ブラックシーネットルの奢り
東京スカイツリーを臨む都内の水族館は、思ったよりも小規模で、短い時間で館内を回り切れてしまった。
印象に残っているのは、クラゲの展示コーナー。
レストランが併設されていて、天井や壁の一部を、クラゲたちが泳ぎ回っている。優雅に泳ぐクラゲを鑑賞しながらの昼食は、雰囲気が落ち着いていて、ゆずると夏目の気に入った。
「こうやって一緒にお昼を食べるのも、久しぶりだね」
夏目は、ゆずるの対面の席に座って、海鮮丼を食べながら、そう言った。
そういえば、高校の時の修学旅行でも、海鮮丼を食べていたような……?生ものの魚介類が好きなのだろうか。
「久しぶりかな?最後って、3か月前とかだよ」
「さすがに3か月は、けっこうな期間空いてるといえるでしょう」
最後に会ったのは、3月の卒業式だったと思い返した。高校の時の、いわゆる「仲良し四人組」のゆずる、七瀬、夏目、来栖はそれ以降、多忙を理由にメールのやり取りのみが継続されていた。
現在、セミが忙しなく歌う夏の真っただ中。
他方、エビを指でつまんだ夏目は、それを口に放り込んだ。
「そういえば、バイトのほうはどう?最近、調子悪いって言ってたから……」
「先々週から、行ってない……」
痛いところを突かれたゆずるは、ハンバーグを食べるフォークを置いて、夏目に聞こえない小さい声で「うっ……」とえずいた。
バイト先の監督から『指折るぞ』と脅迫された日を境に、すべてが崩壊していたことを思い出してしまって、胸が、縄で縛り付けられるようなきゅっとした痛みを訴えた。
大学の夏季補習に行くことすら恐ろしくなって、人とかかわることが苦痛に感じて、絵を描くことも、CGを作ったり、ゲームをするためにパソコンを開くことも億劫になってしまって、寝たきりの生活にまで、「転落」していたのだ。
元の活力ある生活に戻りたい、絵を描きたい、そう思っても、体が動かなくなってしまった。
「親に、病院連れていかれたんだよ。したら、鬱だって診断受けた」
「ああ、本物のうつ病になっちゃったんだ」
「でも、今日のために生活習慣、頑張って直したんだよ。今は、気持ちも落ち着いてる」
夏目と水族館に行くと約束したのだからと、自分の体に鞭打って起き上がったゆずる。今日という日までには、頬にできていたニキビも小さく薄くなって、ほぼ見えなくなっていた。
これも、早寝早起き、栄養が整った食事、軽い運動の習慣が功を成したと、ゆずるは一週間を振り返った。
そんな、診断書の書面上は「病人」なゆずるに対して、夏目は申し訳なさそうに、眉尻をちょっと下げた。
「ごめん、無理させてない?」
「いいや、全然そんなことないし、むしろ、元気になれたから、ありがたいよ。こうやって外出すると、気持ちも晴れるしね」
「それなら、よかった」
ゆずるの言葉に安心させられたようで、夏目は、またエビを尻尾までぱくりと食べた。
彼の様態を慮ってか、夏目は、彼を鬱にさせた原因に、言及しなかった。
「お薬とか、もらってる?」
「セロトニンがなんとか、かんとかっていう薬を、処方してもらってる」
「わたしも飲んだことあるよ」
「え、そうなの……?」
突然のカミングアウトに、ゆずるは、お得意の沈黙を作り出した。食べる手がピタッと止まってしまって、柔らかいはずの人参がなかなか飲み込めなかった。
――まさか、夏目も鬱になったことがあるということなのか。
薬を飲んだことがあるということは、医師から処方されていて、診断されたのだと考えついて、やっぱり、そうだったのだと、ゆずるは確信に至った。
「わたしも、考えこんじゃう性格だったから、高校の受験前に鬱になったんよ。もしも、高校受かれなかったらとか、進路は、これで本当にいいのかって考え込んじゃって、ベッドに倒れたわけですよ。親に相談したら、お医者さん連れて行ってもらって、一か月半、中学校休んだわけですよ」
自分で持参したウエットティッシュで口元を拭いながら、夏目は過去の自分の姿を語り口調で描き出した。
