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送られた盃の中身

 七瀬に平手打ちをした次の週の月曜日から、胃が張り裂ける思いであった。彼女への憎悪は収まったが、次に襲い掛かってきたのは、不安という毒であった。



 人に暴力を振るえば、当然、それは悪いことなのである。先生に厳しく叱責されるか、もしかしたら、学校を停学させられるか。最悪は、警察に手錠を掛けられてしまうのだろう。


「うぅ……」



 自宅のトイレで腹痛に呻き、喉元へと這い上がってくる不快感にえずいた。


 そうしている間に、いつも学校へと出発する時間を過ぎていて、トイレの外から、「ゆずる、大丈夫?」という、母の心配する声が響く。


 話したい。この不安を、罪を、後悔を、洗いざらい全てぶちまけてしまいたかった。


 しかし、母には心配をかけたくない。


「大丈夫……今日は、ちょっとキツイだけだよ」

「休んでもいいんだよー?」

「大丈夫。頑張って行くよ」


 トイレから出て、口の中を水でゆすいでいる間にも、不安の毒が回る。



「ここで休んでしまえば、もう元の生活に戻れない気がする」という、やけに客観的で冷静な思考が、他人事のように語り掛けてくる。その、声にならない声に耳を貸してやって、一回、深呼吸をする。



「行ってきます」


 玄関まで迎えに来てくれた母に出発の挨拶をして、ムカムカとする胸とお腹を押さえながら、学校へと向かうのであった。





****




 先生に叱責されることも、友達にからかわれることも、警察がお迎えに上がることも、無かった。不安の種となっていたそれらの事は、全てが土に還ったらしく、実際には起こらなかった。




 そうして、一週間、二週間と、時は過ぎていった。まるで、自分が為したこと、目撃したことが「無かったこと」のように。



「それでは、今日の授業はここまでにします。ワークの36ページから38ページは、来週のこの時間までにやっておいてくださいね」



 金曜の最後の授業は、たいへんな眠気に襲われる。窓側の席なので、左半身に陽光が照り付けて、ほのかな温かさを届けて、眠気を誘ってくるのである。


 先生が教室から出て行って、教室には放課後の空気が満ちる。



(英語のワーク、できるだけ進めておくか)



 周囲のクラスメイトたちが談笑に花を咲かせる中、ゆずるは一人、机に張り付いて、英語のワークにシャーペンを走らせる。授業をしっかりと聞いていたので、解くことは何ら難しくはなかった。


 課題の半分を終わらせたところで、担任の先生が教室にやってきた。「それでは、また明日」という、帰りの挨拶が先生の口から飛び出した瞬間に、鞄を背負って、教室を飛び出した。



――早く帰宅して、絵を描きたい。



 何事もなく過ぎ去っていく日々に対する喜びを、絵にかいて表現したい。



「ゆずるくん……?」




 下駄箱に差し掛かった時、名前を呼ぶ声がした。鈴の音のような、優しい美声なのだが、その声を聞いて、身を震わせた。


 3年生の下駄箱の陰に、七瀬が立っていたのだ。彼女は、二年生であるはずなのに。


「……」


 彼女の声を聞くだけで鳥肌が立つ思いがしたので、聞こえないフリをして、自分の下足箱へとそのまま早歩きした。



 すると、彼女は俺に向かって手を伸ばし、


「待ってよ!話があるの!」


「……ん?」



 七瀬は、ゆずるの黒い制服の袖を引いた。とうとう無視できない領域へと引かれて、ゆっくりと振り向いた。



 そこには、昇降口から吹き込む風で黄金の色の髪をたなびかせる七瀬さんの姿が。袖を引いた彼女の右腕の袖からは、包帯らしき白いものがちらりと覗いている。


「はい…………?なんのご用?」


 たどたどしく、よそよそしい感じで、要件を尋ねた。すると、七瀬は頬を少し紅潮させて、目線を窓の外の校庭に逸らした。


「……ここじゃ話しづらいから、えっと……第二理科室まで来てよ」

「は、はい」



 早く帰って課題を済ませて、絵を描きたいなと、口下手の自分がその場で言い出せるはずもなく、彼女の背中を追った。



 階段を昇って、校舎の三階へ。



 そこから渡り廊下を歩いていると、黒い雲間から太陽が覗いて、前を歩く七瀬さんの右肩を白く照らした。小さい埃がキラキラと輝いている。



「……来たよ」

「はい。ありがと。ここなら、今の時間帯は誰も使わないから、話しやすい」


 第二理科室の扉や窓には暗幕が取り付けられていて、室内に薄暗い闇を作り出していた。先ほどまで誰かがここを使っていたらしい、カルメ焼きの甘い匂いを、どことなく感じる。


