叫び……
トイレをお借りしたく、ゆずるに言うと、彼は「わかった。来て」と短く言って、二階のトイレの前まで案内してくれた。
彼は、無言のまま階段を降りていく足音だけをぺたぺた言わせた。
トイレから戻って、洗面所をお借りして、念入りにボトルの石鹸で手を洗う。
変わらずリビングで作業していた彼ゆずるに、尋ねる。「絵、見せてよ」と。
「体調悪いのに?大丈夫?寝てていいよ」
気を使って言ってくれる彼を押し切って、「このために、来てほしかったんでしょ」と、まっすぐに突きつけた。
彼は、「無理しないでね」と言って、さっき、くるみが降りてきた階段を上がっていく。
ゆずるの背中を追うように、階段を登る。お腹のあたりがぎゅっと縄で縛られるような腹痛と腰痛は治まらないままだが、痛みを顔に出さないようにして、一歩一歩を踏みしめた。
薄暗がりの満ちる廊下の終点には、押し入れと思しきクローゼットがあった。壁に埋め込まれている形式だった。どうやら、ここに、見せたかった絵があるらしく、また、彼はここを「秘密のアトリエ」だと説明した。
かっこいいな~。
ここに籠って、私の理解の範疇を超越する素晴らしい作品が生み出されていると思うと、胸が高鳴る。もしかしたら、現代のゴッホ級の高い価値がつく作品が眠っているかも……?
彼が先導して、クローゼットの戸を引いた。
絵具やインクが乾いた、鼻を突くにおいが漂ってきた。悪いにおいではない。
「これ、全部描いたやつ?」縦に積み重なったキャンバスの山を指さして、訊いてみる。一番上に乗っているこれは、美術に興味なしのくるみでも知っている作品だった。
ゴッホの「ひまわり」だ。細緻なまでの模写が、そこにはあったのだ。「あ、ゴッホのひまわり」
「そうだよ。うまく描けたやつはここに積んでおいて、失敗作はこっちの奥に放置してる」
彼は、手狭なクローゼットの中のアトリエを案内する。
一番奥には椅子と、小さなテーブルと、キャンバスを立てるスタンドが置かれて、たぶん、ここに座って描いているんだろうなと想像する。
「これが失敗作?そうは見えないけど……」
押入れアトリエの奥に放置された絵を手に持って、まじまじと見る。
クジラの絵だ。しかし、どう見ても海の色がおかしい。赤黒くなっていて、透明感は皆無であった。まるで、血で満ちた海を、黒いクジラが苦しみながら泳いでいるように見えた。
ほかにも、赤黒い感じの色を多用した絵が多くって、彼はこういう色を使うのが好きなのかなと考えた。
……お世辞にも綺麗とは言い難い、暗い色で満ちていた。
「これも?あとちょっとで完成しそうに見えるけど……」
赤黒い背景に輪郭がはっきりとした、使い古されたテレビ、スマホ、テーブルやら椅子やらの日用品から、スーツを着た人々やら、ボロボロの衣服に身を包んだ人間やらが山のように積み重なっていて、その頂上には、何者かがうつろな目をして立っている絵だった。
あとは、背景の色を端まで塗って、服の色を塗れば、完成しそうだった。
くるみが指さした絵を見て、ゆずるは、首元を爪でカリカリと掻いた。
「ああそれか。それは、『脆弱性』っていう絵で、描いてる途中で心変わりしちゃったから、筆を置いた」
「心変わり……?」
いったい、どういうことか。気になって訊いてみた。
「心病んでる時に描き始めた絵なんだけど、テストでいい点とれて、心が晴れちゃって。作品に一貫性が生まれないでしょ、それじゃあ」
彼は、低い声をアトリエに響かせて、続けて言った。
「あくまで、暗い気持ちを描きたかったから、気持ちが晴れたら、もう描けないよ」
何となく、自分に置き換えて、ゆずるのどこまでも深い創作論の理解に努めた。
メールは履歴が残るので、その時々の感情が染み出るメッセージが残っている。明後日に控えるリョウ先輩との初ごはんの約束をした時のメッセージは言葉選びが軽快で、逆に、テンションがだだ下がる【赤い悪魔】の降臨日には、イライラしているような、切羽詰まったような言葉選びになっていることが分かる。
たぶん、そういうことなのだろう。日によって、テンションが異なっているから、作品を描く筆の踊り方も、それにともなって異なってくるという理解だ。
「芸術肌だね~私のお母さんお父さんと、話合うよ、きっと。私は、あんまり興味ないんだけどね……」
「そっか、でも、俺、緊張して話せないよ、きっと。七瀬のお父さんとは、会ったこともないしね」
芸術を知ることは、心を豊かにすると、両親から言われてきたけれど、イマイチぴんと来なかった。しかし、読書を嗜み、絵で自分を表現して、CGにまで挑戦するゆずるを見ていると、それが説得力を帯びて聞こえる。
――言葉以外で、自分の内心を伝えられるって、素敵だ。
いよいよ、腰の痛みが限界にきていて、立っているのが辛いので、核心に迫る。
「で、見せたい絵って、どれなの?」
ぐるっと見て回ったが、どれも傑作に見えてしまうぐらいの数々であった。その中で、わざわざ加賀美家の押し入れアトリエにまで来てほしいと呼んだ傑作とは、どれほどのものなのだろうか。
ゆずるはおもむろに、壁を指さした。そこには、赤黒い絵具の跡?汚れ?らしきものがべったりと付いていた。これが、作品……?絵具の飛び跳ねた汚れではなくて?
