アルバイトと傷害事件②
昼の時間。割り振られた仕事が一通り終わって、柚たちは、第一会議室に向かった。
柚と天瀬が部屋に入ると、他の参加者は皆、既に部屋に集まっていた。
「柚、お疲れ」
「あ、お疲れー」
声をかけてきた凪沙に、柚も答える。
「どう? 問題なくやれた?」
「もちろんだよ」
近くにいる天瀬に会話が聞こえていることを気にしながら、柚は凪沙の質問に答えた。
凪沙の横には、三ツ花が、居心地が悪そうに立っていた。柚は三ツ花に笑いかけた。
「三ツ花さんもお疲れさま」
「あ、お、お疲れ様です」
焦ったように、三ツ花は素早くお辞儀をした。
「掃除、大変だったね」
「はい。大変でした」
二人で笑い合う。そのとき、ふと近くの机に突っ伏している櫟依の姿が目に入り、柚はぎょっとした。
彼の周りにはどんよりとした色の空気が漂い、身体が溶けたようにぐにゃりと歪んで見えた。とんでもなく疲れている。
「えっと、櫟依くん、お疲れさま……」
声をかけてみる。すると、「おー」と弱々しい声が返ってきた。櫟依は緩やかに顔を上げた。
「死ぬほど疲れた。もう訳分かんない」
聞くところによると、彼は中梛と共に、重い荷物を運び入れる肉体労働をし続けていたそうだ。
「何で貧弱な俺が担当なんだよ。もっと体力ありそうな人いるのに」
顎を机に付けて、ぶつぶつと文句を言う櫟依。それに、彼と同じ仕事をしていたはずなのに、少しも疲れている様子のない中梛が呆れたように目を向けた。
「体力無さすぎだろ」
「中梛がありすぎるんだって。人間じゃないよ。どうなってんの」
櫟依が言い返すと、少しだけ、中梛の目が鋭くなった。柚は、景山が歓迎パーティーのときに言っていた、彼は不良だ、という言葉を思い出してひやりとする。けれど、中梛は暴力を振るうことも怒鳴ることもせず、軽く櫟依の頭を小突いた。
「運動しろ」
「えー」
めんどくさい、と呟く櫟依。この二人は、午前中だけでかなり仲良くなったみたいだった。仲良くなるのは難しそうだと言われていたのに、と柚は思った。
そのとき、部屋の扉から、景山が静かに入ってきた。
「全員集まっているようですね」
景山は部屋の中を見渡して言った。
「それでは、担当の仕事が終わった人から、午前の仕事は終了です。昼食は、少し手間ですが、一度『家』まで戻って取ってもらえればいいです。食堂に用意されていると思います。午後の仕事の割り振りはまた伝えるので、引き続きよろしくお願いします」
そう言うと、景山は軽く礼をして、部屋を出ていった。
「じゃあ、行こうか」
入り口の扉のそばに立っていた勝元が、皆に呼び掛けた。皆は頷いて、順に部屋を出ていく。柚も出ていこうとしたところで、ふと、奥の机に一人、誰かがいるのが見えた。見える位置まで移動すると、そこには、藍代が座っていた。
彼は、書類をホチキスで止める作業を続けていた。A4の紙のまとまりが、縦と横の向きで交互に積み重なった山と、ホチキス止めが終わって綺麗にそろえて積まれた山が、藍代の机の両端に載っている。すぐに終わりそうな量ではなかった。
柚はゆっくり深呼吸をすると、藍代に近づいていった。
「あ、あの」
声をかけてみる。すると、藍代の目が、スッと柚の方を向いた。昔、画面越しに見ていたはずの顔が目の前に見えて、柚は思わずドキリとする。
やっぱり、あの藍代昴琉なんだ。
その綺麗な顔を間近で見て、柚はしみじみと思った。
少しの間、黙ってしまった柚に、藍代は無感動な目を向けた。
「何ですか?」
その声が、彼から発する声にしてはあまりに冷たくて、柚は思わずびくりとした。
「それ、午前中の担当の仕事ですよね。手伝いましょうか」
弱々しい声が出ないように気を引き締めて、柚はしっかりと藍代を見て言った。
と、藍代は、すぐに目を逸らした。何事もなかったかのように、自分の作業に戻る。
「あ、あの……?」
「結構です」
突き放すように、藍代は淡々と言った。
「自分でやりますから」
「そ、そうですか」
自分の体温が下がっていくのを感じる。失敗した、と思った。柚はぱっと藍代から離れて、小さく頭を下げた。
