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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第1章 始動

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    アルバイトと傷害事件③

 昼食を済ませ、会社に戻り、午後からもまた午前と同じような仕事を続けた。午後は、柚は一人で会社のフロアの掃除をした。



「あー、疲れたー」


 担当の仕事を終えて、部屋に戻ってきた柚は自分の机に突っ伏した。バイトはいくつかやったことがあるけれど、ここまで体力が必要なものはなかったような気がする。


 柚の斜め前に座る櫟依も、昼と同様机に突っ伏して溶けている。彼もかなり疲れているようだった。



「皆さん、お疲れ様です。担当の仕事が終わった人から、各自着替えて帰ってください。お疲れさまでした」


 景山が淡々と言って、すぐに部屋を出ていった。社長秘書はやはり忙しいらしい。


 壁にかかった時計を見ると、四時になる十分前くらいだった。今日はまだ学生にとっては春休みだから、終業時間は休日の時間ということになっているらしい。


「帰ろうか」

 凪沙が言った。柚は頷いて、三ツ花にも声をかけて部屋を出た。


 部屋を出て、更衣室に移動する。柚たちはそこで、指定の作業着から、今朝着てきた私服に着替えた。



 その後、柚たちは会社を出て、『家』に戻った。



「あ、おかえりなさいです」


 『家』に入ると、ホールで掃除用ロボットを動かしていたルリが出迎えてくれた。ホールには、少し前に到着した男子メンバーもそろっていた。


「お疲れ様です。仕事、大変でしたか?」

「うん、大変だったよ」


 近くに寄ってきたルリの頭を撫でながら、柚は答えた。


「ルリちゃんも、お仕事お疲れ様」

「えへへ。ありがとうです」


 満足そうに笑うルリ。癒される。



「あ、そう言えば」

 ルリが何かを思い出して、階段の方を振り返った。


「さっき一華が来てましたよ」


 一華。

 少し遅れて、それが桜草樹のことだと思い出す。その瞬間、柚の身体に緊張が走った。


 桜草樹さん、来てるんだ。


「そうなんだ――あ」


 ルリに答えて、階段の方に目を向ける。すると、目を向けた先にちょうど立っていた桜草樹本人と目が合った。


「……こんにちは」


 挨拶をしてみる。すると、桜草樹はキッと柚を見据えて、「ごきげんよう」と答えた。目を逸らさずに、唇をしっかりと結んで、桜草樹は柚を見つめている。目を逸らしたいのに、そうすることができなかった。


「わざわざここまで来て、どうしたの?」


 天瀬がニコリと笑って尋ねた。桜草樹の目が天瀬の方に向く。身体の力がドッと抜けていく感覚がした。


「特に用はありません。少し、寄っただけです」


 桜草樹が固い口調で答えた。向かい合う天瀬とは、雰囲気が対照的だった。


「寄っただけ、ね」

「はい。そうです」


 そう言ったきり、二人は口を閉じてしまった。沈黙がロビーに満ちる。



 桜草樹さんは、何をしたいんだろう。


 柚はそっと桜草樹のことを見ながら考える。本当に用がないなら、桜草樹がわざわざここに、この時間に来るとは思えなかった。



「……桜草樹さん」



 不意に、誰かの声が沈黙を破った。驚いて声のした方を見ると、そこには櫟依が立っていた。彼は、さっきまでの疲れ果てた様子を少しも見せない、真剣な顔で桜草樹を見ていた。



「桜草樹家の代表のおばあさん、二か月前くらいに亡くなったって、ニュースで見たの思い出しました。だから、あんまり余裕がないんじゃないかと、思って」


 柚は、驚いて櫟依の方を見た。



 おばあさんが、亡くなった。

 二か月前に。



 胸がズキリと痛む。そんなこと、知らなかった。


 柚は、そっと桜草樹に目を向けた。そして、彼女の表情に、柚は少し目を見開いた。



 前をしっかりと見つめていた桜草樹の目が揺れている。引き結んでいた唇からも力が抜けて、何か言葉を出したいのに出せないと言ったように軽く開いている。それを見て、櫟依はいたたまれなくなったのか、少し目を逸らした。



