蜘蛛の糸をつかむ
「あの……」
ゆずるは、弱々しい声ながら、崖際に立つ金髪の女性に、声をかけた。「危ないですよ」という、喉元でつかえた優しい声は、眼前の光景によって、殺されてしまった。
右手首の袖から、白い包帯がヒラヒラと覗いたのだ。
この人は、やはり七瀬なのだと、推測に確信を重ねた。
「七瀬……なにしてるの?」
「んん……」
小4の幼いころからよく聞いた、鈴の音のようなかわいらしい声で、呻きか返事かもわからない声を発した七瀬。視線は、相変わらず真円に近しい月を見上げていて、声をかけたゆずるのほうへ、振り返ろうともしなかった。
月からは、やはり、光が一直線に、地上と垂直を描くように降りてきていた。
「こっちに帰ってきてたんだ」
「……」
気まずい沈黙を殺すべく、ゆずるは声を絞った。しかし、七瀬はそれに対して、何ら反応を示すことなく、やはり、月を見上げていた。
「あの……そんなにギリギリに立ってると、危ないよ。落っこちるよ……」
「――死にたかった」
七瀬は、振り向くことなく、唐突に言った。細く、しかし美しい声が、鼓膜の近くで、反響して聞こえて、いつまでも残響を奏でていた。
「……」
これまでに経験がないぐらい、ゆずるは、返事に困ってしまった。
彼女が、高校を卒業してから、どのような道を辿り、どのような人と巡り合い、どのように考え、思って、此処に至るのか、ゆずるは知らない。
だから、下手な返事もすることが憚られた。
ただ、冷静な思考や理性を押し退けて、「口下手」が発揮されたのだった。
「き、奇遇だね。俺も明日には、死のうって考えてた」
事実を述べた口の唇は、ピリピリと痙攣していた。
また、かつてのように、七瀬を傷つける発言ではなかったかと心中反省するが、いまさら遅く、言葉は、七瀬をくるっと振り向かせていた。
「なんで……」と言葉を詰まらせた七瀬は、ワインレッドの色のガラス細工のような瞳を潤ませ、目尻に涙を溜め込んでいた。
「明日には、どっかの海岸行って、睡眠薬飲んで、海に飛び込むつもりだった……」
「なんで……」
七瀬は崖に背を向けて、ぐっと近くに歩み寄ってきた。
「そんなの、ダメだって……」
七瀬は、温かい手を重ねてきた。
「死んじゃ、ダメぇ……私が悲しいから……それは、絶対ダメ……」
「俺だって、七瀬が死ぬなんて、嫌だよ」
「じゃあ、なんでそんなこと言うの……」
「……」
ゆずるは、風が耳を撫でて吹き抜ける音を聞いた。
互いの気持ちを、震えた声で押し付け合ったゆずると七瀬。この気持ちの矛を、どこへ収めればよいのか分からなくなって、喉を閉めて、口を閉ざし、言葉を殺してしまった。
ゆずるは思う――七瀬が死んでしまうことなど、あってはならぬと。何より、自分が最も悲しむかもしれないし、それは、人類にとっての損失であると。
七瀬は思う、ゆずるが自殺するぐらいなら、自分が代わりに死ぬと。
けれど、それを為せば、ゆずるを悲しませると気が付いて、置き所のない気持ちが涙をともなってボロボロと流れ出た。
「うっ……はははは!」
「?」
七瀬が、月明かりを背景に、まるで、狼のように、高らかな声で笑い始めた。そのまま、体を前のめりにして、ゆずるに抱き着いたのだった。
「ぅわっ!?」
遂に七瀬は、人狼としての正体を現したのかと、ゆずるは疑心を抱きながら、背後の固いアスファルト舗装の地面に叩きつけられる。頭を打たないように、両腕をめいっぱい伸ばして受け身を取ったが、背骨や骨盤が鈍い痛みを訴えている。
高い身長で、ゆずるに覆い被さるようにぎゅっと強く抱きしめる七瀬は、急激に声を高くして、嗚咽を交えながら、まだ、笑っている。
「私たち、仲良すぎじゃない!?」
「待って、まって、どういうこと……!?」
「だって……だって、さっ……」
あまりに劇的な七瀬の反応に、ゆずるは困惑を隠しきれなかった。薄い胸に七瀬の頭を抱えながら、着ていた黒シャツが彼女の流した涙でびしょびしょに濡れてしまったことを知る。
あまりにストレスを感じたとき、彼女は、こういう壊れ方をしてしまうのかと、心配になったゆずる。
しかし、顔をガバッと上げた七瀬の次なる言葉で、彼女は、決して壊れてなどいないのだと察した。
