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受給彼氏 ―恋愛生活保護法―

作者: 青井青

 日本国憲法第二十五条

 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。


 恋愛生活保護法

 第二十五条に規定する理念に基き、国が恋愛に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の恋愛生活を保障するとともに、その自立を助長するものとする。


 ◇


「7番の方――いらっしゃいますか?」


 市役所の窓口で呼ばれ、ソファに座っていた森川奈緒はおどおどした様子でカウンター前の椅子に座り、番号札を渡した。


 対面には首からIDカードをさげ、眼鏡をかけた30代半ばぐらいのケースワーカーの女性が座っていた。


「今日は恋愛生活保護の申請でよろしいでしょうか?」


 はい、と答え、奈緒は足元のデイパックからクリアファイルを出し、カウンターの上に置いた。


 女性が中の書類を手に取り、記載内容をチェックしていく。


「……34歳独身、18歳以降のパートナー不在期間は16年……現在、特定の彼氏や親しい男友達はおらず、異性を紹介してくれそうな家族、親戚、同性の友人もいない……申請の要件は満たしてますね」


 声に出されると恥ずかしいが、実際その通りだった。34年間の人生で、奈緒は一度も彼氏はおろか、男友達がいたこともない。


 しばらく書類を細かく見た後、ケースワーカーの女性が言った。


「書類上は特に問題ありません。これから二週間ほどかけて、申請内容を精査させていただきます」


 不正受給を防ぐため、恋愛生保の審査は厳しく行われると聞いた。クレジットカードの使用履歴、ことによっては自宅近くの監視カメラも使い、恋人がいないか確認されるという。


 審査の結果は郵送でお知らせします、と言った後、ケースワーカーは付け足すように続けた。


「恋愛生活保護は対象者の方の自立を支援する制度です。給付期間中は他の方との交際はできません。判明した時点で給付は中断されますので、くれぐれもご注意ください」


 それは知っていた。不正受給(こっそり別の異性と付き合っていないか)ではないか、ケースワーカーが抜き打ちで自宅を訪れることもあるらしい。


「よろしくお願いします」


 奈緒はカウンター越しに頭を下げ、デイパックを手に席から立ち上がった。


 ◇


 奈緒は駅前にある噴水の前に立っていた。週末の昼どき、空は晴れ渡り、辺りは若いカップルや家族連れでにぎわっている。


 市役所から審査に通過したという封書が届いたのは一週間前だった。その日、奈緒は一回目の〝恋愛給付日〟を迎えていた。


 広場の時計台の針が昼の12時を指したとき、向こうから若い男性がやって来た。奈緒の前で立ち止まる。


「はじめまして。森川奈緒さんですよね?」


「あ、はい」


 男性が上着のポケットからパスケースを出し、IDカードを見せる。


「成田和希といいます。××市役所の恋愛生活保護課から派遣されました。本日はよろしくお願いいたします」


「はい……よろしくお願いします……」


 ドキドキしながら奈緒は答えた。


 あまりにイケメンで驚いていた。180センチ近い長身、引き締まった身体に黒のテーラードジャケット羽織り、胸には清潔感のある白いカットソーがのぞき、長い足を細身のパンツが包んでいる。


(かっこよすぎ……本当にこの人が給付員なの?)


 恋愛生保は、国が〝最低限度〟の恋愛を国民に保証する制度だ。てっきり並みの容姿の男性が来ると思っていたので面食らった。


 成田が手を差し出してくる。


「手をつなぎましょうか? デートなんですから」


「あ、はい――」


 奈緒は服の裾で手汗を拭き、男の手を握った。大きくてがっしりした手だった。体格もいいし、スポーツでもやっているのかもしれない。


 駅前を歩くと、行き交う女性たちがチラチラとこちらを見てくる。モデルのような成田の容姿が目を引くのだろう。


(こんなにかっこい人が〝給付〟されるなら、もっと早く申し込めば良かった……)


 世間では恋愛生活保護は「恋愛ナマポ」などと呼ばれ、国が風俗まがいのことをやる必要があるのか、と風当たりも強かった。


(もとは少子化を解消するため、結婚適齢期の男女に恋愛経験を提供するために始まった制度なのに、申し込むハードルが高くなってるんだよね……)