「大変、だったんですよね」


 櫟依のその言葉に、桜草樹の顔がふと泣きそうに歪んだ。けれど、それは一瞬のことで、桜草樹はすぐに顔を引き締めた。


「大変ではありますが、まだ、大丈夫です」


 そう言って、桜草樹は微笑んだ。その拳が強く握られているのに気が付いて、柚の胸がキュッと締め付けられた。


 おばあさんが死んでしまって悲しい上に、急に代表がいなくなって家は混乱しているのだろう。経営の引継ぎなど、きっと色々と忙しいはずだ。精神的にも時間的にも余裕がなくなるのなんて、当然のことなのに。


「おばあちゃんのこと、好きだったの?」

 天瀬が聞くと、桜草樹は困ったように微笑んだ。


「厳しい人でしたから、あまりいい印象は持っていませんでしたが、今思えば、好きだったのかもしれません。急でしたから、もう、訳が分からなくて」


 そう言って、桜草樹は少しだけ顔を伏せた。


「……大変だったんだな」

 勝元が、落ち着いた、優しい声で言った。


「つい最近、妹さんも弟さんも大きな大会で入賞したってニュース見たけど、下二人がそれだけ忙しいと、余計に厳しいんじゃない?」

「まあ、そうですね。でも、それでいいんです」


 桜草樹は、ゆっくりと顔を上げた。その顔には、普段の緊張が解けた、柔らかい笑みが浮かんでいた。


「あの二人には、他の人が手に入れられないような才能があります。家の面倒なことなんて気にせずに、二人には自分のやりたいことをやって、その才能を生かしてもらいたいんです」


