憂鬱の箱舟に揺られて
修学旅行二日目。
宿泊先の旅館を出たゆずるは、近くの駅にて、七瀬と夏目と合流した。
「おはよう、来栖!寝れた?」七瀬が、ハキハキとした声を響かせ、ちょうど同じタイミングで横断歩道を速足で渡ってきた来栖に訊いた。彼は、頭を掻きながら応えた。
「いや、部屋のダチとずっと話してて、あんま寝てない。ねみー」
「私も話盛り上がっちゃって、あんま寝てない」
来栖のあくびが感染したかのように、七瀬も大きく深いあくびをかました。ちょっとマスクを取ってみると、澄んだ空気を肺へ注ぐことができるので、あくびは、さぞ心地よいであろう。
夏目は、スマホで地図と電車の乗換案内を交互に見て、今日の道順を確認している。
――昨日の船でのことを思い出してしまって、夏目の目をまっすぐに見ることができない。目が合う度に、心臓がきゅっと縮む感じがする。
「で、今日はどこ行くんだっけ?」
来栖が、メンバーに訊く。予定管理をする夏目が答えた。
「伏見稲荷大社と、清水寺、それから、金閣寺も行きたかったんでしょ、くるみちゃん?」
朝の昇りゆく太陽に照らされて、夏目の眼鏡がキラリと光る。七瀬は「そうそう」と改めて観光計画に賛同を示した。
伏見稲荷大社は、例の千本鳥居を潜るのが楽しみだ。清水寺は、舞台の高さを感じたい。
どこかで昼食を挟み、班を二つに分裂させて、最後に金閣寺を訪れる予定。言うまでもなく、静かなる佇まいを拝んで、歴史と三島文学を肌で感じることが、ゆずるにとっての目的である。この世で最も美しいと言われる御姿を、目に焼き付けようではないか。
であるから、移動の時間が圧倒的多数であろう。
「オレたちは、ユニバ行くからな。どうぞ、ごゆっくり楽しんで」
嫌味っぽく、低い声で言った来栖は、ゆずると七瀬を順に見た。
――昼食後は、班が一旦分裂して、七瀬ゆずるペアと、来栖夏目班という感じに分かれることになっている。前者は金閣寺へ、後者は、大阪方面へと移動して、所謂USJへと向かう予定となっている。日暮れ後には、指定の宿泊施設へと到着して二日目を終了という、タイトな予定となっている。
これは、七瀬の提案だった。「ゆずると一緒に行きたい」と、臆面もなく、班会議で言ってみせたのだった。
まあ、別に、班が分裂して巡ることは、ルールの範疇である。ただ、問題は、これが七瀬×ゆずるのデートにしか見えないということだ。
「へへ。ごゆっくり~」
独特な笑いをした夏目はジト目を細めて、こちらを見ている。
七瀬は、いったい、何を考えているのだろうか。班を分かれさせてまで二人きりになることを望むなんて。
そうやって深い思考を頭に巡らせながら、切符を改札に通した。電車は、ちょうど駅に到着したところだった。
****
午前中と午後の時間の一部を使って、清水寺と伏見稲荷大社を巡った。
「清水の舞台から飛び降りる」という言葉があるが、あんな高さから落ちたら、まず、無事でいられないだろうなと思った。それぐらい高さがあって、見事だった。また、毎年発表される漢字も、ここで書かれていると考えると、感慨深い。長く連続した歴史の一部として、自分も立っているのだと実感させられた。
次いで、京都市内で海鮮を食べて、電車(ゆずるは、「憂鬱の箱舟」と内心で呼称している)に揺られ、伏見稲荷大社へ。千本鳥居は、やはり圧巻。
そして、遂に班の分裂の時が。
「楽しんでね~」
「そちらこそ~」
七瀬と夏目は、電車のドアが閉まる瞬間に、手を振り合った。来栖と夏目ペアは、他のグループと合流して、ユニバへ行く予定。
それから、電車を乗り継いで、次いで駅から歩いて、目的の金閣寺へと向かう。
金閣からの最寄り駅に到着して、アイスクリームを嗜み、一息の休憩を挟む。
寒いのに、アイスクリーム?と疑問だったが、寒空の下のアイスも悪くはなかった。体が外からも内側からも冷えるのだが。ちなみに、スーパーで売っているような棒のアイスである。七瀬はチョコバナナ味、ゆずるは、ソーダ味。
駅前のベンチで隣り合って、アイスをただ食べるのみの光景は、傍から見ればシュールであろう。
「んふふ、おいしい~寒いけど」
七瀬は、ものを食べる時に、本当に笑顔でおいしそうに食べるから、こちらまで微笑みを誘われる。
黒色を基調とした丈の長いコートを身に纏っていて、金髪との彩度の対比が映える七瀬。行き交う人々も、彼女に目を奪われるようで、ちらっと横目に見ていく人が多かった。
