アクセス⑥
『道』をくぐると、しんと沈んだ真っ暗闇が柚を迎えた。一歩踏み出すと、パッと照明がついて、いつもの地下室の姿が現れた。
腕時計を見ると、針はちょうど十時を指していた。こんな時間に『家』に来るのは初めてだった。
皆との勉強会の後、再び『家』に訪れることになったのは、柚が『家』にスマホを忘れたからだった。皆との勉強会が終わったときには手に持っていて、帰宅後になかったとなると、おそらく、個人部屋に置いてあった荷物を取りにいった際にそこに置いて行ってしまったのだろう。
やはり、普段持ち歩かないものはすぐに存在を忘れてしまう。毎度のことながら、自分らしいな、と柚は呆れる。嫌になりそうだった。
緊張感をまとったまま、柚は足を進める。窓も何もない部屋だけれど、地下室にはしっかりと夜の気配が漂っていた。その中に規則正しく並んだ木の枠が、明るい時間帯よりも影を濃くしている。いつにもまして神秘的で、不気味だった。
暗くなった後に、学校に忘れ物を取りにいったときのような、知っているけれど知らない場所に迷い込んでしまったような感覚を、ふと思い出す。柚が近づくのに合わせて、パ、と微かな音を立てて付く照明の無機質さが、さらにその感覚を助長していた。
階段を上って、ロビーに出る。煌々と照らされた空間にも、人の気配はなくて静かだった。この時間になると、もう葵も帰ってしまっているのだろう。『家』で暮らしていると言っていたルリの姿も、今は見当たらない。
大丈夫、二階には、天瀬と藍代がいるはずだから怖くない。柚は、自分に言い聞かせて、じわりと滲む恐怖を抑えながら、二階へ上がる階段の方に歩き始めた。
そのとき、背後で玄関の扉が開く音が聞こえた。勢いよく心臓が跳ねる。
こんな時間に誰だろうか、とびくびくしながら振り返る。そして、柚は「あ」とつぶやいた。
「藍代くん?」
名前を呼ばれた藍代は、柚を見て微かに驚いた顔をした。
「出かけてたの?」
柚の近くまで歩いてきた藍代に尋ねると、彼は小さく「うん」と答えた。
「身体を動かしたくて、少し外を走ってた」
「そうなんだ」
確かに、言われてみれば、藍代は珍しく動きやすそうなジャージを着ていた。普通の人が着たら部屋着に見えてしまいそうな服も、彼が着るとスタイリッシュで格好よく見えた。
「よく走ってるの?」
「時々。前は毎日走ってたから、それと比べたら少ないよ」
藍代は淡々と答えた。忘れていたわけではないけれど、彼は数か月前まで大人気アイドルだったのだと思い当たる。
「すごいね」
純粋に感心して言うと、藍代は緩やかに首を振った。
「そんなことない。普通だよ」
澄んだ綺麗な声でそう言って、今度は藍代が柚に尋ねた。
「白葉さんは? こんな時間にどうしたの?」
「部屋にスマホ忘れちゃって、取りに来たんだ」
柚の名前を覚えていたのか、と失礼にも思いながら、柚は答える。
「そっか」
驚いたり笑ったりすることもなく、短くそう答えると、藍代は階段を上り始めた。そして、数段上ったところで振り返って柚を見る。一緒に行こう、ということなのだろうか、と解釈して、柚も後に続いた。
一段先を歩く、斜め前の藍代の背中を眺める。何か話すような雰囲気はなかったけれど、今はそれで十分だった。漂う夜の物寂しい空気が、藍代のおかげで少し薄くなったように感じた。
お互い無言のまま、二階に着いた。柚は藍代に「じゃあ」と手を振ると、自分の部屋に向かった。
スマホは、柚の予想通り、部屋の机の上に置いてあった。それはもう大変な思いをして手に入れたスマホだ。なくしていたら普通に絶望できる。柚は、スマホの無事を確認できて、心の底から安堵した。
安心感でにやにやしながら部屋を出る。すると、階段の前の壁付近に、先ほど別れたはずの藍代が立っているのが見えた。
もう部屋に戻ったんじゃなかったのか、と困惑して、思わず立ち止まる。すると、柚が部屋から出てきたことに気が付いた藍代が、壁際から階段の方に数歩進んだ。