 そして彼女は、今までの表情からは考えられないほどの清々しい笑顔で言った。


「あの二人は、私の自慢です。だから、これからの桜草樹家は、全部、私が背負っていかないといけないんです。そうじゃないと、ダメなんです」


 それを見て、そうか、と柚は思う。


 桜草樹は、才能のある妹弟に対して憎しみや嫉妬を覚えて厳しい性格になったわけじゃない。妹弟を大事に思っていることから生じる責任感に耐えていたのだ。



 と、何かに気が付いたように、桜草樹がハッとして、目を違う方に向けた。その視線の先には、こちらを見る葵の姿があった。


 桜草樹と目が合った葵は、優しく微笑むと、ゆっくりと桜草樹に近づいてきた。その目は、愛しいものを見るような、温かい目だった。


 近くまで来た葵に、桜草樹は礼儀正しい動作で頭を下げた。


「申し訳ありませんでした。いくら余裕がなかったとはいえ、あの言い方は良くありませんでした」

「全然気にしてないから、大丈夫。私も、そんなに大変なのに無理強いするみたいになっちゃってごめんね」


 葵も落ち着いた動作で頭を下げた。それを見て、桜草樹は一瞬、ほっとした顔を見せた。柚は、心がじんわりと温かくなるのを感じた。


 きっと桜草樹は、これを言うためにここまで来たのだ。メンバーの前で、堂々と、謝るために。さすが、桜草樹家の長女だ。



「白葉さんも」


 急に呼び掛けられて、驚いて桜草樹の顔を正面から見る。桜草樹は、柚の目を真っ直ぐに見つめていた。


「白葉さんにも、謝りたいです。申し訳ありませんでした」


 目の前で頭を下げる桜草樹を、柚はどういう目で見たらいいのか分からなかった。またあのぞわぞわとした感覚が、鈍く胸の中で疼く。


 もう、いいのに。

 どうして私に、わざわざみんなの前で謝るんだろう。私が、子供みたいだ。


「こちらこそ、何も事情を知らないのに怒っちゃってごめんなさい」


 努めてにこやかに、柚は笑う。きっと、誰も、何も悪くないのだ。



「あ、それと」


 桜草樹は他のメンバーたちを見回して少し目を伏せた後、少し恥ずかしそうに言った。


「家の方の仕事が落ち着いて、暇ができたら、私も一緒に働かせてもらってもいいですか――しゃ、社会経験ということで。親の許可も下りているので」


 言い訳のように、もごもごと言葉を続ける桜草樹。一拍おいて、何人かがフッと微笑んだ。


「もちろんだよ。これからよろしく、桜草樹さん」


 皆を代表して、勝元がにこやかに言った。それに、桜草樹は「はい」と答えた。



「それにしてもさあ」


 天瀬が櫟依の肩に腕を回して、その顔を覗き込むようにした。


「桜草樹サンの家が大変だって、よく気が付いたね。オレ、今聞いて、あーそんなニュースあったかも、ってくらいにしかならなかった。調べたの?」

「い、いや、別にそんなんじゃないけど」


 櫟依が気まずそうな顔をふいと背ける。


「ニュースは見たことあったし、何となく、そうかなって思っただけで」

「へー、優しいじゃん。格好いーじゃん」

「うるさい」


 櫟依が全力で天瀬の腕をほどこうとする。しかし、全然ほどけてない。



 その様子を何となく眺めていると、隣から「柚」と呼び掛けられた。


「何? 勝元くん」


 顔を向ける。勝元の後ろには、創も立っていた。


「これから時間ある? 四人で集まりたいと思うんだけど」


 そう言うと、勝元は柚の隣に立っている凪沙の方を見た。


(みなと)さん、今家にいるんだよな」

「うん、今は。あと数日したら、多分またどこかに出かけると思う」


 凪沙は答えると、少し顎を引いて、四人にだけ聞こえる声で言った。


「『道』のこと?」

「ああ」


 勝元が真剣な面持ちで頷く。


「私はいつでもいいし、湊も多分、家にいる間は話を聞いてくれると思うけど」

 凪沙はそう言うと、柚の方を見た。


「柚はこれから忙しいよね」

「そうだっけ?」


 呟いて、柚はハッとする。そして、慌ただしく周りを見回した。


「柚」

「何?」

「時計?」

「うん。今何時かなって思って」


 凪沙を振り返ると、凪沙は無言で自分の手首を指さした。柚も自分の手首を見て「あ」と呟く。


 そう言えば、腕時計もらったんだった。


 視界の端で勝元と、なぜか天瀬が笑っているのを無視して、柚は袖を巻くった。

 時間を確認する。よし、間に合う。


「ごめん、行かないと」

「何か用事?」

「うん。バイトがあって」

「……バイト」


 勝元の声と共に、その場にいる全員の視線が柚に集まって、ぎょっとする。


「え、何?」

「この後もやるのか」

「うん。春休みは学校が忙しくないし、ちゃんと稼がないと」


 半分驚いて半分呆れたような顔の勝元に、柚は力強く言った。


「疲れてないの?」

 天瀬の問いに、柚は首を振る。


「疲れてるけど、まだ大丈夫。いつもこんな感じだから」

「……すごいな」


 驚いた顔の天瀬。周りの皆も同じような顔をしている。


 驚くことでもないんだけどな。


 柚は蓮人の普段の生活を思い浮かべて苦笑いをする。蓮人はいくつものアルバイトを掛け持ちし、ギリギリのシフトを組んで、睡眠時間を削って毎日働き、その中で大学に通ってきっちりと単位を取っている。それで疲れた様子もほとんど見せないのだから、もうタフというより超人だった。柚はその足元にも及ばない。


 そんな生活から蓮人を解放するためにも、柚は働かなければならない。



「ごめんね。集まるのはまた今度でもいいかな? あ、でも、私に合わせずに、三人だけで話してていいよ。三人とも、これから忙しいだろうし」

「ううん。また改めて四人で集まろう。バイト、頑張ってね」


 凪沙の応援に頷くと、柚は他の人たちを振り返り、ぺこりとお辞儀をした。


「お疲れさまでした」

「お疲れー」


 葵と天瀬が手を振った。柚はもう一度頭を下げると、地下に繋がる階段に向かって歩き始めた。



「柚」


 急に呼び止められる。振り返ると、凪沙が微かに険しい顔をして、柚の方に近づいてきた。


「柚のバイト先って、柚の家に一番近いコンビニだよね」

「そうだけど……」

「気を付けて。最近、あの近辺、すごく治安が悪い」


 声は落ち着いていたけれど、どこか研ぎ澄まされたような鋭さがあった。


「特に、そのコンビニから二本先くらいの路地は、よく裏道として使われるけど、危険だから気を付けて」

「……うん、分かった。気を付けるよ」


 柚はしっかりと頷いた。


「ありがとう。行ってきます」

「うん」


 凪沙が一歩下がって、小さく頷いた。


 他のメンバーの誰かのものだろうか、少し離れたところから、柚に向けられた視線を感じたけれど、柚は気にせずに、凪沙に対して軽く手を振ると、再び地下へと足を向けた。

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