作為と偶然②
「道、ホントにこっちで合ってんのかな」
スマホの画面に目を落として、天瀬は首をかしげた。
傘で見えなかった藍代の目が、天瀬の目と合う。立ち止まると、天瀬はスマホの画面を藍代の方に向けた。
「合ってると思う」
画面をじっと眺めながら、マスクとサングラスという、いかにも芸能人というような変装をした藍代が言った。『家』を出発するときにも思ったけれど、薄めの色とはいえ、雨の日にサングラスなんて逆に怪しいよな、と天瀬は内心ツッコミを入れた。
「お店はまだ先だね。多分、今半分くらい来たところ」
「え、まだ?」
かなり歩いてきたつもりだったのに、まだ半分。天瀬は大きくため息を吐いた。
「近くのスーパーに行くだけかと思ってたのに、こんな遠くまで歩く羽目になるなんて、聞いてないって感じ。凪沙センパイの変なこだわりなんて無視して、テキトーにその辺で買ってもいいんじゃない?」
「引き受けたなら、無視するのはよくないよ。暇なのも事実だし」
「やっぱ真面目だよね、お前」
天瀬はもう一度、小さくため息を吐いた。
スマホの位置を自分の前まで戻す。自然と、藍代との距離もまた元に戻った。
声のない空間を、絶え間ない雨音が通り抜けていく。隣を歩く藍代とは、傘をさしているおかげで少し距離があった。こうして誤魔化すことができるなら、雨の日でむしろ運が良かったのかもしれない、と天瀬は思った。
車のタイヤが水たまりの上を通る音が、遠くに聞こえる。薄暗いビルの隙間に、二人の足音だけがはっきりと響く。偶然にも、天瀬たち以外の人の姿はなかった。
「……」
傘の下から覗く藍代の姿を、横目で見る。彼は、ぼんやりと前を見て歩くだけで、隣にいる天瀬の存在なんて一切気にしていない様子だった。
少し迷った後、天瀬は口を開いた。
「最近、みんなと仲良さそうじゃん。ちょっと前まで無口な感じ悪いキャラでいたくせに、ユズともよく話してるし」
少し棘のある言い方になっているのは自覚していた。さすがに無視されるだろうな、と思ったけれど、意外にもすぐに言葉が返ってきた。
「白葉さん、優しいから」
前をぼんやりと眺めたまま、藍代は言った。
彼のことだから、あえて柚のことだけに言及したのかもしれない、とも思ったけれど、その横顔に嫌味らしいところはなかった。調子狂うよな、と天瀬は心の中でつぶやいた。
「それに」
藍代の言葉が続く。
「やっぱり、あの三人が『司者』だっていうのが、かなり大きいかな」
その声は、騒がしい雨の音にもかき消されることなく、妙に綺麗に天瀬の耳まで届いた。
あの三人。
凪沙と勝元と、そして柚。
「……そーだよね」
天瀬の声から、力が抜ける。視線を藍代から外して、濡れて色の変わったスニーカーに目を落としながら、天瀬は尋ねた。
「どう思う? 今までのこと」
藍代の目が、こちらを向いたのが分かった。構わず、天瀬は俯いたまま続けた。
「オレが無理やり連れてきた感じなのに、ちゃんとそういうの、話してなかったから」
「……まあ」
唐突な質問に、藍代はよどみなく淡々と答えた。
「多分、そういうことなんだろうとは思うよ」
答えになっていないような曖昧な答えは、それでも、これ以上ないくらいはっきりと意図が伝わってくるものだった。この二か月で辿り着けない方がおかしいくらい明確な答えを、天瀬も、藍代も、持っていた。
「……いつ話す? オレたちのこと」
ささやくように、天瀬は尋ねた。弱々しい声は、雨音に上書きされてすぐに消えた。
「……」
聞こえなかったのかもしれない。今度は、藍代は何も答えなかった。
再び、沈黙が二人の間に落ちる。それは、会話を始める前よりも重くよどんだ沈黙だった。こんな空気になるくらいなら、話さない方が良かったかもしれない、と天瀬は少し後悔した。
そのときだった。
おおよそ日常生活では聞かないような爆発音が、突然地面を揺らした。
「今のって」
天瀬たちは顔を見合わせた。そして、頷く。
魔法使いが近くにいる。
こんな街中で魔力にあてられたらまずい。焦りながら、天瀬は藍代に言った。
「ヤバそうだし早く逃げよ。どっちから聞こえた?」
「多分、あっち」
「オッケー」
藍代が指さした方向とは逆の方へ、天瀬は走り出した。藍代も、すぐ後に続いた。
とにかく遠くに逃げないと。
手に持った傘で思うように走れない中、天瀬は急いだ。増大する焦りに伴って、動く足のスピードが速くなっていく。
しかしすぐに、天瀬たちを追いかけているかのように、また近くから爆発音が聞こえた。逃げた方向が、魔法使いの向かう先と被ってしまっているようだった。
一拍おいて、前から、そして背後から、身体をぞわりと撫でる空気の流れが天瀬を襲う。舞い上がりそうになる傘を握る手に力を入れる。かなり強い魔力だった。
その魔力に共鳴するように、身体の奥で熱が疼く。気を抜けば全身に広がりそうなそれを、天瀬は胸を押さえてぐっと堪えた。
「烈」
突然立ち止まった天瀬に、藍代が声をかけた。
「きつい?」
「いや、何とか」
必死に、呼吸を整える。落ち着け、落ち着け、と繰り返し自分に言い聞かせる。
胸を押さえた手に、冷たい何かが触れた。いつの間にか閉じていた目を開けると、藍代の手が天瀬の手を包んでいるのが見えた。
熱が、少しずつ触れた手から逃げていく。藍代のサングラスに映る光が、亀裂のような模様が、少しずつ消えていく。
「……ごめん」
天瀬は、何とか顔を上げた。その様子を見て、藍代は軽く頷いた。
「少し落ち着いたなら移動しよう。今そこに――」
その瞬間、目の前の路地を、誰かが横切っていった。その後に続いて、もう一人、駆け抜けていく。
それは、見逃してしまいそうな一瞬の出来事だった。しかし、その一瞬で目に捉えた姿に、天瀬は目を見開いた。
「え……」
今のは。
口の中が急速に乾いていく。嫌な予感で、ザっと全身の鳥肌が立つ。
見間違いなはずない。さっき、横切ったのは。
天瀬はパッと走り出した。二人の人物がいた路地に出て、走っていった方向を見る。その先に、曲がり角に消える人の足をかろうじて捉えることができた。
「助けて」
天瀬が見ている方と反対側から、幼い声が聞こえた。見ると、そこには全身を雨で濡らして地面に座り込んだ、一人の少女の姿があった。
天瀬たちの姿を認めて、少女は涙でぐちゃぐちゃになったその顔をさらに歪めた。地面から立ち上がれないまま、それでも天瀬たちの方に何とか近づこうとしているように、少女はぐっとこちらに身を乗り出した。
「助けて。お姉ちゃんが、お姉ちゃんが……っ」
必死な叫び声。その声を聞いた瞬間、天瀬の頭に電流が走った。
逃げる女の子。それを追いかける、男の姿。
間違いない。追いかけられているのは、柚だ。
「ごめん、その子任せた」
天瀬は藍代にそう言うと、傘を放り出して走り出した。
ユズ。
雨粒が顔を殴る。濡れたスニーカーが足を地面に引っ張る。
ユズ。
落ち着き始めていた身体の奥の熱が、激しく巡る血液とともに、ぐるぐると全身へ広がっていく。天瀬は、ぐっと拳を握りしめた。
どうか、間に合って。