5 荒ぶる冬の哀歌
久しぶり過ぎに投稿したら、やり方忘れてパニくるあるある?
やあ、ご機嫌いかが?風邪は引いてないかい?
今日の私は少々ご機嫌斜めだ。何故なら、今日は天気が下り坂で頭が重いからね。
知り合いの魔女が言ってたよ、天の神様の機嫌が荒れている時は、人間も神威に当てられて頭が痛くなるんだとさ。
こういうタイプの頭痛には二日酔いの薬が効くんだが、誰も私がただの頭痛だと信じてくれない……昨日はほんの少ししか飲んでないというのに。
私の頭が痛くなると、東鳥も心配して寡黙になってしまう。 ご披露出来なくて残念だよ。
氷嚢に困らないのは冬の良いところだな。
今日のおやつは、ベーコンとほうれん草のキッシュだ。頭痛に効くからと頂戴したんだが、効能の真偽は兎も角、味は文句の付け所がないね。頭痛の気鬱も吹き飛ぶ絶妙なハーモニーさ。刷毛でさっと塗られた一手間の蜂蜜が良い仕事してる……つい2切れ食べてしまったが、君らは晩御飯の余白の為に、1切れだけにしておきなさい──涎を飲み込んで大人しく歌を聴くと……否、歌を楽しんだついでに、おやつも食べていって欲しい。
さてと、今日のテーマなんだが──村長さんからね……苦情が来た、冬の乙女の描写……ディティールについて。
だが私はさっぱり心当たりがなくてねえ?──だからジャックの分のおやつは私がさっき食べておいたよ。ケツをしばかれないだけ良かったと思え。
変な話が広まってるようだから、一度しっかりと話しておこう。キッシュの為に、心して聞くように。
まず、断固として冬の乙女は、歴戦の熊殺しの猟師ではない。何故こんなイメージになったのか全くの謎だよ……ジャックは私よりストーリーテラーの才能があるね、酔っ払いの戯言より酷いとは御見逸れした。
冬の乙女は慎ましく慈悲深き乙女だ、熊をバッタバッタと薙ぎ倒す殺戮者ではない。そういうのは英雄が担当するし、喧伝するのは我々吟遊詩人に任せて欲しい。
幸いな事に、ナイト領のゲームキーパーは腕が良いから、そうそう熊に出くわしたりはしない。私もこれまで見た事が無いくらいだ──おっと、見た事有ったら有ったで問題だな。死んだフリをすると良いと聞いた事があるが、実践してみたいとは……微塵も思えないね。
残念ながら、冬の乙女は人間を特別扱いしてはくれない。熊も人も等しく尊い命だとお考えだ。だから熊のランチタイムを邪魔するような野暮な事はしない。救いを求めるなら戦神イグニスの方がマシだ、彼の神は人間贔屓だからね。
確かに、冬の乙女と熊とは切り離せない関係だ。
彼女は一般的な姿形として、熊そのものや、もしくは熊の毛皮を纏っている女性として描かれる事が多い。
一昔前に熊の毛皮ブームが来て、画家や彫刻家がこぞって、見栄えのする熊を冬のモチーフに選んだからね──当時、北にあったメサトーイ国にトアル国が援助して、アウロラキス山脈で発生した魔大熊を討伐した記念に、その毛皮がトアル国に贈呈されたんだ。今でも王城の床でフカフカの毛並みを披露してるよ。
熊は冬籠りするから滅多に姿を見る事はない、芸術家気取りのインドア派なら尚更ね──別に私怨で言ってる訳じゃない、経験則だ──。冬の熊に出会うという珍事そのものに神秘性を感じたのが、冬の乙女と熊が強く結びついた切っ掛けではないかと思うよ。
人の知る神の姿形なんて、得てしてそんなもんさ。
芸術家のインスピレーションで、ただ単に冬は寒いから暖かい毛皮を着せてみようと思っただけ。それ以前の古いものでは狼や鹿の毛皮を着てる話や像もあったんだ。
あいつらは、自分がどれ程美しく肉体美を表現出来るかしか頭にない。自己顕示欲の沼の底のヘドロが干からびたみたいな痴れ者どもだ。どんな神も英雄も丸裸にして、何が何でも肌を露出し、筋肉や乳房を誇張しないと気が済まないのさ!!