「その時に、お医者さんに処方された薬ちゃーんと飲んで、ゆっくり休んだら、良くなって、雪摩西高校に受かって、うれしくなって、たぶん、完治したんだと思う」
うんうんと、自分でも語りながら頷いた夏目。
まさか、こんな身近な人に、似たような境遇に遭った人がいたとは……ゆずるは、言葉を奪われてしまって、しかし、静かに聞く耳を傾けていた。
――なんだか、夏目との距離が、ぐっと、近くなったような気がする。それは、物理的な距離でなくて、精神的な面での「キョリ」だ。
すると、夏目の語りの雰囲気ががらっと変わって、唐突に「鬱あるある」と言い出した。
「ベッドから起き上がれない、風呂に入れなくなって髪がベタベタになる、急に涙が流れる……」
ゆずるは、夏目が羅列したそれに、大いに共感した。
「……分かる。なんか、風呂にしばらく入ってないと、髪、めっちゃ抜けない?」
「お風呂に入らないことが、抜け毛の原因にはならないらしいけどね。たぶん、おんなじ場所にずっと横になってるから、抜けた髪が多く見えるってことだと思う」
何やら、調べてみたことがありそうな感じに、夏目は力説した。「なるほど」と相槌を打ちながら、ゆずるは共感の大波に飲まれていた。
「ベッドから起き上がれなくなるのは、やっぱり、ハルカも一緒?」
果たして、この症状は共通なのかと、今一度、確かめてみたくなった。
「うん。わたしの場合は、お母さんが作ってくれたお昼ごはんを取りに階段降りるのも辛かったから、持ってきてもらってた」
「ああ~……俺は、気合いで、取りに降りてる」
「強いじゃん。まあ、結局、世の中気持ちが強い人が勝ちますよね~ふっ」
最後に付いた独特な笑いが、いかにも彼女らしかった。
そうやって「鬱」を通じた思わぬ交流と共感を経たゆずると夏目は、互いに、心が落ち着いていた。「共感」が可能な人を見つけて、心が綺麗に洗われたような感覚を、ゆずるは味わっていた。
――これが、他者の心をおもうということなのだと、改めて認識させられた。
そうして、「お互い大変だね」と夏目が言っている間にも、クラゲたちは、そんな会話知ったことではなく、ただ自然の流れのままに泳いでいる。
すっかり満腹になって、皿が平らになってもなお、夏目が主に展開する話題の流れは、止まるところを知らない。大学での面白い学友、先生の話、好きな科目の話、講義が怠い話、親に対する愚痴などなど……
ゆずるは、その流れに取り残されないようにしながらも、彼女との気休めになる会話を、心の奥底で楽しんでいた。
「あ、ゆずる、」
――話題は、いつの間にか、恋愛の話へと変遷していた。
「くるみちゃんのことは、今も、好き……?」
これは、夏目による駆け引きなのかもしれないと、ゆずるは、何となくで勘づいた。
夏目は、高校における修学旅行、船の上で、こう言っていたか『もし、くるみちゃんとの恋が成就しなかったら、わたしのところに来てほしいな』と。
それに対する答えを求められているような気がした。
いや、「水族館への誘いに乗る」というこの状況がある時点で、既に答えとされているのだろうか……
真意は、彼女自身にしか分かりえない。
「……」
ゆずるは、沈黙した。しかし、頭で深く考え込んでいる。七瀬と夏目と、両方にとって最も良い答えは、ないものかと。
しかしながら、そういった都合のいい答えが、おそらく見つからないであろうことも、重々承知であった。
「……正直に言うと、今も、気になってる」
ゆずるは、いったん恥を忘れ、言葉を小さい声で搾り出した。
夏目であれば、沈黙を破るとき、「はい、か、いいえで答えて」と言いそうな気がした。先手を打たれて、逃げ場を失うことがないように、しかし、的確かつ曖昧で、七瀬も夏目も傷つけないような答えを絞り出したつもりだった。
オレンジジュースをストローでグビグビと飲んだ夏目は、ふん、と鼻を鳴らした。
「気になってるなら、なんで会いに行かないの?」