 申請すると、周りに年頃の異性がいないのか、家族や親戚にも連絡がいくため、それを恥ずかしく思い、長年恋人がいなくても利用をためらう人も多い。


 押し黙る奈緒に成田が訊いてきた。


「どうかされましたか?」


「いえ、あの……私、男の人と外でこんな風に歩くのに慣れていなくて……というか、初めてで……」


 素直に告白すると、成田がにこりと笑った。


「リラックスしていきましょう。僕は今日、奈緒さんの彼氏ですから、そのつもりで楽しんでください」


 二人は成田に教えられたイタリアンレストランに行った。バルコニー席に案内され、ともにパスタセットを注文する。


 緊張する奈緒を気遣い、成田が会話をリードしてくれた。


「森川さん、お仕事は何をされてるんですか?」


「校正の仕事をしています。前は出版社で働いていたんですが、四年前、父が脳梗塞で倒れて……母は早くに亡くなっていたので、介護しやすいよう自宅でできる仕事をと思いまして……」


 他に兄妹もおらず、金銭の面でも介護の面でも、奈緒が一人で父の面倒をみてきた。正直、恋愛どころではなかった。


「それは大変でしたね……あの、プロの校正の仕事ってどういうものなんですか?」


「単純な誤植を拾うのもあるんですけど――」


 奈緒はテーブルの紙ナプキンを取り、バッグから出したペンで「押さえる」「抑える」と二つの言葉を書いた。


「たとえばこの〝押さえる〟という言葉、手足を押さえる場合は〝押さえる〟で、怒りや哀しみを抑える場合は〝抑える〟の漢字を使うんです。こういう類義語の使い分けもチェックします」