「っ――だって、死のうとしたタイミングまで一緒って……ありえないよ」
まるで懐きの良い猫のように、額をゆずるの黒いシャツにスリスリとした七瀬。あらゆる「彼女らしさ」を忘れ、七瀬は、眼前の彼のシャツに涙でシミを作っていた。
――シャンプーか香水らしき花の香りが、つむじの辺りから香った。
「待ってって、もう、死ぬ気ないから、落ち着いて……」
七瀬に迫られるばかりで、ゆずるに取り憑いて居た希死念慮の死神は、黒い影を落とす林の中に消えてしまった。……付き合い長く、心から大好きな七瀬に『死んじゃ、ダメ』と言われてしまったら、もう、そんな気は失せてしまう。
同時に、この夜空が最後のものでないと安心する自分が、どこかにいた。
腹のあたりに、七瀬の豊かな胸の双丘の柔らかさを感じながら、ゆずるは、自らの首をひとさし指で掻いた。
「近い……離れてくれ……」
「んー嫌っ!ゆずるが、死なないって、約束してくれるまで、離さない……」
ならば、こうやってずっと、約束しないでいようかなと、悪魔的な発想が脳裏を過ったが、幸い、彼は、悪魔ではなかった。
七瀬の肩をトントンと軽く手で叩いて、言葉を紡ぎだした。
「じゃあ、七瀬も一緒に約束してよ。自分を殺さないってことと、その……きれいな腕を傷つけないこと」
ゆずるは、抱き着いたままの七瀬の右腕を見た。そこから、白い包帯が、夜風を受けてヒラヒラとしていた。
契りは、かつて交わしたように、指切りげんまんで。
ゆずるは、小指を差し向けた。
七瀬は、白く、細い小指を、ゆずるのそれと交えた。
「「指切りげんまん嘘ついたら……」」
七瀬は、涙の氾濫する目を細めて、上下の歯を覗かせるニッとした笑みを浮かべ、ゆずるは、声を震わせながら口角を吊り上げる不適な笑みを浮かべた。
「画鋲1万本飲ませるっ!!」
「む、胸揉む」
「えっ……」
「は……?」
互いにポカンとした顔を見合わせた七瀬くるみと、加賀美ゆずる。
「画鋲一万本って……阿鼻地獄※かよ」
「そ、そんなに私のおっぱい、揉みたかったの……?」
「いや、そういうわけじゃなくって……冗談だよ、じょーだん……」
「いいよ、どんと来ーい!」
「冗談って言ってるでしょ!!」
※仏教的世界の地獄で、最も深い場所に位置する階層。父母の殺人等、重罰にあたいする罪を背負った罪人が落ちるとされている
両腕を広げた七瀬に対して、ゆずるは低い声を張って、背中を地面に擦りながら、ズルズルと後退した。
しかし、二人で互いを凝視して、また笑いが起こった。
「ふふふ……やっぱり、ゆずると一緒だと、何か、すごい安心するし、楽しい」
涙目を隠そうともせず、それでも微笑みがこぼれてしまう七瀬。シャツから粉雪のごとく柔らかそうで白っぽい肩が露出していて、手首の赤黒く変色した包帯は乱れてほつれて、糸が踊っていた。
――そんな、かつての七瀬に等しい彼女を目の当たりにして、ゆずるは、ほっと安心させられた。
珍しく、彼も目尻から頬へ伝う涙を隠すことができなかった。
「とにかく、ぜっっっったい死なないでよ。ね?」
「そりゃもちろん。七瀬に頼まれたのならば」
両の脚で立ち上がり、改めて対峙したゆずると七瀬。もう一度、これでもかと互いに近寄って、これでもかと、骨を軋ませる勢いと強さで、互いを腕で抱き寄せ合った。
かつて、高校生だった頃に、七瀬と抱き合った記憶が掘り起こされたゆずるの全身から、ガスのように「ドク」が抜けていった。
――これでもう、寂しくはない。独りでは、ない。
「――私、ゆずるのこと、好き……大好き」
「お……」
ゆずるは言葉を喉に詰まらせて、目線が泳いで、頬に宿る熱さを自覚する。
ただ一つ、確認したかったことを、七瀬に訊いてみた。
「来栖のことが好きなんじゃなかったの……?」
ゆずるは、目撃しているのだ。七瀬が卒業式後に、来栖に、恋愛的な意味での告白を受けているのを。
……果たして、自分で良いのかと。おそらく、人生で二回目の告白が、【ゆずるワールド】の住人で、そこに閉じこもった、うつ病患者の口下手で良いのかと。
七瀬は、自身の手の甲を撫でた。
「来栖は、私のこと、『好き』って言ってくれたよ、確かに。でも、私的には、うーんって感じ。友達としては、いい人なんだけど……」
「じゃあ、バイト先の先輩は……」