お陰様で、熊の毛皮を羽織る痴女の像に祈る時代がやって来たんだよ──慎ましき寡婦である冬の乙女が、恥じらいもせずに肌を露わにしてるのはおかしいのに!
君らの中に、もしこれから芸術方面に才能を伸ばしたいと思う者がいるなら、神々の幾重ものヴェールをひん剥くのは不敬だと知っていて欲しい。その上で表現したいものがそれなら好きにすれば良いけどさ。
現在の冬の乙女の原型となった話は、熊の中から美女が出てきて、男を誘惑し連れ去ってしまったという伝承だ。慎ましい冬の乙女にしては、些か大胆な火遊びをしたもんだよ。
私はもちろん冬の貞淑さを信じてるからね、調べたさ。
これとよく似た話が西方の島国にある。アザラシから美丈夫が出てきて、女を海へと攫ってしまう神話だ。西の砂漠のカナン巫女王国の聖典にも、アザラシを纏った女を妻に迎えたが海へ去ってしまったという一節がある。
海と風の信仰が強い西方で広まった、このアザラシ伝説が出典であろう──アザラシかあ……何と言えば伝わるのかな。アザラシとは海の獣で、丸太のような寸胴に申し訳程度のヒレのような手と足が付いてる生き物だ。陸では芋虫の如くだが、水の中ではアハイシュケすら躱す俊敏さを持つらしいぞ。
私の表現力ですら君らに伝わらないように、この話が内陸を進むうちに、アザラシを見た事がない為に適当な獣に次々と置き換えられて、やがて辿り着いた東方では熊になったんだろうと思われる。
ちなみに、陸路ではなく海路を経由して伝わったものが、南のモルトハーテ国の人魚伝説だが、こっちは涙無くしては語れない美しく悲しい物語だから今日は端折るよ。
熊の中から女性が出てくる話のインパクトと、獰猛な熊に冬の荒々しさを重ねた話が、神秘を履き違えた芸術家気取りのゲスなエロ作家に見つかったのが、今の冬の乙女の姿ということ。
女神や芸術性と裸体に何の関係性があるというんだ、全く。
教会はお布施が儲かりゃそれでいいから、どんどん似た路線に
なっていくしさ……君らに愚痴ったって仕方ないね、すまない。
閑話休題、熊の姿をした荒ぶる冬の姿を伝える話として、こんな歌がある。
若い猟師が雪山に入り、珍しく獲物が多く手に入り、ホクホクして村へと帰った。
村人は喜んだが、年寄りの猟師が、獲物を取り過ぎだと諌めた──冬を生きる命は人だけにあらず、分を弁えねばならぬ、と。
だが、年寄りの猟師は獲物が何も獲れていなかったので、若い猟師は嫉妬だろうと相手にしなかった。
その老人は今すぐ獲物をいくらか山へと還すべきだと主張したが、逆に、若い猟師を讃えて喜ぶ村人達に責められて、村の外れに追い出されてしまう。
荒屋で老人は凍えて眠れずに震えていると、ふと外から何かが近づいてくる足音に気がついた。
丁度月が真上に昇る頃で、夜にもかかわらず、壁の隙間から光が漏れてくる程に明るい。老人がその隙間からそっと覗くと、巨大な熊がのそりのそりと雪を踏みしてやってくるではないか。
老人は猟師であったが、一目見ただけでとても敵う相手ではないと生きた心地がせず、見つからないように息を潜める他なかった。
熊は行き過ぎ、老人は命拾いしたとホッとしたが、はたと不安に思うのは熊の行方。熊は村の中へと迷わず入っていったのだ。
すわ皆に危険を知らせねばと我に返るも、体はすっかり冷え切っていて歯の根が合わず、手足も上手く動かせない。そして間もなくして阿鼻叫喚が聞こえてきた。
こうなってしまっては、老人に為す術はなく、耳を塞いで震えるばかりであった。
いつの間にか気を失っていた老人が目を覚ますと、すでに夜は明け、辺りはひっそりと静まり返っていた。
老人が怖る怖る外へと出ると、村があった場所には何も無く、すべてが跡形もなく消え失せてしまっていた。
そこには真白な雪があるばかりで、生ける命も熊の足跡も惨劇の血の跡も無かった。
このような仕業、あの熊は冬の乙女だったに違いないと、気付いた老人はただただ咽び泣く事しか出来ないのであった。
