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第4話 アルバイトと傷害事件①

 翌日の朝八時。アルバイトのために『家』のホールに集まったのは、桜草樹以外の九人だった。


「凪沙ちゃんと勝元くんも来たんだね」

 柚が言うと、二人は「まあ、一応」と答えた。


「今年受験生だし、ほとんど参加できないと思うけど、初回だから来ておいた方が良いだろうと思って」

 勝元がそう言うと、凪沙も軽く頷いた。



 アルバイトの参加開始時間は基本的に自由で、自分の都合によって始める時間を調節できるそうだ。出勤できる時間を前日までに提出して、その人数によって景山が仕事内容を決めるらしい。


 終了時刻は、平日は十九時、休日は十六時。それまでの時間であれば、大抵はいつ来ていつ帰ってもいい。だから、少しの時間だけ参加することも可能だった。他の普通のバイトと比べると、かなり自由すぎて心配だけれど、ありがたいということに変わりはない。



 会社に移動して、ビルの裏口から入り、以前使ったエレベーターよりも小さいエレベーターを使って階を上がる。案内されたのは、初日に社長から『特別プロジェクト』の説明を受けた、第一会議室という部屋だった。



 第一会議室に出入りする扉は、部屋の前後に二つあるけれど、一方は鍵がかかっていて、使えるのは初日に使った前側の扉だけらしかった。


 初めてここに来たときには、緊張と驚きで、ほとんど周りに注意を向けることができなかった。そのため、一度来たことがある場所だけれど、全然知らない場所のように感じる。柚は改めて、これから使うことになる第一会議室を観察した。



 扉を開けて部屋の中に入ると、まず初めに、正面の壁にある大きな窓が目に入った。この部屋はビルの二十階にあるため、窓の向こうには、柚が見たことがないような高さからの景色が広がっていた。


 窓がある方の反対側、すなわち出入口の扉がある側の壁には、背の高いガラス扉の棚が置かれていた。中には書類やファイルなどが入っている。窓から入ってくる光が、ガラスで明るく反射していた。


 出入口から左手側には、移動式のホワイトボードが置かれていた。天井には、初日の説明で使用されていたスクリーンが収納されている。ホワイトボードの前には、人が集まれるようなスペースが開いていた。


 そのスペースを挟んで右手側には、柚たち参加者に個々に与えられた机があった。机は、初日は学校の教室のように、全て前を向いた状態で並んでいたが、今はまるでオフィスや職員室のように、二つの机が向かい合わせになるような状態で横向きに並べられていた。二つの机の間には棚もついていて、かなり本格的だった。席は、窓側の列の手前側から、部屋や『道』のときと同じ順番で割り振られていた。



 自分の席の場所を確認した後、第一会議室を出て、その隣にある更衣室へと移動した。第一会議室のすぐ隣が男子更衣室、その隣が女子更衣室だった。


 更衣室には、鍵付きのロッカーが四つずつ向かい合わせで並んでいて、自分で好きな場所を選んで使っていいようだった。持って来た荷物もロッカーに入れるらしかった。


 柚たちはそこで、景山に渡された指定の服に着替えた。服は、深い青色のポロシャツに、黒のズボン、青のジャンパーだった。ポロシャツとジャンパーには、それぞれ五科工業のマークが入っていた。



 指定の服に着替えると、柚たちはそれぞれ景山に指示された担当の場所に移動した。



 仕事内容は日によって変わり、その日に参加する人に、そのとき必要な仕事が振り分けられる。だから、いろいろな種類の仕事をしなければならないけれど、そのほとんどが誰でもできるような雑用ばかりなので、覚えることが多くて大変、というわけではないみたいだった。



 柚は今日、トイレ掃除やトイレットペーパーなどの備品の補充に回る係だった。階が多いため、男女一人ずつがペアになり、三ペアで担当の階を掃除していく。ペアの組み合わせは、創と凪沙、勝元と三ツ花。そして、柚と組むのは天瀬だった。



 何でこの人となのかなあ。


 トイレットペーパーの箱を持ちながら、柚は隣を歩く天瀬をこっそりと見た。昨日、凪沙を口説こうとしていた、チャラそうな人。ペアを組むなら、創か勝元がよかった。天瀬とはなるべく関わらないように、と思っていたのに。


 悪い人ではない、とは思うけれど。


「どうしたの? 俺の顔、そんなにじっと見て」


 急に声が聞こえて、ハッとする。天瀬が、ニコニコと軽い笑顔を浮かべて柚を見ていた。心臓が跳ねる。


 あ、ヤバい。


「え、あ、な、何でもないですよ」

 慌てて答えると、天瀬が面白そうに笑った。そして、少し顔を覗き込むようにして柚を見た。

「もしかして、オレの顔に見惚れちゃった? なーんて」


 甘い声。身体中から汗が噴き出る。

 これ、どういう状況なんだろう。


 柚はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。その拍子に、持っていた箱を落としそうになる。柚は、箱にしがみつくようにしてそれを止めた。