どこまでも美しく、かわいく、無邪気に笑う七瀬の横顔を見て、思う。
中学生だった頃の、夕暮れの茜が美しい日、七瀬に毒を叫んだことが、結果的に彼女の幸せに結びついて、良かったと思う。それだけで、ゆずるという人間がこの世に在ってよかったと、思えるから。
「ねぇ、アイス交換しよう」
「ええっ……?」
またこれだ。
七瀬の御宅にお邪魔して、お昼にナポリタンとカルボナーラを食べ合った、あの日と同じ流れだ。さすがに深まった長い仲だから、いっそ指摘してしまおうと決意を胸にした。
【間接キス】という、直接的な表現を避けながら、慎重に慎重を重ねて、言葉を吟味して、七瀬に言った。
「ねぇ、このアイスって、俺が口つけたやつなんだよ。嫌じゃない?」
「ん?私は、別に気にしないけど。……ゆずるは、気になる?嫌?」
アイスの棒の先端を口に咥えたまま、七瀬はポカンと口を開ける。
「いや……嫌とは違うんだけどさぁ……」
公言は憚れるが、七瀬の唾液が自分の体の一部になることには、特に抵抗がない。むしろ、それが良いのだという、一般の常識に言わせれば「気色の悪い」考えが勝っている。
ただ、逆の立場では、話が変わってくる。
七瀬は、こんな口下手の口からデロデロと分泌される唾液が少なからず含まれるアイスを食べることに、抵抗はないのかと、確認せねばと思った。
「仲良しの間だったら、別にいいかなって。違う味のアイスも食べられて、お得じゃん?」
「……ズレてる」
「えーいいじゃん、私とゆずるって、知り合って何年よ?6,7年の付き合いじゃん」
「そうか。それじゃあ、どうぞ」
半分ほど残っているソーダ味のアイス棒を、七瀬へ。彼女のほうからは、黄色っぽいアイスが半分ほど残っている棒を受け取る。
それを口に運ぶと、寒さからか分からぬ震えが起こった。しかし、甘くておいしかった。
七瀬は、ソーダの水色に澄んだアイスを口にして、「こっちも美味しいね」と言って、味わって食べていた。
「あのさ、七瀬」
「ん?」
「中学生の時に七瀬が訊いてくれたこと、覚えてる?」
ゆずるが言った「七瀬が訊いてくれたこと」それは……
「え、何のこと?覚えてないかも」
「言ってたじゃん、『私と友達になってよ!』って」
暗幕が張られた、カルメ焼きのにおい漂う理科室での記憶が、七瀬とゆずるの記憶の引き出しの奥深くから思い出された。
帰路に就こうとしていたゆずるに、突然、七瀬は声をかけた。『ゆずるくん……?』と、昇降口にて、ちょっと遠慮気味に迫ってきた彼女の姿は、今でも鮮明に思い出すことができる。
その後、人気のない理科室へと招かれ、中学生七瀬は、包帯や消毒液を貰ったことへの感謝をして、小学生時代に為した、自らの所業を詫びた。そして、『私と友達になってよ!』と声を高くして言っていたか。
目を少々細めて、記憶を手繰った七瀬が、閃いたように、ワインレッドの色をした、ガラス細工のように美しい瞳をぱっと見開いた。
「ああ~言ったかも」
ようやく思い出してくれたようだ。
「俺、『考えとく』って返したの、覚えてる?」
「うん。思い出した」
首を縦にコクコクと振った七瀬。
過去の自分は、気まずさに耐えかねて、七瀬に背を向けて、理科室を後にしてしまった。中学時代は、同じクラスになることがなかったため、返事を返す機会が帰りの時間しかなくて、結局、『私と友達になってよ!』という懇願への返事を先延ばしにし続けてしまった。
高校生になり、同じクラスであっても、七瀬は多くの人と常に話していることも一因となって、返事を伝えることができずにいた。
――その返事を、今になって、ようやく返すことができる。
ゆずるは、七瀬をまっすぐに見て、言った。
「その……あの……友達、なろ」
言葉を吟味したが、結局、ストレートに言ったほうが伝わりそうだと気が付いて、常に底を突きそうな貧弱たる勇気を振り絞った。
七瀬は、駅の前の行き交う人々のほうに刹那、視線を移して、再び、こちらをじっと見た。
「いまさら?私は、もう友達だと思ってたよ」
はて、と、首を斜めに傾げた仕草をした七瀬に対して、「え……」という単音が疑問を代弁した。
七瀬は、自分のことをずっと「友達」と思ってくれていたのか。
それが真ならば、嬉しい。正直に、とても嬉しい。