「……俺が七瀬のこと気になってるのは本当だけど、七瀬が俺のこと許してくれるか、分からないから」
自信なさげに、さらに「大学で新しい人と仲良くしてるかもしれないし」と、ゆずるは、付け加えた。
それに、ゆずるの頭の中で、あの光景が暴れて、キーンとした痛みをともなう頭痛を引き起こしている。
――卒業式後、来栖が、3年D組の教室にて、七瀬に告白している光景が、胸をむず痒くさせる。彼は、衆目の前で堂々と七瀬に『好きです』と言っていた。
しかし、来栖という人間が、加賀美ゆずるという人間よりも優れた点に富んでいることは事実。彼の積極性やコミュニケーションの技法、さらに勉強への取り組み方の真面目さは、見習いたいぐらいだ。
そんな人間を押し退けて七瀬に迫れるほど、自分は強い存在ではないと、ゆずるは自覚していた。
まさに、過去に描いた『蛇に睨まれたカエル』を思い出していた。
「そんな恋するゆずるくんに、一つ、ワシが有益な情報を授けよう」
なぜだか口調が仙人風になった夏目が、ひとさし指を立てた。
「くるみちゃんが気になってたバイト先の先輩のこと、ゆずるは知ってる?」
「ああ、一年生の頃、話、聞いたことある」
夏目が明言したそれは、少々記憶を遡る。
暖かい陽気が漂う午後、七瀬宅にお邪魔させてもらって、オセロをしながら彼女の恋バナに耳を貸した記憶は、今なお、なぜだか鮮明で、真新しかった。
彼女は、バイト先の先輩のことが「気になっている」としながら、身長が高いこと、困っていたら助けてくれる姿に胸がキュンキュンすると語っていたか。
「くるみちゃん、その人に告白したんだけど、『俺、彼女いるんだよね』って、振られてたよ」
口を小さく開けて唖然としたゆずるに、夏目は「ほんとだよ」と真実であると箔付けた。
「わたしと、くるみちゃんと、その先輩でごはん行ったときなんだけどね。その先輩が、同級生に付き合ってる人がいるから~って言って、くるみちゃん、がっかりしてた、たぶん。顔は、笑顔つくってたけど」
そんなルートがあったかと、ゆずるは気づかされた。
恋愛の話に疎いゆずるは、七瀬が告白した相手の人が、既にお付き合いをしているという状況を想像することができなかった。七瀬ほどの人物が告白して断る人などいないだろうと、過去のゆずるは断言したかもしれないが、その場合においては、確かに、断られてしまうかもしれない。
――七瀬に、無責任なことを言ってしまったのではないかと、いまさらながら、不安になった。
「それと、来栖の件なんだけどさ……」
頭の整理が追い付かないが、夏目は、最も気になっていた話を続けざまに持ち出す。
自らの両手の指を交互に絡ませながら、夏目は、低い声で言った。
「――くるみちゃんからこの間、告白は断りたいって、メールで相談が来た」
「……?」
「分かってないな、その顔。つまり、今のくるみちゃんは、【空いてる】んだよ」
七瀬が、来栖に対しては、あまり積極的でないというのは、分かった。ただ、そこで思考が停止して、ぽかんとしていたところを、夏目に言葉でもって突かれた。
「いや、そんな、まさか……」
「気になるんなら、会って聞いてみれば?またとないチャンスだよ。『俺のこと、好きだったりしますか?』って、聞きなよ。たぶん……わたしの感覚から言わせると、くるみちゃん、【落ちる】よ」
ゆずるの心は、大きく揺れ動いていた。
――明日に、命を絶つという決意が、夏目の進言を前に、揺らいでいた。
もしかすれば、七瀬と会うことができれば、何か、希望の光を見いだせるかもしれないという、おぼろげな希望が、湧いて出ていた。
もしかすれば、七瀬とまた、仲良くなれるかもしれない。好きだと、言ってくれるかもしれないと思うと、希死念慮という死神の鎌を持つ手が、震えているのを知る。
七瀬と会うか、否か……
そうやって、迷いの森を彷徨うように、また思い悩みながら、あっという間に、水族館の外へと出ていたのだった。