 そんな柚の様子を見て、天瀬は吹き出した。


「ごめんね。冗談だよ。面白いなあ、ホント」

 面白そうに笑う天瀬。恥ずかしい。


「そうそう。確か、腕時計もらったときもすごく喜んでたよね。可愛かったよ」

 天瀬が、まだ笑いを言葉の中に残しながら言った。そういえば、そのときにも同じように笑われたのだったと、柚は思い出した。


「桜草樹サンに向かって怒ろうとした後、葵サンと話してたときも言ってたけど、白葉サン、貧乏なの?」


 遠慮なくずけずけと聞いてくる。隠すことでもないと思い、柚は素直に頷いた。


「貧乏、ですよ。結構」

「そうなんだ」


 天瀬が、顔を覗き込むような姿勢をやめて、身体を起こした。


「どのくらい厳しいの?」


 どのくらい、と言われましても。


「毎食、もやし……?」

「……そっか」


 廊下の向こうから、五科工業の社員の人たちが歩いてきた。すれ違うときに「こんにちは」と挨拶すると、向こうも笑顔でお辞儀を返してきた。社員には、私たちの存在は、雑用係のアルバイトとして認識されているみたいだった。


「……ねえ」


 天瀬が呼びかけてきた。その方を向くと、天瀬と目が合った。彼は、柚に向かってニコリと、軽薄さのない、人懐っこい笑顔を浮かべた。


「ユズって呼んでもいい?」

「え?」


 驚いて、目を瞬いた。同学年の男子に名前呼びなんて、創から以外、ほとんどされたことがない。


「……いいよ」

 答えると、身体が熱くなった。緊張しているみたいだった。


 天瀬はそれを聞いて、嬉しそうに笑った。


「ありがと。あ、あと、同じ学年なんだよね。敬語じゃなくていいよ」

「わ、分かった」


 柚は反射的に頷く。どうしたのだろう、急に。


 不思議に思って天瀬の顔を見上げると、柚の考えていることに気が付いたのか、天瀬は明るく言った。


「ほら、景山サン、言ってたじゃん。仲良くした方が良いって。これから、ユズ、たくさんアルバイトやるでしょ。オレもやるつもりだから、関わることも多くなるだろうし」

「そ、そうだね」


 柚は納得して頷いた。と同時に、これからもたくさん天瀬と関わっていかないといけないのか、と少し思った。


「ユズはさ、どうしてそんなにお金ないの?」

 不意に、天瀬が聞いてきた。柚は言葉に詰まる。

「どうして、って……」

「親とかは?」

「親は……」


 その先が、うまく出てこない。頭の中に、蓮人の顔が思い浮かぶ。


 あの日、急に変わってしまった生活。変わってしまった、兄。

 あの日、起きてしまった、事件で。


「……今は、働けない状態だから」


 柚は小さく息を吐き出して、自然を装って言った。


「だから、お兄ちゃんが頑張って稼いでくれてる」

 努めて明るく言った。きっと、うまくできている。


「学校も通いながら、夜にバイトして、朝早くにも働いてくれて。それで、なんとか成り立ってる。私もバイトはしてるけど、四人兄弟だし、あんまり大きな足しにはなってないかな。だから、このプロジェクトには感謝してるんだ」


 ニコッと笑って、柚は天瀬の方を向いた。


「偉いなー、ユズは。ちゃんと家族のこと考えて、ちゃんとした方法で稼いで」

 天瀬は感心したように言った。そして、少し声のトーンを落とした。

「そんな状況なのに、危ない仕事とかはしないの?」

「危ない、仕事?」

「そー」


 天瀬がどういう意図でそんなことを聞いたのか、分からなかったけれど、柚は素直に「うん」と答えた。


「もしかしたら、お兄ちゃんは、私たちに隠れて危ないこともしてる、のかもしれないけど、でも、私たちには絶対にさせないようにしてくれてる」


 一度、どうにも家計が苦しいとき、自分の可愛さを自覚している百合が、そういう仕事をしようとしていたことがある。そのとき、それに感付いた蓮人は、普段の振る舞いからは想像できないほど怒って百合を叱った。蓮人は絶対に、柚たちに危ない仕事をさせないようにしてくれる。


「そうなんだ」


 天瀬が微笑んだ。その顔に、ふと影が差したように感じた。初めて見るその表情が、普段の様子からは想像できないほど哀しそうに見えて、柚は軽く驚く。


 どうして、そんな表情をするのだろう。


「優しいんだねー、お兄さん。羨ましい」


 何となく、見てはいけないような気がした。柚は小さく「うん」と答えると、顔を手に抱えた箱で隠した。


「……天瀬くんは」


 天瀬が黙ってしまって、気まずい空気になったので、柚は少し悩んだ後、口を開いた。


「ここで初めて会って、参加するかどうかの話し合いみたいになったとき、家出したって言ってたけど、大丈夫、なの?」


 天瀬の顔が、緩やかに柚の方を向く。聞かない方がよかったのだろうか、と身体が冷えるのを感じた。


 しかし、そんな柚の不安とは裏腹に、天瀬は「うん」と当然のように答えた。


「オレの親、オレのこと心の底から嫌ってて。家にいるだけで嫌な顔されるんだよ。だから、出てきた」


 そう言うと、天瀬はいつも通りの笑顔で柚を見た。


「大丈夫だよ。家に帰らないこと、今までにも何度もあったし」

「何度も?」

 柚は聞き返した。


「家に帰らないときは、どこで寝泊まりしてたの?」

「んーとね、友達の家とか、そのとき付き合ってた彼女の家とか、かな」


 さすが、手段がリア充だな。


「いやー、でも、このプロジェクトはホントに助かったな。寝るところと割のいい仕事があるなんて、マジでありがたい。神様に感謝」


 天瀬が天井を仰いで、何かありがたいものを見るように目を細めた。


 いつの間にか、担当の階のトイレに着いていた。天瀬は箱を入り口のところに下ろし、持って来た『清掃中』の看板を置くと、柚を振り向いた。


「じゃ、後で。掃除、頑張ろーね」

「うん」


 軽く手を上げる天瀬に、柚もぎこちなく手を振った。

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