この話の教訓は、冬の僅かな恵みを独り占めせず、分け合わなければならない、という事だ。何時如何なる時も、強欲は身を滅ぼすのさ。慎ましさというものは、美徳である以前に唯のライフハック。
冬の寒さに耐えているのは、人だけではない。獣も同じように凍えながらも逞しく生き抜いている。人だけが過剰に獣を狩れば、山から生き物がいなくなってしまうだろう。冬の乙女の慈悲は、人だけに与えられているものではないのだと、この歌は戒めているんだ。
だが、いくつか興味深い事実もある。
ナイトニア山脈の東の端をさらに行くと、今度は北へと伸びるアウロラキス山脈が現れる。その辺りでは、ここらの熊よりもずっと体が大きな熊が生息している。凶暴で執念深く、そしてとても賢い。
猟師が冬山で獲物を持ち帰るのを見つけた熊が跡をつけて、村を襲ったという話がいくつも残っている。正に狩っている獣に逆襲されたという訳だ。
ナイトニア山脈の熊でさえ、聞くに堪えない痛ましい事件が起こっていると言うのに、どれ程の惨劇だった事か……リアルに考えるのは止しとこう。
そして、君らとてご存じだろうが、熊は冬眠する。
熊は冬には穴倉に引き篭もって眠って過ごす。普通は、冬に熊は出て来ない。秋に肥え太って、春までダイエットしないとお家の入り口に詰まっちゃうのさ、二進も三進も行かない。君らも一回くらいは、無理やり通した輪っかが取れなくなった覚えがあるだろ?入ったはずなのに何故か出せなくなる、不思議だよねえ。野生動物には石鹸がないからね、ダイエットするしかないって訳。
ならば、どうして冬に熊と出くわすかと言うと、それは冬眠し損ねた熊だからだ。眠れない程の寒さと飢えで、とても気が荒い。
夢を見損ねた理由は様々だろうが、一つ挙げるならば暖冬だ。
雪と付き合いの長い君らなら私が語る必要もないだろうが、冬には厳しい年もあれば生温い年もある。
暖かい冬の年は、熊の眠りも浅い。君らにとっての夏の寝苦しい夜のようなものかもな。眠たいのに寝られない、機嫌も悪くなるさ。
ポカポカ陽気で足元がソワソワするのは、熊に限らず、雪も同じ。温い冬は、雪崩が多いんだ。
この歌はおそらく、寝起きの悪い熊に襲われた村の話と、雪崩に飲み込まれた村の話が、混ざって伝わってしまった話ではないかと私は思う。もしくは……熊に襲われた後に雪崩に飲み込まれた村の話。
冬の冷酷で荒々しい一面を伝えているが、この話の着眼点は、何故、熊をチョイスしたのか、だ。
ストーリー上、別に熊である必要はない。大猪でも大鹿でも狼でも、何なら魔物でも構わない。でもこの話にはバリエーションが無いんだ。
冬の乙女の脅威だと言えるのは、雪崩だけ。何故熊になったのだろうか?──それはつまり、不幸に見舞われてた上にさらに……抗いようもない悲しい事故が起きたのではないかと、私は思うよ。
神には多くの姿形が存在する。人如きの目が映した姿が、本質を見抜いた正しいものだとは限らない。
冬の乙女の姿でさえ、時に慎ましやかな乙女、時には冷酷で艶かしい妖女、またある時は枯れ木のような老婆、そして大熊や大鹿などの獣。
夫に先立たれた寡婦とも伝えられている。うら若き乙女であったが、心を残して死の世界へ去った夫を思い続けて、苦労し年老いた貞淑な妻の姿をしていると。
そしてさらにもう一つ、腹が円やかな女性の姿。冬が身籠っているという話がある。
これが熊と冬の乙女の結びつきをより強めていると私は考える。
熊は、冬眠中に子を産み育てるのは知ってるかい?
餌も取らず穴の中で、母熊は1匹だけで出産と育児を熟すんだ。
ある歌は語る、冬の乙女は死の子を孕んでいると。冬の乙女に残された死の心とは何なのか?──彼女はそれを擁き抱えている、誰にも奪われないように大切に。
まるでそれは母が宿す子供を守っている姿のようではないか、とね。
ならば、何から守っているのか、誰に子を奪われるというのか?
