祝福される存在へ③
ノックの音がした直後、昴琉の返事を待たず、部屋の扉が開いた。
「お疲れさま、昴琉。まだ勉強中?」
部屋に入ってきた母親がにこやかに尋ねた。昴琉は「うん」と答える。
「あら、さっきからあまり進んでないわね」
机の上に開かれた問題集を覗き込みながら、不思議そうに母親は言った。集中できていないことに気づいているのだろうと思いながら、昴琉は微笑んだ。
「ちょっと難しくて」
「そう。大変ね。頑張っていて偉いわ」
そう言って、母親は部屋や机の上を観察するように見回しながら、机の周囲をゆっくりと歩き始めた。今見つかってはいけないものはないはずだ。けれど、いつも感じている、致命的な何かを見つけられてしまうのではないかという感覚で気が気じゃなかった。
母親がどんな反応をしてもすぐに対処できるように、彼女の動きに合わせて顔を動かす。すると、レーダーのように動く母親の目が、ふと机の端で止まったのが見えた。
「これ何? こんなものあったかしら」
「これは」
母親が手に取ったのは、最近人気のマスコットキャラクターのぬいぐるみキーホルダーだった。隠しておけばよかった、と思いながら、昴琉は答える。
「最近学校で、僕のファンだっていう子からもらったんだ。最近話題になってるみたいだし、せっかくもらったから、とりあえずそこに置いてみたんだけど」
「へえ、そうだったのね」
特に興味がなさそうな返事をして、母親は、手に持ったぬいぐるみを色々な角度から細部までじっくり眺めている。
「昴琉がそういうプレゼント一切受け付けていないの、知らないのかしら」
「ファンっていっても、同じ学校の子だし、友達に渡すみたいな感じだったから」
「ふーん、そうなの」
含みのある声でそう言うと、母親はニコリと笑って昴琉のことを見た。
「昴琉、これ要るの?」
何でもないような視線に混ざった冷たさを、肌で感じ取る。繰り返し解いた問題。答えは決まっている。
「……なくても、いいかな」
「そうよね。ちゃんと処分しておくわ」
そう言って、母親はぬいぐるみを雑にポケットに押し込んだ。
「そういえば、昨日のことなんだけど」
今思い出した、というように、母親は言った。
「撮影終わってからすぐに帰らないで、少し移動した場所にしばらくいたみたいだけど、何をしていたの?」
ドキリとする。やはり、チェックされていたか。
幼い頃は、まだ魔力の制御に不安があったため、母親一人がマネージャーとしてサポートしていた。しかし、魔力が勝手に発現することもなくなり、かなり仕事量が増えた今、送り迎えなどは他の運転手に任せて母親が付いてこないことも多くなった。
その分自由になったかというと、そうではなかった。自分で管理できない代わりに、母親は昴琉のスマホに位置情報を見るためのアプリを入れた。そのせいで、昴琉がいつどこにいるのかは、常にあちらに筒抜けだった。
「昨日は終わった後、ちょっと光咲さんと話してて」
「そう。昨日、一緒に撮影していたものね」
昴琉の答えを、母親はあっさりと受け入れた。
「あの子良いわよね。昴琉と並んでも問題ないくらいには綺麗な子だし、評判も悪くないし。変な子だったらこっちまで印象が悪くなるから嫌だけど、平気そうな子で良かったわ。距離感もしっかりしているから、ベタベタしてこないのも安心」
特に嫌味なところもなく、母親は言った。言葉の雰囲気からしても、おそらくそれは本心なのだろう。セットで扱われることが多く、関わることも多い光咲翠の評価が母親の中で高いのは、かなりの救いだった。
「でも、油断しちゃだめよ」
母親が、ふと真面目な顔をして、じっと昴琉を見つめた。
「ちゃんと分別つけて接してね。スキャンダルなんて絶対にやめて」
「もちろん、分かってるよ。光咲さんとは、そういう感じじゃないし」
「心配なのよ。だって、個人的にメッセージも送り合ってるじゃない?」
眉をひそめながら、母親は、この部屋に来たときからずっと自分の手に持っていた昴琉のスマホを見た。ロックを解除して、メッセージアプリを開く。
「見ていて特に問題がある内容はなさそうだからいいと思うけど、気を付けるのよ。あの子だけじゃなく、他の子ともね。危なそうだったら、すぐにママが止めるから」
「……ありがとう。心強いよ」
メッセージをくまなくチェックする母親の様子を眺めながら、昴琉は笑顔で言った。
気が済むまでチェックできたのだろう。母親は満足した様子で、「はい」とスマホを昴琉に差し出した。
「明日からライブね。しっかり休むのよ」
「うん、ありがとう」
部屋から母親が出ていく。足音が完全に聞こえなくなったのを確認して、昴琉は大きく息を吐いた。
少し勉強したら、早めに寝ないといけないな。
背後にある監視カメラの存在を意識しつつ、昴琉はため息を吐く。もう何年も前から点灯し続けている、録画中の赤い光。いつあの人が見ているか分からない。
もう一度ため息を吐くと、昴琉は何となくSNSアプリを開いた。検索ボックスに『あ』と入力すると、すぐに『藍代昴琉』と候補が出てくる。投稿のヒット件数の途方もない数に、追い詰められるような気分になる。
『昴琉かっこいい。マジで好き』
『王子様すぎる。なんでこんな完璧なの』
『一生推す』
『顔が良すぎる。こんな素敵な昴琉くんを産んでくれた世界に感謝』
「……」
スマホの電源を消して、目を閉じる。
皆が好きだと言う『藍代昴琉』の何がそんなにいいのか、分からなかった。
皆が求める理想を踏まえたうえで、このキャラクターを演じている昴琉本人がそんなことを言っては身も蓋もないけれど、所詮、作られた存在なのに、何をそんなに大袈裟に喜んでいるのか分からない。むしろ、母親が素敵だと喜ぶ自分を、世の中の人も同じように素敵だと評価することで、母親の感覚が一般的なのだと思い知らされるようで、ゾッとする気分だった。
それでも、世界から必要とされるのは『藍代昴琉』であることに間違いはなかった。
必要とされてしまうから、笑顔を作る。
作り上げられた居場所に立つために、皆が好きな自分を演じる。
皆に求められるたびに、『好き』と言われるたびに、昴琉の存在は消えていく。
求められるがまま、愛される自分を演じて、演じて。
自分を、芸能人の『藍代昴琉』で書き換えていく。次第に、自分と『藍代昴琉』との境界が曖昧になっていく。
どんなときでも同じ笑顔を作れるのも、完璧な返答ができるのも、変性した自分が行きついた結果だった。取った行動が無意識だったなら、もうそれは紛れもなく自分自身のものだ。演じていた姿は、いつの間にか自分そのものになってしまった。
余裕が少しもないスケジュール。次々と舞い込んでくる仕事の依頼。日に日に増える出演数とファンの数。
淡々と仕事をこなす日々の中では、嫌だという感情さえも抱く暇はなかった。何も考えず、求められたことに応じる毎日。そんな日常が壊れるきっかけになったのは、母親が嬉しそうに持ってきた仕事の知らせだった。
「ねえ、映画の主演の依頼よ」
それは、『大災厄』から百年を記念する映画の出演オファーだった。
次の話は、7月24日(木)の18時過ぎごろに投稿する予定です。
よろしくお願いします。