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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第6章 求められるもの
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    祝福される存在へ②

しばらく間を開けてしまってすみません。

嫌な描写が続きます。お気を付けください。

「明日はドラマの撮影があるから、学校は午前中で早退ね。ママが迎えに行くから、校門のところで待っててね」

 ダイニングテーブルに広げたスケジュール帳を眺めながら、母親は言った。昴琉はにこやかに頷く。

「うん、分かった」


 また早退か、と昴琉は思う。最近、芸能活動のために学校を早退することが増えた。そういうことが許されている小学校とはいえ、やはり早退を繰り返していると変に目立ってしまう。クラスメイトからの視線も決していいものとは言えず、正直気が進まなかった。


「大丈夫よ。セリフだってちゃんと覚えられていたんだから、上手くできるわ」

 昴琉の表情が少し曇っているのに気が付いた母親が、励ますように優しく言った。

「それに、出られなかった授業のところはママが教えてあげるから大丈夫。昴琉は優秀だから、学校の先生なんかに教えてもらわなくても心配ないわ」


 そういうことじゃないのにな、と思いながら、昴琉は素直に「ありがとう」と微笑んだ。自分の耳で捉えた自分の声は、嫌という感情が混ざっていない純度の高いものだった。大丈夫だ、上手くできている、と安心する。


 そんな昴琉を見て満足げに頷くと、母親は再びスケジュール帳に目を落とした。


「あと、再来週の火曜日、朝から雑誌の撮影が入ったから」

「あ……」

 再来週の火曜日。すぐに、その日が何の日か思い出す。

「その日は、えっと」


「何?」

 スケジュール帳から顔を上げないまま、母親が尋ねた。

「何かあるの?」

「えっと……」


 言ったら絶対に怒られる気がした。でも、言わなくても不機嫌になることは分かっていた。覚悟を決めて、昴琉は最大限のさりげなさを装いながら言った。

「一応、調理実習が、あるかな」


 ああ、と母親は軽く返事をした。まだ機嫌は悪くなっていない様子で、少しほっとする。次に出てくる言葉を、昴琉はじっと待ち構えた。


 再来週の調理実習では、それぞれの班で決めたお菓子を作る予定になっている。昴琉の班はホットケーキを作る予定だった。トッピングも自由に決めることができたため、何を持って来ようかと、つい先日班の子たちと話し合ったばかりだった。


「そういえばそうだったわね。ファイルの中に入っていたものね、そのプリント」

 白々しさは一切ない、無邪気な声で母親は言った。いつの間に見ていたのだろう、と微かな焦りが生まれる。


 どんな手順で作るか、どんなトッピングをするか、細かく書きこんだ計画プリント。色鉛筆を使って丁寧に描いた完成形のイラスト。途端に、自分の犯した罪を暴かれているような気分になる。


 見られていた。きっと母親は、昴琉がそれを楽しみに思っていることも知っている。


「昴琉」

 母親の目が、不意にこちらを見た。知っていることを一切感じさせない自然な口調で、わざとらしいほど優しい微笑みで、母親は尋ねる。

「もしかして、やりたかったの?」


 焦りが喉を這い上がる。とっくにバレているのに、逃げられないのに、それでもごまかさないといけないのが決まりだと分かっていた。見え透いた嘘を、本心として言うしか選択肢はなかった。


「別に、やりたかったわけじゃないよ」

 拗ねたようにも、強がっているようにもなってはいけない。マイナスの感情は混ぜない。気にしていないと笑い飛ばすように、自然に。昴琉は、細心の注意を払ってそう答えた。


 昴琉の答えを聞いて、母親の表情がパッと明るくなった。


「そうよね。だってあれ、よく知らないけど、お菓子を作ったりするんでしょう。昴琉が普段食べないような身体に悪そうなものを。普通、良くないって思うわよね」


 影のない表情でそう語る母親は、とても生き生きとして見えた。


「あんなものを食べているから、みんな、たいしたことないのよ。今は良いかもしれないけど、絶対将来後悔することになると思うわ。何も考えていない子供には分からないと思うけど、ママには分かる。昴琉だって、無理してそんな子たちに合わせなくていいんだからね」


 馬鹿にした口調で饒舌に話す母親を見て、上手くいったことを確認する。ちゃんと正解を引くことができた。


「もうこんな時間ね。じゃあ、寝る前にセリフの確認でもしましょうか」

「うん」

 頷きながら、昴琉はクラスメイトの顔を思い浮かべた。


 忙しくて授業を抜けることの多い昴琉を、せっかくだからと班に入れてくれたクラスメイト。見たことのないキラキラしたトッピングを、昴琉が食べたことがないのなら、と材料に入れてくれて、それぞれ持ち寄る材料の分担も考えている最中だった。