「見つかった?」
「う、うん」
柚は頷く。こうして声をかけてきたということは、柚に何か用がある、ということなのだろうか。それならば、気まずい思いをして彼の前を通過する必要はなく、普通に近づいても大丈夫だろう。柚は、少し速足で彼の方へ歩いた。
「じゃあ、行こうか」
柚が近くまで来ると、藍代は柚にそう言った。そして、彼は当然のように階段を下り始めた。
柚と何か話そうとするわけでもなく、なぜかまた階段を下りようとする藍代に、柚は慌てて尋ねた。
「えっと、藍代くんも、また一階に行くの……?」
柚の問いに、藍代は振り返った。そして、当たり前だ、とでもいうように頷いた。
「『道』のところまで一緒に行こうと思って。迷惑だった?」
「え、いや、そんな、迷惑なんて」
想像していなかった言葉に、理解が追い付かない。「うあ、え」と気持ち悪いくらいにうろたえながら、柚はやっと意味のある言葉を発した。
「……な、何で」
「前に迷ってたことがあったから」
柚の気味の悪い様子を気にも介さずに、さらりと藍代は言った。そして、柚が許可するのを待つように、柚の顔をじっと見上げた。その顔を見た瞬間、柚の心臓が、未だかつて見たことのない調子で、ぎゅんと動いた。
待って、これはヤバい。
ナチュラルにそういうことするのか、この人。
これは俗にいう、心配だから送るよ、的なあれじゃないか。
いや違うか。さすがに違うか。
いやでも、一緒に階段を上ったところで、また明日、でよかったはずなのに、わざわざついてきてくれるって、つまりはそういうことで。
こんな、ちょっと関わっただけの人にも、こんなことを。
「……急にこんなこと言われても困るよね。ごめん」
一人であれこれ考えていると、藍代がふと、静かにそう言った。まずい、黙ってしまった、と柚は慌てて首を横に振った。
「そんなことないよ。実際、まだ迷うこともあるし、ありがたいよ」
柚は、藍代が立っているのと同じ段まで階段を下りて、彼のことを見上げた。藍代は、柚の言葉に、よく見ればわかるくらい微かに微笑んだ。
藍代が階段を下り始める。それに合わせて、柚も足を進めた。
一緒に行くと言いつつも、上りのときと同様、藍代には何か会話をしようという様子はなかった。柚としてはそれでも全然よかったけれど、でも、こうして藍代と二人になるのは珍しい。彼と話せる次の機会がいつ巡ってくるか、分からない。
迷った末、柚は隣を歩く横顔に、「藍代くん」と呼びかけた。
「何?」
緩やかな動きで、藍代は柚を見た。その涼やかな水のような瞳が柚を捉えた瞬間、柚の心臓がドキリと動いた。
「あ、えっと」
数か月前まで大きなステージに立っていた、綺麗な顔。普段から創の天使フェイスを浴びている柚だけれど、藍代に見つめられるのは、それとは違う感覚がした。
「藍代くんとこうして喋るの、初めてだなって思って」
どぎまぎしながら、柚は言った。
「そうだね」
藍代は、小さく頷いた。
「僕も、白葉さんと話してみたいと思ってた」
「そ、そうなんだ」
どんなリップサービスだ。
頬が火照る。我ながらチョロすぎて情けないけれど、今なら百合の気持ちがよく分かった。
「藍代くん、意外と話しやすくて、ちょっと安心したかも」
何気なくそう言った後で、柚はハッとする。本人を目の前にしてこの言い方は、さすがに失礼だったのではないだろうか。柚は、柚の言葉を静かに聞く藍代から目を逸らして、慌てて続けた。
「今まで、藍代くんの前だとちょっと緊張しちゃって、あんまりうまく喋れてなかったけど、そんな必要なかったなって」
「……そんなことないよ」
階段を下り終えたところで、藍代は足を止めると、柚の方に身体を向けた。
「今まで、白葉さんはちゃんと話しかけてくれたよ。上手く話せなかったのは僕の方。嫌な気分にさせることもあったと思う。ごめんね」
「そんなこと……」
淡々と言葉を紡ぐ藍代からは、自分を嘲るような雰囲気も感じ取れた。