 七瀬は、鞄を椅子の上に置いて、机に寄り掛かりながら、ゆずると向き直った。ガラス細工のように綺麗なワインレッドの色の瞳の視線によって貫かれた。



「あのさ……ありがとう。前に、包帯とか、絆創膏、私にくれて」



 七瀬は、袖を指一本分ぐらいめくって、白い包帯を覗かせた。


 あの例の日の夕日だけが知っている、七瀬が自らカッターナイフで切った跡だった。



「別に、感謝なんかしなくていいよ。言ったじゃん、『善意』であげたわけじゃないって」


 低い声で、そう言った。脳裏に想起されたのは、トイレの手洗い場の前の赤い光景だった。あんなに大量の流血、アニメ以外で見たことがなかった。



「小学生の頃さ、私、散々ゆずるくんのことをいじめたよね……」

「……」

「ごめんね、本当に。痛い思いもさせたし、意地悪もしたし、一人ぼっちにさせて、さみしい思いもさせたよね」


「俺は、一人でも寂しくない」



 冷たく言い放った。


 顔に合わない大きなマスクの下で、米粒のように小さく、しかし光の届かぬ深海のように深いため息をついた。


 今になって謝られたとて、過去に負った傷も、痛みも、忘れられるわけではないし、壊れた眼鏡も戻ってこないのである。


 だからこそ、彼女に対して言ってやりたかった。「もう二度と俺と関わるな、近づくな」と。



 しかし、言葉が詰まった。悪い感じに言って彼女を突き放そうと思ったのに、言葉の最初で詰まってしまった。


「あ……」


「……」


「……」


 体が内側から裂けるのではないかという、心臓の鼓動の高鳴りだけがうるさく、気まずい沈黙を迎えた。



 七瀬は、机に寄り掛かっていた体を真っすぐにして、高い背丈の目線から見下ろす。そうして再び開口して、沈黙の行き詰まりを打破した。


「私、今のクラスでハブられてるんだよ、正直に言うと。誰も私に構ってくれないし、友達にもなってくれないし……すっごく寂しい思いをしてんの」

「だ、だから?なに……?」



 そんな感じに被害者面を演じたら、手を差し伸べるとでもお思いだろうか。かつてのいじめた相手から、同情を買えると考えているのだろうか、この女は。


 そうであるならば、頭は小学生のままの、とてもおめでたい奴だ。




「いや……仲間外れにされて、初めて分かったんだよ、こんなバカな私でも。これって、私が過去にゆずるくんにしたことで、この痛みって、私があなたに与えてしまったものなんだって……」


 涙を瞳の裏側に隠したような、震えた声で、七瀬は言う。


 ゆずるは無言の内に、這い上がる憎悪の毒を抱えた。



 仲間外れにされたと、彼女は訴える。しかし、ゆずるが過去に受けた、数々の許されざる所業の数々は、そんな生ぬるいものではなかった。


 言葉で表現できない、苛烈なものであったという認識だった。相手が加賀美佑弦でなかったなら、耐えきれず、殺されてしまったかもしれない。それぐらい深刻なものを、簡単な言葉で語れるはずがないのだ。



「そうか……」


 直接に体を痛めつけられ、精神を彫刻刀の刃で削られるような、そんな苦痛を与え、彼女はそれを見て嘲笑していたのだった。




 彼女の目を細めたあの顔を、決して忘れはしない。




 ゆずるは、平静の仮面を装いながら、背中側で拳を握りしめた。


「私は独りぼっちでは生きられないって、痛いぐらいに分かったの……見ての通り……」


 七瀬は、手首の包帯を少しほどいた。その下からは、傷ついて黒っぽく変色してしまった肌が露わになる。縦や横にまっすぐ刻まれた傷は、白い線であったり、血が滲んだような新しさがある赤い線を描いている。


 七瀬は、自分の傷をまじまじと見つめ、次いでこちらを真っすぐに見た。




「――私と……友達になってよ!」


「は?」




 眼前の狂人の論理展開が理解できずに、単音で疑問府を投げつけてしまった。


 傷ついた者同士で馴れ合おうとでも、コイツは言うのであろうか。



 視線をちょっと下げた彼女は、瞳を覗き込んでくるように向き直った。



「生意気で、おこがましいってことは分かってるよ……でも、お願い。私と友達になって、過去にしてしまったことのお返しをさせて!」


「……」


「今ここで、もう一度謝らせて。ごめんなさい!!そして、お願いします……!!」



 両の手を体の側面に添えて、彼女は頭を深々と下げた。声が震えていた。


「うーん……」



 最初から、彼女の懇願など一蹴してしまおうと決めていた。


 しかし、彼女の言う『独りぼっち』の孤独の毒の味を思い出してしまった。



 人は、他者と関わることによって時間を、物質を、心を満たすのである。それが希薄なことで味わう「コドク」という毒の苦みは、苦痛の限り。



 たしかに、七瀬の言う『独りぼっち』は、苦しい。



——1人は良いが、独りは苦しい。



 それを思い出してしまって、返事を決めかねてしまった。



 それに、面と向かって『私と友達になってよ!』なんて言われてしまうと、恥ずかしさに耐えかねる。



「……考えとく」


 一言だけを言い残して、鞄を背負い直して、彼女に背中を向けた。そして、言い残した声が妙な残響を奏でる理科室を後にする。


 扉が閉まる直前に、七瀬は絞り出したような苦しい声を発した。




「本当に、ごめんなさい……」




――帰宅後。



 その日に描いた絵には、黒く塗りつぶしたキャンバスの上、抽象化された、輪郭がぼやけた人形がポツンと転がった様子が描かれていた。人形の近くにはグラスが落ちていて、赤っぽい液体がわずかに残っていたり、地面を汚していたりした。


 その杯に注がれていたのは、恐らく、「コドク」という名前の毒だったのだろう。


 人形は、毒を盛られて、死んでしまった、という設定。



 作品名、「弧毒」

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