『破壊の司者』⑥
中学に入学した後も、それまでと同じような生活が続いた。
烈自身が恋愛に慣れてきたのもあってか、女子からの人気は衰える様子を見せなかった。むしろ、恋愛がより日常になった時期ということもあって、以前よりもずっと、烈を求める子は増えたように感じられた。
しかし、それに反比例するように、親からの扱いはひどくなっていった。
今まで両親は、ある程度周囲の目を警戒していた。下手に目立ったことをすると、通報されて児相案件になるかもしれない。家庭に探りを入れられれば、当然、烈が『破壊の司者』だということもバレやすくなる、と話していたのを聞いたことがあった。
暴力による傷は、烈の魔力で隠すことができると知っているから、特に容赦はしない。けれど、経済面では、さすがに子供の烈にはどうしようもできない。周囲に感づかれないよう、彼らは必要最低限のお金は烈に対しても使った。学校で必要なものも買い揃えてくれたし、服や持ち物も定期的に用意してくれた。
けれど、もうそろそろ、そんな気遣いをすることもできないほど、愛想が尽きたのかもしれなかった。
『誰のおかげで生きてこれたと思ってんだ。お前みたいな奴には、これ以上はやらねえよ』
目を剥いて怒る彼らに、そんなことを叫ばれることが多くなった。家の鍵も取り上げられ、屋外で過ごす回数も目に見えて増えた。
外で過ごすことは慣れているから、不自由はないとまでは言えないけれど、耐えることはできた。服だって、有り余る魔力を使えば綺麗なままに保てたし、見た目も外で寝ている割には清潔にできた。だから、しばらくは、それでもやり過ごすことができた。
しかし、それも限界だった。
食べるものもないけれど、お金なんてないから買うことができない。雨の日は、あってないような軒下で、なるべく濡れないように身を小さくするしかない。都合が悪いことに、魔力のコントロールも上手くいかなくなっていき、狙った通りに使えないことも増えていく。
偶然家に入ることができても、そこには烈なんて見えていないように振る舞う家族がいるだけだった。弟妹も大きくなっているから、烈が置かれている状況をもう理解できている。それもあって、さらに烈を排除する方向に空気が作られているようだった。
どうしようか。
ぼんやりする頭で、烈は考える。
うちの子は反抗期なのだ、と以前母が近所の人に話しているのを聞いた。彼らは、素行が悪くだらしない息子が、自ら進んで家を拒んでいるという設定にしているようだった。だから、誰も気付くことはない。気付いたところで、魔力のことがバレて、さらにどうしようもなくなるだけだ。
誰にも頼ることはできない。
お金が欲しい。
お腹がすいた。
屋根の下で眠りたい。
どうしようか。
霧がかかった思考。その中に、ふとある言葉が浮かび上がる。
『そんなに女が好きなら、貢いでもらったらどうだよ』
『確かにね。あんたに使う金なんてないし、女に買ってもらって稼いでこれば?』
買ってもらう。
そういえば、少し前に問題になっていた。同じ中学の、上の学年の女子生徒が、少し離れた夜の歓楽街でそんなふうにお金を稼いでいたと。
烈は薄暗い空気の中、よろめきながら立ち上がった。そして、ポケットに入っていたお金に触れる。
いつかどうしようもなくなったときに、食べ物を買う用に取っておいたお金。これくらいあれば、歓楽街へ行く交通費としては足りるだろう。
よく見る夢の中にいるような心地だった。知っているけれど知らない場所を、どこかの目的地に向かって歩いている夢。どこを歩いているのか見当もついていないくせに、絶対にどこかに辿り着けると思っている夢。
おぼつかない足取りで、烈は駅へと出発した。
辿り着いた歓楽街は、今が夜だと信じられないほど、まばゆくて賑やかだった。
目に痛いネオンの明かりが、いたるところに散らばった道。どんな明かりより人工的な光は、街が夜に沈むのに対して、笑いながら抗っているようだった。
そんな中を、様々な年齢の大人がふらふらと行き交っていく。彼らが通り過ぎるのに合わせて、タバコと酒の匂いが鼻を刺激した。
今までに、目にしたことのない光景だった。似たものが全く思い浮かばないくらい、独特な雰囲気だった。
突然、後ろからぶつかられる。驚いて飛びのくと、耳を突く笑い声がすぐ近くから聞こえた。
「兄ちゃん、飲んでるぅ?」
派手な髪色の若い男の人が、烈の背中を叩いた。むわっとするアルコールの匂いに、思わず身体が強張る。
烈の反応になんて一切興味がなかったのか、声をかけてきた男の人は、一緒にいた同じような雰囲気の人たちと、騒ぎながら去っていった。少し歩いた先で、また別の人にも声をかけている。