天井から吊り下げられた照明の白い光に照らし出された彼の顔は、いつもより自信があって、誇らしげだった。
「これは、一見、絵具の汚れに見えるかもしれない。でも『物憂いの形』っていう作品なんだよ。ある日、未来への不安とか、思うように描けないイライラが爆発して、筆を投げちゃったんだ。その時にできた絵具のシミの跡が、これ」
彼がいたって真剣に語ったから、腰の痛みを押し殺して耳を傾け、彼が「作品」と言った壁の絵具汚れをまじまじと見た。
いつも温厚で、感情をあまり表にしない彼が感情的になって筆を投げる姿が、想像しにくかった。彼も自分と同じ人間で、同じように悩んで、感情が爆発するんだなと、再認識させられて、どこか感慨深いものがあった。
……こんなに落ち着いた雰囲気の人も、イライラすることがあるんだ、不安になったりするんだなぁ。
「これは、よく考えたら、俺がつけた汚れじゃなくって、俺の中の「鬱憤」が形を成して現れたんだって気が付いて、あえて残して作品にした」
ゆずるは、いつにも増して流暢に語った。
率直に、そういう考えができるのは、すごい。この赤黒い絵具の汚れを「物憂いの形」とするなんて、自分が1万年考えても思いつかないような発想だと、くるみは思う。
彼は、沈黙して、壁を見つめている。感想を求められているのかなと思い、開口した。
「素人目線でごめんだけど、不思議な作品だなって思った。偶然できた壁の汚れを作品に昇華できるのは、すごいと思う」
もし私だったら、お母さんに怒られる前に汚れを落としてしまうだろうし、壁紙の交換をするか否かで迷っているだろうなと思う。
しかし、彼は恐らくそこで冷静になって、壁にできた絵具の汚れの意味を深く考えたのだろう。そういう柔軟な頭を、半分でもいいから分けてくれないかなと、期待してしまう気持ちがあった。
彼は、率直な感想を受け取って、首もとを指で掻いた。
喜んでいるのかな、それとも、ちょっと恥ずかしいのかな……?私には、彼の内心が読み切れない。
「……ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しい。……すごく、うれしい」
それの答えは、珍しくも「喜び」だった。
彼の声は震えていた。彼がこんなにも率直に感情を口にするなんて、いったいどうしたのだろうか。――彼は、目元を右手で覆っていた。
体が僅かに左右に揺れていて、まるで、今の彼の不安定な感情を代弁するかのような様子だった。
「ど、どうしたの?大丈夫?ぎゅーする?」
「いや……大丈夫。下、降りよう、体調優れないんだから」
また気分が落ち込んでいそうな彼のために、無料のハグを迫ったが、手のひらを示され断られてしまった。
「まだ全部見せてもらってないけど……」
彼の作品は、くるみにとって、どれも傑作で、目新しく面白いものだった。だから、全部見せてもらうことがいいと思うが、いかんせん、立っているのが辛い。
「体、辛くない?無理してない?」
「……うーん。辛い」
「じゃあ、下でゆっくり話そう」
「お言葉に甘えさせてもらうね」
体を丁重に気遣って、労わってくれる彼に手招きされて、階下のリビングのソファーに戻った。
その後は他愛もない会話を交わして、帰宅する。
なんと、家が近いから、ゆずるは家まで付いてきてくれた。彼は「心配だから」と言ってくれた。
玄関の前の門で手を振っていた彼は、口角をちょっと上げて、微笑んでいた。