ゆずるは名前を知らない、かつての中華屋のバイトの先輩の【リョウ】は、相当なイケメンで、高身長だと聞いていた。一緒にごはんにまで行って、誕生日プレゼントに、バンドのコラボポーチまで貰っていた仲のはずなのに。
昨日の夏目曰く、七瀬の渾身の告白は、実らなかったらしいが。
そして、夏目から説明された通りの話が、七瀬本人の口でもって、説明された。
「勇気出して、告白したんだよ。そしたらリョウ先輩、もう、彼女がいて……」
「なるほど、それで、消去法で、俺が残ったわけか」
「あ、ええと……まあ……うん。言い方は悪いけど、でも、本当に、ゆずるのこと、大好きなんだよ!ほんとの、ほんとに!信じて!」
「う、う……うん、信じるよ」
また抱き着いてきて、子どもっぽく地団太を踏んだ七瀬。手のひらで背中をバシバシと叩かれたゆずるは、脳が前後にズレる感覚を味わった。彼女の力は、存外に強かったらしい。
しかしゆずるは、そうやって最も近い距離に彼女と在れることが、心の底から嬉しかった。
「俺も、七瀬に『死なないで』とか、『好き』って言ってもらえて嬉しい……」
彼女が勇気を振り絞ってくれたのだから、こちらも気持ちを伝えなければと、ゆずるは奮い立った。
好きと、勇気を振り絞って言ってもらえたのだから、返答は、ただ一つ。
――俺も、七瀬のことが好き。
手に汗を握りながら、泳いでいってしまいそうな目線を七瀬のワインレッドの瞳の奥に釘付けにして、喉に絡まる声を整えてぎゅっと絞った。
「――俺も、実は……うん。正直に言うと、七瀬のこと、ずっとずっと、好きだった」
たどたどしいこと限りない告白に対して、七瀬は、鮮明に頬を赤くした。熱があるのではと心配されるぐらい、首元までカっと赤くなっていた。
ゆずるは、好きな人と無言で見つめ合う状況に耐え切れなくなって、両手で顔を覆った。
「うわ、めっちゃ恥ずい……」
「好き」の、たった二語を伝えるために、どれだけの工程を経たか、もう考えたくもないぐらい、途方もない苦難と歴史の山が、そこにあった。
ずっと好きだったと言いながら、ゆずるは、過去を走馬灯のように見返したのだ。
――小中のいじめに遭って、包帯と消毒液を投げつけ、一緒に岐路について、勉強を教え合って、同じ高校を目指し、体調が悪くなれば看病され、家にまで招いてもらってココアをご馳走になり、夏目や来栖との出会いを経験させてもらって、週末は一緒に遊んで、文化祭で独りぼっちになって、修学旅行で並んで写真を撮って、別れ、お互いがお互いの知らないところで死にたがって、再会して……
やっと、「好き」と、伝えられた。
「なんで早く、言ってくれなかったの……」
七瀬の声が、また涙声になって、音が震えていた。
「だって、恥ずかしいし、第一、俺なんかが七瀬に『好き』って言っていいのか、分からなかったし」
「……口下手」
それは、かつての小学生の七瀬が、ゆずるのことを悪く呼ぶために言った言葉だった。黒板の前、突っ立っていたゆずる少年は、かつて、七瀬にそう呼ばれた。
しかし、今のその言葉にすら「好き」だという七瀬の感情が宿っているように、ゆずるは思えてしまった。
「口とか、メールとか、手紙ででも言ってくれなきゃ、分かんないよ……」
「それは……ごめん」
「私もゆずるも、鈍感みたいだから、【言葉】で伝え合わなきゃ、わかんないよ」
鈍感は、確かに言い得て妙だと、ゆずるも、発言した当の七瀬も思った。それぞれが、それぞれの過去を顧みて、「鈍感」だったと思い返した。
「おっけい。これからは、思う存分、『好き』って言うわ」
「人前では、恥ずかしいから、ちょっと、我慢して」
「うん。それは、流石に俺も恥ずいから、やらない」
「二人きりのときなら、百回でも、千回でも、言って」
「喉が枯れるまで、墓場で隣に眠るまで、言うわ」
「うはっは、それは愛が重すぎるって!」
「重くて何が悪い」
ゆずるは、首を掻きながら、月を見上げた。
光は……あの【蜘蛛の糸】のように降りてきた光は、今は、無かった。
「月が綺麗ですねー」
ゆずるは、機械的な、抑揚のない感じに言った。
「うはは!」
七瀬は、それを隣で聞いて、これまた豪快に笑った。
――天で輝く月だけが、それを知っている。




