいな」


「……いいんじゃないかな、それで」

 凪沙が前を向いたまま言った。柚は驚いて、表情よく見えない凪沙の後ろ姿を見つめた。


「いいって、何が……」

「柚の性格のこと」


 僻みとかとは違う方ね、と凪沙は付け加えた。


「私は、柚はそれでいいと思う」

「……ありがとう。優しいね、凪沙ちゃんは」


 力なく笑う。すると、凪沙が小さくため息を吐いた。


「そういうのじゃないから。これは私の本心」

 凪沙は、少し苛立ったように、それでも大切にその言葉を置くように、そう言った。


「柚は、自分のことを子供っぽいと思ってて、それを悪いことだと考えてるみたいだけど、そんなことないと思うよ。大人になって、できることが増えて、ある程度のことは解決できる力を手に入れたときにはもう、その力を使いたいと思うことはなくなるものなんだよ。あれだけ何とかしたいって願っていたことも、全部忘れて、見て見ぬ振りするようになる」


 凪沙が、スッと足を止めた。柚も、数歩進んで足を止める。ちょうど、凪沙の顔が見えるようになった。


「もしも柚がそういうふうになるんだとしたら、私は寂しい」


 そうして凪沙は、愛おしそうに柚の顔を見た。


「柚は、今のままでいいよ。周りが見えていないとか、人に迷惑をかけるとか、そんなこと、考えなくていい。目の前のことに一生懸命になれる、今の柚のままで、いてほしい」


 初めて聞くんじゃないかと思うくらい真っ直ぐな凪沙の言葉が、胸のあたりでパッと弾けた。弾け飛んだ欠片が、ゆっくりと、温かく身体に染みわたっていく。


 柚は凪沙の顔を見つめ返した。いつも柚のそばにいてくれる、幼馴染であり、親友でもある、凪沙の顔。


 ふと、小学生のときのことが脳内に蘇った。凪沙と柚が、今のように仲良くなった、その瞬間の記憶。あの日も、今と似たような顔をしていたっけ。


「……ありがとう」

 緊張がほどけた頬で笑うと、凪沙は「うん」と小さく答えた。


「ほら、戻るよ。ラーメン、多分伸びてるよ」

「あはは、だよねー」


 凪沙に手を引かれて、柚は歩き出した。

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