 そんなクラスメイト達に、参加できなくなったことを伝えたら、どんな顔をするだろう。

 想像して、ずきりと胸が痛くなる。容易に想像できる皆の反応が、心底恐ろしかった。


 言わないと。

 早めに言わないといけないことは分かっている。明日、伝えた方がいい。分かっている。けれど。


 母親が差し出した台本を受け取りながら、昴琉は思う。


 行きたくないな。

 明日が、来なければいいのに。


 じくり、と腹の奥に熱を感じる。目の奥がひりつく。


 部屋の中を、稲妻のような光が駆け抜ける。母親の動きが止まる。


 あ。

 魔力が。


 ハッと気づいて、慌てて魔法を解く。


 魔法がかかったのは、その一瞬だった。たった一瞬。けれど、その一瞬が終わった後に母親が目にしたのは、『司者』の模様の浮かんだ瞳を青く光らせる昴琉の姿だった。


 やらかした。


 目の前の母親の表情が固まる。するりと、笑顔が抜け落ちる。


「…………昴琉」

 目を見開いて、瞬きも忘れたまま昴琉を凝視する母親の唇の端から、声がこぼれる。

「何でそんなことするの?」


 やらかした。焦りが爪先までざっと広がる。顔が、笑顔の残骸を張り付けたまま引きつる。謝らないと、と昴琉は慌てて口を開いた。


「ごめんなさ――」

「ねえ、何で? 何でそんなことするの? どうしてそんなことを勝手にするの? いつもやめてって言ってるじゃない」


 開かれたままの目と変わらない表情から出される、抑揚のない低い声。それが、徐々に高く、荒々しく変わっていく。


「どうして? ママはこんなにあなたのために頑張っているのに、あなたが嫌な思いをしないように頑張ってるのに、どうしてママの頑張りを無駄にするようなことをするの? どうしてそんなひどいことするの?」


 母親の手から、台本が滑り落ちる。バサリと床に当たって歪む音がする。


「あなたがそんなことするから、ちゃんとしてくれないから、ママは大変なの。本当はもっと昴琉のためになるように有名な先生に教えてもらいたいのに、そんな変なものを見られちゃいけないからできないし、それが周りに知られていらない子になったらどうしようって、いつも気を張ってないといけないの。ねえ、何で分かってくれないの?」


 昴琉を責める言葉を叫ぶように吐き続ける母親。その顔は俯いていて、昴琉のことは少しも見ていなかった。


「ねえ」と、母親が怒鳴る。机を叩く。椅子を蹴る。手で払われたスケジュール帳が、思いのほか重量感のある音とともに床と接触する。


「あなたは世界に必要な存在なの。ねえ、違うでしょう。ねえどうして。ひどいじゃない」


 母親が、頭を掻きむしり始める。


「違う、違うのよ。やめてよ、私が何をしたっていうのよ」


 髪を掻きむしる手が激しさを増す。手の隙間に挟まる髪から、ぶちぶちとちぎれる音がする。その様子に、思わず「待って」と声が出る。罪悪感と無力感でどうしようもなかった。


「ごめんなさい、ママ。ごめんなさい。お願いだから、もう」

 じわりと涙が浮かぶ。自分が悪いのに、叫んで自らを傷つけ始めた母親を前に、昴琉は謝ることしかできない。これ以上どうすればいいか分からなかった。


 すると、今までずっと昴琉のことを置いたまま叫んでいた母親の目が、ふと昴琉に向けられた。涙を溜めた目が、憎しみと恨みが溢れたその目が、昴琉を正面から睨む。


「何? 泣きたいのはこっちよ。私が悪いっていうの? 私のせいなの? もうやめてよ」

 突然向いた矛先に、身体が固まる。罪悪感が指の先まで張り巡らされた全身が、いよいよ少しも動かせなくなる。


 謝らないと。

 頬の内側を強く噛んで、涙を必死に止める。

 謝らないと。早く、母親を止めないと。


「ごめんね」

「そうよ、私のせいよ。私が悪いんだわ。こんな子を産んでしまったんだもの。こんな力を持った子を」

「ママ、ごめん。ごめんなさい」

 叫び声に負けないように、昴琉は声を張り上げた。


「ママが僕のために頑張ってくれてるの知ってるよ。ちゃんと分かってる。だから、もう悲しませないように、これからもっと気を付けるから」


 母親の目が、きちんとこちらを見ているのを確認して、昴琉は精一杯の笑顔を作った。母親と、世の中の皆が愛する笑顔を。呪いなんてない、祝福された顔を。


「ごめんね。ちゃんと気を付けるから」


 母親は、しばらく昴琉の顔を見つめていた。肩でしていた息が、少しずつ収まっていく。


「昴琉」

 落ち着きを取り戻した母親が、微笑んで名前を呼んだ。ぎゅっと、昴琉を抱きしめる。


「……ごめんね、こんな思いをさせて」

 耳元で、優しく母親がささやく。


「ママ、あなたが大好きなの。いつもあなたのためを思ってる。あなたのためなら何でもできるの」

「うん」


 良かった。上手くいった。自分を包む母親の体温で、正解を答え合わせする。

 もう怒っていない。もう、平気。心の底から安堵しながら、昴琉は言った。


「ありがとう、ママ。大好きだよ」

「愛してるわ、昴琉。あなたがそうやって笑ってくれることが、私の幸せ。あなたのその顔を見るためなら、ママ、いくらでも頑張れる」


 腕の中から昴琉を解放し、正面から昴琉を見つめる母親が穏やかに微笑む。その指が、そっと、愛おしそうに、昴琉の頬を撫でる。


「大丈夫。やっぱりあなたは素敵な子よ」

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