「へー、おもしろいなぁ」


 自宅で一人でする校正の仕事は孤独だ。興味をもたれることもないので、奈緒は素直にうれしかった。


「あの……成田さんはどういう仕事をされているんですか?」


 恋愛給付員は市役所の職員ではなく、嘱託(非常勤の公務員)として仕事を受けるとネットには書かれていた。


「僕ですか? 本業は売れない役者ですよ。舞台の仕事がないとき、この仕事をやらせてもらってます」


 役者と聞き、奈緒の目が輝いた。


「私、演劇が好きなんです! 大学生のときは小劇場に行ったりして――」


 思わぬ共通点を見つけ、奈緒は声を弾ませる。その後、二人は演劇の話で盛り上がった。


 イタリアンレストランを出た後、水族館に行き、喫茶店で再びおしゃべりをした。成田と一緒だと、時間があっという間に過ぎていった。


 夜の18時になり、恋愛給付が終了する時間になった。駅前での別れ際、奈緒は成田にお礼を述べた。


「今日はすごく楽しかったです」


「僕もです。奈緒さんといると時間を忘れますね。来月の支給日にまたお会いできるのを楽しみにしています」


 成田と別れ、奈緒は自宅に戻った。駅から徒歩25分のところにある、築35年の古びた一軒家だ。


 ただいま、も言わずにドアを開け、玄関で靴を脱いで暗い家の中に入る。奥の和室に介護用ベッドが置かれ、父親が眠っていた。仏壇には母親の遺影が飾ってある。


 サイドテーブルに置かれたヘルパーさんのメモに目を通し、奈緒はベッドのそばに寄った。


「お父さん、私、今日すっごくかっこいい人とデートしてきたんだよ」


 眠っている父親に語りかける。


 脳梗塞で倒れて四年目、父は徐々に自分でできることが減ってきている。いずれは専門的なケアを受けられる施設に入れなくてはらないが、それには大金がかかる。


 医学書や専門的な技術書ならともかく、一般書の校正費はそれほど高くない上、出版不況で出版社は校正費を削りにきていた。


 爪に火を灯すようなギリギリの生活の中、一度だけ恋愛というものを経験してみたくて、奈緒は恋愛生保に申し込んだのだった。


 ◇


 最初の恋愛給付から三ヶ月が経っていた。


 これまで奈緒は成田と三回デートをした。そのどれもが幸せな思い出で、今や毎月一回訪れる〝恋愛給付日〟だけが奈緒の生き甲斐になっていた。


 ある日、携帯にケースワーカーから電話がかかってきた。


『申し訳ありません。実は来月限りで給付を打ち切らせていただきたいのです』


「どうしてですか?」


 突然の通知に奈緒は戸惑った。


『森川さんは先週、××出版の編集者の男性と個人的にLINEのIDを交換し、プライベートなお話をされましたね?』


「あれは――」


 遮るようにケースワーカーは続ける。


『こちらの調査では、その男性と仕事とは関係のない好きな映画や小説の話をされています。それが異性との出会いと認定されました』


「そんな!……」


 LINEは仕事を円滑に進めるためだし、校正者である奈緒にとって編集者は発注元だ。相手との雑談に付き合うのは営業のようなものだ。


『……本当に申し訳ありません。最近、芸能人の親族の方が不正受給をしていたことがニュースになって、全国的に恋愛生活保護への風当たりが強くなってるんです』


 管轄の厚生労働省から、審査を厳格化するよう通知があったという。


「あの……給付を打ち切るのだけは勘弁していただけませんか?」


 毎月一回の給付だけを生き甲斐にしてきた。お金がなくても、親の介護がつらくても、成田の笑顔を思い出すだけでがんばろうと思えた。


『すでに決定したことですので……すいません』


 すでに予定が組まれている次回の給付をもって終了します、そうケースワーカーは告げ、電話は切れた。


 ◇


 その日、奈緒は成田と最後のデートをしていた。ランチを食べた後、遊園地に行き、観覧車に乗った。


 奈緒が改めて「ありがとうございました」とお礼を言った。


「……私、この歳まで生きるのに精いっぱいで、男の人と一緒にいる楽しさを何も知りませんでした。喫茶店で一緒にケーキを食べるのも、好きな本や映画の話をするのも、手をつないで歩くのも、ぜんぶがすごく新鮮で……なんていうか感動しました。大げさですかね?」


 照れ笑いをする奈緒に成田が言った。


「いえ、そこまで言ってもらえてうれしいです」


 上の決定とはいえ、給付が打ちきりになり、成田も心苦しそうだった。


「恋愛給付の条件は6年間特定のパートナーがいないことですよね? もし私がこの先6年、また彼氏がいなかったら二度目の給付を受けられるはずです。そのときはまた成田さんに担当してもらえますか?」


 自分はそのとき40歳になっている。


「僕が給付員をやっているかはわからないですし、誰が担当になるかは僕の一存で決められることではないので……」


 生真面目に返答する成田に、奈緒はくすっと笑った。


「冗談ですよ。私、そのときまでには必ず彼氏を見つけてみせますから」


「奈緒さんならきっといい人と出会えますよ」


 成田に励まされ、奈緒は目ににじんだ涙を隠すように、観覧車の外へ顔を向けた。


 18時、給付が終わる時刻になり、二人は駅の改札の前に立っていた。


「あの……最後に握手をしてもらっていいですか?」


 奈緒が手を差し出す。成田がその手を取り――ぐいっと女の身体を引き寄せ、抱きしめた。奈緒は瞼を閉じ、大きな背中に腕を回した。


 やがて身体を離し、おだやかに告げた。


「ありがとうございます。私、この思い出だけで、この先の人生を生きていける気がします」


 微笑む奈緒に、成田が複雑な顔をする。


 奈緒は深々と頭を下げ、改札に向かった。人混みに消えていく女の背中を、成田はじっと見守った。


 ◇


 仕事の打ち合わせで市役所に来た成田を、ケースワーカーの女性が笑顔で迎えた。


「成田君――あなた、受給者からの評判もいいわよ。この調子でがんばってね!」


「ありがとうございます。それであの……」


「どうかした?」


「三ヶ月ほど前に僕が給付を担当をした女性なんですけど……途中で給付が打ち切られた――」


「ああ、森川さんね。彼女がどうかした?」


「いえ、元気にやってらっしゃるのかなって……彼女、親御さんの介護なんかで大変そうでしたから」


「あのコ、彼氏ができたそうよ」


「あ、そうなんですか!」


 成田の顔がとたんに明るくなる。


「良かったです……ちょっと心配していたんです。給付が打ち切られたとき、彼女、なんだかすごく思い詰めた顔をしていたので……」


「優しいわね、成田君。でも一人一人の受給者にあまり深入りしすぎないようにね。で、次の給付の件で打ち合わせできる?」


「はい、大丈夫です」


「じゃあ、三階のいつもの会議室で待っててくれる? 私、一本だけメールを送ってから行くから」


 成田を見送った後、ケースワーカーは自分の席に戻った。机の上には上司に提出した森川奈緒に関する資料の写しが置かれていた。



受給者:森川奈緒(女性、34歳)


給付停止日:20××年×月×日


給付停止理由:異性交際を確認したため。


補足:自宅の定期借地権が切れ、地主より敷地の買い取りか立ち退きを求められる。折り悪く寝たきりの父親の容態が悪化。出版社より校正費の値下げを求められ、経済的に苦境に陥る。父親と無理心中をはかるも果たせず、本人のみが浴室で手首を切って死亡。自殺の理由は介護の負担増であり、本給付の打ち切りとの因果関係は認められない。


 

 ケースワーカーは資料に「済み」の赤い判を押し、机の引き出しに静かにしまった。


(完)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 最後が衝撃的でびっくりしました。 てっきりハッピーエンドかと、、 とてもおもしろかったです。 これからも楽しみにしてます。
[一言] 設定が活かされてないというかこの話しでそんな不現実的な設定にする必要性が感じられない。
[一言] 結末はまぁ、そうなるよね。問題の本質は違うし。実際国がやるならマッチングサービスじゃない?民間のサービスだと利益追求のためにどうしても歪むし。なんてね。
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