これで自認も、七瀬からの公認も取れた、真の「友達」になることができた。
「だって、ずっと一緒に帰ってるし、家に遊びに行き合ったり、修学旅行も二人きりになったり、お弁当一緒にたべたりしてるじゃん。それって、友達の証でしょ?」
「まあ、たしかに」
食べ終わったアイスの棒をクルクル手で回す七瀬。
これまでの二人の関係を振り返るゆずるは、七瀬が言った「友達の証」を再確認する。
中学時代は、帰路を共にして、同じ進路先の高校を志望した。
高校生になってからも帰りの時間が同じ日は一緒に帰るし、金曜日の夕方はよく、オセロ、将棋や、テレビでレトロゲームをして遊んだ。昼休みには、隣合ってお弁当を食べる仲であるし、勉強だって教え合って乗り越えている。
これは常識の感覚に言わせても、「友達」の定義に当てはまっているのではないか。
「というか、そんなに昔のこと、覚えててくれたんだ」
「そりゃね、返事を待たせちゃったなーって、ずっと思ってたから」
ゆずるは、自分に対しても、他者に対しても、興味が薄かった。しかし、仲良くなった七瀬の言ったこと、為したことは、多くを鮮明に覚えている。
彼女のことが好きだから、という理由がありそうだが、唯一、仲良くしてくれる人を失いたくないという、消極的な理由も、大きな割合を占めていそうだと思う。
「――いいよ、改めて友達、なろ」
白い右手を袖から覗かせて、それを差し出してきた七瀬。手首には、うっすらと残っているリストカットの跡が刻まれている。
「ほら、約束の指切りげんまん」
「ああ……」
とても子どもっぽい契りだが、ゆずるは手を伸ばし、七瀬の小指と自分の小指とを絡めた。
指切りげんまん。嘘ついたら「夜中に家の扉をトントンする」という、割とシャレにならなそうな怖いことを言われた。
指を離した七瀬は、顎のラインに手を添えた。
「――好き」
「ん?今、なんて……?」
シロップが混ぜ込まれたアイス部分が無くなった棒を見つめて、七瀬が唐突に言った言葉は、行き交う人々の発するあらゆる音を突き抜けて、妙にはっきりと、響いて聞こえた。
ふと、彼女のうっとりしたワインレッドが混ざった瞳を見たが、アイスのことを「好き」と言ったのか、ゆずるという人間のことを「好き」と言ったのか、分からなかった。
――まさか、こんなタイミングで告白?
いや、それは自意識過剰だろうか。こんな口下手で、自分の世界に引き籠りがちな人間に、好かれる要素は無いと、理性は、冷静に判断した。
「あー……ソーダアイスが?」
だから、彼女はアイスのことを「好き」と言ったのかと、確認してもらいたかった。
しばらくの沈黙が続いて、心臓を抱える胸が、張り裂けそうなツンとした痛みを訴えた。「……そう」という、七瀬の珍しく低い声が聞こえて、安堵する。
……よかった、とんでもない勘違いをするところだった。相思相愛だなんて、そんな夢物語は、夜の寝る前の妄想で描くに限る。
「じゃあ、七瀬の家に遊びに行くときは、アイスも買ってきてあげるね」
「……ありがと」
そんなにアイスが好きならば、チョコ菓子以外の手土産の選択肢が増えるというものだ。夏場は酷暑で溶けてしまいそうだから、春先や秋の口ぐらいに持ってくるのがいいだろう。
「ほい、アイスの棒、捨ててくるよ」
「ん」
七瀬からアイスの棒を預かって、コンビニ前のごみ箱に捨ててきた。元のベンチに戻ってくると、七瀬は、お尻の砂をはたきながら、立ち上がっていた。
さあ、いよいよ金閣寺へ出発だ。
「……行こう」
七瀬は、バッと手を伸ばし、手をぎゅっと握り締めてきた。彼女の手のひらは、驚くほど温かく感じられた。
「いやぁ……手つなぐのは流石に……」
「いいでしょ、友達だし、仲良し、仲良し♪」
衆目の目がある場所での手つなぎは、どうしても気恥ずかしい。けれど、
ここは、京都。
雪摩西高校は、東京の中央市にある。
七瀬とゆずるの手つなぎの光景を見た人とは、もう二度と会わないのだと考えると、それも良いかと思えてきた。
その後の七瀬は、らしくなく、ずっとモジモジしているようだった。「体調、大丈夫?」と聞いても「うん」と首を縦に振るばかりで、彼女の深層の心理が、よくわからなかった。
その後は、金閣寺の最寄り駅まで電車で移動した。
……アイスの棒を捨てる時、七瀬のアイス棒をペロッと舐めてから捨てたことは、墓に入るまで内緒にしておきたい。