「ごめんなさい」
「ちょっとー、そんな言い方したらユズがかわいそうだよ」
いつの間にか近くに寄ってきていた天瀬が、軽い調子で注意した。そして、柚と、柚を待っている凪沙と三ツ花を見て「行こ」と呼び掛けた。
呼びかけに応じて歩き出した皆に続いて、柚も部屋を出た。
「ごめんね。ユズ」
部屋を出たところで、天瀬が申し訳なさそうに両手を合わせた。
「あいつ、ああいうやつだから、どうにもならなくて」
「いいよ。私こそごめんね。何か、調子に乗ったようなこと言っちゃって」
「そんなことないって。気を遣ってくれたんでしょ。ユズはやさしーよ」
天瀬がニコリと笑った。柚はそれに「ありがとう」と力なく笑うと、前を歩く凪沙と三ツ花に声をかけた。
「二人とも、待たせちゃってごめんね」
「いえ、大丈夫ですよ」
三ツ花がぶんぶんと首を横に振った。その隣で凪沙も「大丈夫」と頷いた。二人の顔が自然なのを確認して、柚はほっと息を吐く。
――柚ちゃんみたいな人のこと、偽善者って言うんだよ。
かつて、言われた言葉を思い出す。人を助けようとして、逆に傷つけたこと。鬱陶しがられたこと。忘れていないはずだった。
ダメだなあ、本当に。
カッコいい昴琉くんにあんな目を向けられてしまったと知ったら、百合はどんな顔をするのだろう。想像すると、更に身体が冷たくなっていくような気がした。
柚たちは、部屋のあるフロアの廊下の突き当りを曲がり、鍵の付いた鉄製の扉を開けた。そこには、ここまで来るときにも使った隠しエレベーターが、ひっそりと存在していた。
雑用アルバイトとしての認識は、五科工業の社員にはあるが、プロジェクトの詳しい内容や『家』のことは隠しているため、『家』から会社への移動はあまり見られない方が良いみたいだった。そのため、特別プロジェクトの参加者はその隠しエレベーターを使うことになっている。エレベーターが下まで下がったところに、会社の裏通りに面した裏口があった。
エレベーターに乗り込むと、三ツ花がスッと手を伸ばしてボタンを押した。エレベーターが降下し始める。このときのふわりと浮く感覚にあまり慣れていなくて、柚は思わず「うわ」と変な声を出してしまう。すると、また天瀬に笑われた。
「柚、可愛いでしょ」
凪沙が天瀬に言うと、天瀬は声を上げて笑うのを堪えながら何度も頷いた。
そんなに笑えるかな。
柚が少し顔を赤らめて天瀬を見ると、彼は「ごめんごめん」と謝った。その後も、まだ笑い続けている。ツボに入ったみたいだった。
「二人とも、驚くほど仲良くなったね」
凪沙が少しも驚いていない口調で言った。それに、ツボから抜け出した天瀬が、チャラいオーラを前面に出して懲りずに言った。
「じゃあ、凪沙センパイもオレと仲良くする?」
躊躇なく天瀬の足を踏みつける凪沙。何かが折れるような、危険な音が聞こえた。
「すいませんすいませんマジでごめんなさい許してください」
激痛に悶えて、ほとんど土下座のような姿勢になりながら、天瀬は凪沙に懇願する。可哀そうに。
「私は良いけど、柚に手を出したら骨砕くからね」
物騒な脅し文句を、冷ややかに天瀬を見下ろしながら吐く凪沙に、大量の汗を流す天瀬は、それでもいつもの笑顔を浮かべて「もちろんっすよ」と答えた。
怖いよ、凪沙ちゃん。
柚も冷や汗を浮かべた。
エレベーターが緩やかに止まり、チン、と軽い音を立てて扉を開けた。柚たちはエレベーターを降りると、『家』の方に歩き始めた。柚は、反対側に進もうとしたところを凪沙に止められ、襟首をつかまれた。
そう言えば、いつの間にか身体が温かくなってる。
凪沙に引き摺られながら、柚はふと思った。藍代に冷たくあしらわれて受けたショックは、もうほとんど残っていなかった。
これも凪沙ちゃんと天瀬くんのおかげだな。
柚は、位置的にちょうど目に入った天瀬の方をちらりと見た。すると、それに気が付いた天瀬がいつもの軽薄そうな笑顔で、「どうしたの?」と聞いてきた。柚は慌てて「何でもないよ」と目を逸らした。
やっぱりチャラいな、この人。