呆気にとられた烈の隣を、似たような人々が、次々と通り過ぎていく。烈がそこにいると分かっていながらも、特に興味はないように、通り過ぎていく。
少し歩いて隅の方に移動すると、建物の壁沿いに、綺麗な女の人が立っているのが目に入った。その人に、自分の父親くらいの年齢の男の人が声をかけた。何やら話をした後、二人は連れ立って、近くの建物に消えていく。
ぼんやりしていた頭が、急速にクリアになっていく。にわかに焦りだした鼓動とともに、まずい、という認識が現れ始める。
自分が来てはいけない場所だ、と直感的に思った。
帰らないと、と烈は来た道を引き返し始める。しかし、すぐに足を止めた。
帰りの交通費が、足りない。
むせかえる奇妙な熱気の中、全身から冷や汗が吹き出る。
家からここまでは、かなり距離がある。歩いて帰ることもできなくはないけれど、いつ到着できるか分からない。朝までに辿り着ける保証はない。
周りにいるのは、明らかに様子がおかしい人たちばかりだ。お金を借りることなんてできない。でも、警察に連れていかれて、親に連絡がいくなんてことがあれば、それこそまずい。
どうする。
足が動かせない。途方もない後悔で、叫びだしそうだった。最悪だった。
どうする。
ここから、どうすれば。
「――ねえ、君」
唐突に、後ろから声がかかった。反射的に振り向くと、そこにはにこやかに微笑む一人の女性がいた。
「君、まだ子供でしょ。こんなところで立ち止まってどうしたの?」
色っぽい声が、真っ赤な唇の間から零れる。緩く巻かれた、黒くて艶やかな黒髪と、胸元が大きく開いた黒いワンピース。烈を覗き込むその姿は、見とれてしまうほど妖艶だった。
「間違えて来ちゃったの? 可愛いね」
甘い声を紡いだ唇の端が、絵に描いたように綺麗にキュッと引き上がる。
「迷っちゃった? それとも行く場所がないの?」
「あ、えっと……」
目の前の人が、自分に話しかけているのだという認識が、なかなか追い付いてこない。逃げるべきだと、何となく思ったけれど、逃げた先でどうするのか分からない。この街に何があるのか一つも知らないけれど、行く場所がないと正直に答えたらどうなるか分からない。
上手いこと言ってごまかせば、何とか切り抜けられるだろうか。でも、いかにもこの街の人という見た目のこの人に、そんなことができるのだろうか。下手に刺激してしまうのではないだろうか。
働かない頭で、それでも必死に考える烈に、女性は吹き出すように微笑んだ。そして、躊躇いもなく烈の耳元に顔を近づけた。
「……お金、欲しいの?」
女性の体温と、甘ったるい香水の匂いが、ぬるく頬をかすめる。耳にかかるくすぐったい息で、烈の心臓が絞られたように縮む。
逃げないと。
相手は大人と言えど、たった一人の女性だ。烈のことだって何も知らない。逃げ出したって、何かをしてきたり後を追ってきたりすることはないはずだ。そう思うのに、身体はなぜか動かなかった。
「そっか。お金欲しいんだ。それならさ」
耳元で、甘い声が囁く。
「お姉さんが買ってあげるよ」
「え……」
反射的に、反応してしまう。言い当てられたことに、驚きを隠せなかった。
ここに来ている時点で、目的なんて誰から見ても明らかなのだろう。けれど、烈がそういう目的でこの場に立っているのだと、相手も確実に認識している、という事実は、烈の咄嗟の判断力を奪うには十分だった。
間違えた、と思ったときにはもう遅かった。分かりやすい烈の反応に、くすりと満足げに笑うと、女性はさらに、口を烈の耳元に近づけた。
ほとんど耳に触れそうな唇。吐息を混ぜた言葉に、烈は目を見開く。
「私と遊んでくれるなら、それだけあげる」
「……」
女性が囁いたのは、烈が普段扱う額よりも桁の多い金額だった。それこそ、今の烈の困り事なんて簡単に解決できてしまうほどの。
女性は、静かに微笑んで烈の答えを待っている。それは、烈が誘いに乗ると確信しているかのような余裕のある笑みだった。そんな顔に観察されていると、烈の中にある『断る』という選択肢が、少しずつ舐めとられていくような感覚がした。
見抜かれている。
烈が何を求めてここに来たのかも、半端な覚悟でここに来てしまったことも、金額を聞いて揺らいでしまったことも、何もかも。
彼女はそれを見抜いたうえで、烈の答えを待っているのだ。
烈は、目の前の女性をじっと見つめた。彼女は、少し首を傾けて微笑むと、当たり前のように烈に手を伸ばした。
「平気よ。みんなやってる」
ネイルがきらりと光る指が、しっかりと烈の手を握る。女性の目が、烈の目をじっと覗き込む。目が逸らせない。完全に、捕らえられていた。
「行きましょ」
女性が烈の手を引いて歩きだした。特に抵抗することもなく手を引かれるまま、烈はネオンの光の中を進んだ。