もちろんその役目は死だ。
冬の乙女は、お腹の子を大切に慈しんでいる。
だが、欲しがりやの父親も、子の誕生を待ち構えている。
子が産まれれば、たちまち死はその子を自分の世界へと連れ去ってしまうだろう。
死の世界で孤独だった死は、攫った我が子を決して手離さない。
死は我が子を歓迎するが、不滅の冬は残され死の世界へは行くことが出来ない。
冬はそれが悲しくて、お腹の子の時間を停めて、ずっと内に留めている。
雄の熊は冬を超えた母子を襲い、子熊を殺してしまうんだ。何故そんな残酷な事が出来るのだろうか、私には理解しかねるね。
将来が人喰い熊であったとしても、無垢で非力な幼少期の生き物は、何を見ても可愛らしいと思うものだ。可愛いは正義だよ、尊さしか感じられない。子猫なんて、もう食べてしまいたいくらいに……うむ、熊の気持ちがわかったかも知れない。
君らも憎たらしい事さえ言わなけりゃ……いかんな、またしても熊の気持ちが理解できてる気がするぞ。
まあ、死は兎も角、私は誰にも何もしないから安心し給え。猫も齧らないから、そんな猟奇的な事しない。
熊の気性や生き様が、冬の荒々しい残酷さや逞しさと重ねられて、強烈に結びついたのではないかな。
冬が身籠っているとする話は、特に産婆や妊婦に好まれ、歌い継がれて広まった。
冬は胎の子を死に取られまいと大切に抱え込んで護っている。同じように妊婦や赤子は常に死の世界に近く、暖かくさせて守らなくてはならない。
また、夫を亡くした妊婦や夫となる人がいない妊婦は、冬のように悲しく寂しい思いをしているので、妹神達のように思い遣り励まして助け合おうという風習がある。
母を出産で亡くした子は、女神達が特に気にかけるとされて、最大の不運は去り、残りの人生は幸運に富み、乗り越えられない困難はないのだと言われている。
産まれた時に世界を違えるというのは、死産とも母体の死亡ともとれる。
歌は引き裂かれた母子を慰め、強引な死が母子を別つのであって、子や母親に非はないのだと伝えている。
出産は、多くの悦びだけでなく、そこには多くの艱難辛苦も存在する。
悦びの訪れなかった者へと、冬の乙女はそっと寄り添ってくれる。
嘆き暮れて停り滞る心を温めて、その先へと歩み出せるように。
地母神や豊穣神は、生まれた命に祝福を与えてくれる。そこから溢れ落ちてしまった命には、冬の乙女が慈しみと導きを与えてくれる。だから大丈夫なんだよ。
冬の乙女の凍り付いた心、それが動き出すと言う事は、腹の子がやがて産まれてくると言う事。
この世界と死の世界を結び、行き来することが出来る新たな神ではないかと。
新しいカレピではなく、生まれてくる子供こそが救世主だと。
もちろんただの女性は、孕んだ子の時を停める事など叶わない。
望むにしろ、望まないにしろ、その時は訪れるものだ。
多くの葛藤や不安に翻弄されていても、目の前に現れた子供は、自分が世話してやらなければ死んでしまう。
母になる、ならなければならない、と言う事だ。
乙女のままではいられないんだ。
冬も同じように、子が産まれて出会ってしまえば、停滞しうずくまっている訳にはいかない。
熊が春に母になっているように、冬もまた自分自身を乗り越えて母になる時が訪れる、そういう話だ。
さっき話したアウロラキス山脈は、強力な熱冷まし、特に初夏に流行る夏風邪に良く効く暁草の産地だ。
この薬草は、熊の足跡から生えるとも言われている。高い山にしか生えず、冬から春へと移り変わる気温差で開花する気難しい植物だ。
ナイトニアではこう呼ばれる──スモアオーロラと。
朦朧とする高熱から呼び覚ます夜明けだからとも、オーロラの夜のように体を冷やすから、とも言われている。
だが春の訪れの遅いナイトニアでは、冬の名残を惜しむ代名詞としてその名を呼ばれる──もう一度オーロラを、とね。
おやおや、キッシュの匂いに我慢の限界のようだね。
確かに良い匂いだ、冷める前に食べたい気持ちはよく分かる!
私ももう一切れ食べられそうだ。……頭痛に効くというのは本当だったのか?魔女の秘薬もびっくりだな、いやはや私も驚いた──え?時間的にそろそろ二日酔いが抜けただけ?いや……そんなことは……そんなことは……