6.仕事
採用の判を押されたあと、キッチンを片付けるエスターの目を盗んでノアに呼び出された。
「あのね、ミタカくん。一応君には感謝しているし、俺は君の言うことを信じてるからね。あの子がまた頭を強打して帰ってきた日には俺の心臓が止まるから、よく見ててやってくれ。」
「それはもちろん。俺だってもうあんな思いしたくないですから。信用してくれるんですね。」
「手放しに信用したわけじゃない。でも、君は俺が今欲しているものを提示してきたからね、だから採用した。それに、無給で朝から晩まで雇って文句言わない人なんて他にいないからね。」
ノアの言いたいことは分かる。宿屋の業務なんて知らない俺が提供できるのは、目だけだ。足の悪いエスターの仕事を見守って手伝う。ノアはそれだけのために俺を採用したんだ。無給っていうのは聞いてないけど。
「まぁ無給は冗談だけど、労働は朝から晩まで頼むよ。」
ノアは俺の考えを見透かしたように、お前よく見てるな、と笑いながら語る。
ここに居て気がついたことがある。多分この宿で働いているのはノアとエスターの2人しかいない。
この宿屋は人の気配がしなかった。客室であろう2階に居ても、他から話し声や足音、扉の開閉音が聞こえないし、2階の廊下には荷物が置かれ、俺のいた隣の部屋は明らかにお客様用としては使われていなかった。この時点で人が足りないのだと思った。
そして、あちらこちらに置かれている靴や、椅子に掛けられた服などの私物は、成人男性のものと少女のものと思わしきサイズしかなかった。さっき2階の窓から見えた洗濯物も、父親と娘、見た人がそう連想するようなものしか干されていなかった。
そして、宿屋だというのに張り紙のようなものは一つも無かった。わざわざ紙を貼って知らせる相手がいないのだろう。
「それに、僕らに無下にされたら服すらない君は、今下手なことはできない。」
ノアは口だけでニヤッと笑う。この人はよく分かってる、敵に回したくない。
「俺、頑張ります。」
本当にその通りだ。ここでちゃんと仕事をしなければ待つのは森ENDだ。あの森で野宿するなんて考えたくもない。
「エスターさんにも恩返ししたいですから。」
そして、俺がエスターに感謝しているのは本当だ。昨日出会わずに眠ったままだったら、森が動いたときにそのまま死んでいたかもしれない。エスター命の恩人だと思う。
あっそ、と興味無さげな態度を取るノアは、俺を信用していないというスタンスのようだが、俺はこの人だって悪い人じゃないと思う。この宿屋が俺の予想通り本当に2人しかいないとすれば、昨日わざわざ俺を2階の部屋へ運んでくれたのはノアだ。外で倒れた見ず知らずの成人男性を、わざわざ2階まで引っ張り上げてくれたんだ。俺はこの人を信用できる人だと思っている。
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ノアとの話を終え、エスターに仕事を聞きに行く。宿屋でなんて働いたことないから何をさせられるのか少し不安だ。彼女ともあまり話ができていないから上手くコミュニケーションが取れればいいが……。
「私もどの仕事を任せたらいいのか、どうしたらいいか……。」
「なんでもやりますよ、俺、あんまり難しいことはちょっと、アレかもしれないですけど。」
「うーん、そうですねぇ。」
エスターと2人で頭を捻る。今までほとんど一人でやってきたのなら、突然人に何を任せていいか分からないのも当然だ。俺も、自分の仕事を自分で決めたことなんてない。
「じゃあ、まずは2階廊下の掃き掃除をお願いします。それが終わったら1階の廊下も掃いて、その後に窓拭きを。」
「もっと力仕事とかじゃなくていいんですか?」
「まぁ初日ですから、それに昨日のことでお疲れでしょう。」
箒を軽く振り回しながら意気揚々と階段を上がる。最初の仕事くらいしっかりこなさないと。でも、本当に簡単な仕事だな、もっと屋根の掃除とかエスターには難しいことを任されるのかと思っていたから拍子抜けだ。
鼻歌を歌いながら廊下を端から端までしっかりと掃除する。こんな穏やかな生活があっていいのかと思う。晴れの日の朝に箒を持って心穏やかに掃除だけしてるなんて、やっぱり夢なんじゃないのか。
決して長くは無い廊下の掃除はすぐに終わってしまい、窓枠に手を掛けて外を眺める。すると、すぐ下を木箱を抱えてよろよろと歩くエスターと目が合った。そのままニコっと笑ってそのまま歩き出すが、足取りは覚束ない。何やってんのあの子、昨日あんなことがあったのに危ないだろう、もし落としたらどうするんだ。頭を打ったダメージは後から来るかもしれないんだぞ!
ガシャンガシャンと音を立てている木箱の中に何が入っているのか知らないが、見るからに危険だ。あまりにも覚束ない足取りに我慢できず、箒を投げ出して階段を駆け下りる。
外へ繋がる扉を開いたところで、扉の向こう側に居たエスターが見える。
「エスター!」
地面に木箱を置こうと、前傾姿勢で右足を出したエスターは、自身の体重を支えきれずにバランスを崩す。
「ミタカさ?うわわああっ!」
箱にを持ったままつんのめったエスターの頭が、鳩尾にクリーンヒットする。
「ぐえっ」
息ができない。酸素が入ってこない。し、死ぬ。
「ミタカさん!ごごごごめんなさい!!大丈夫ですか?!」
「う……おぁ……」
痛いとかそんなことより息ができない。苦しい。
「エ゛ズダーざん……、あの、やっぱりそういうの任せてくださいよ……。」
「あえっ、初日からこんな仕事はちょっとと思ったんですけど……。」
「いいんですよ、そのために採用されたんだから。怪我はないですか?」
「ありがとうございます……。すみません……。」
俺に乗り上げていたエスターにどいてもらい、鳩尾を押さえながら起き上がる。箱の中身に目をやるとそれは食器だった。そんなに量は入っていないし、奇跡的に割れていなかったがもし一人でこの箱と共に転んでいたら本当に危なかった。エスターは申し訳なさそう小さくなって自分の足元を見つめている。
「本当にごめんなさい。次からは無理はしません。」
「俺もその方が嬉しいです。」
エスターは食器を片付けたあと、溜まった力仕事を少しずつ頼んできてくれた。食器を運んだり、食材を運んだり、正直結構しんどかったが、俺が運んでいるのを見ているだけのエスターの方が微妙な顔をしていた。負の感情は表に出さないようにしているようだが、明らかに元気が無い。
見ているだけだと、歯がゆい気持ちになるのは分かる。でも、エスターの指示は分かりやすいし、そっちの方が向いている気もするからそれに気づいてくれるといいけど……。
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力仕事をしているうちに日が傾いてきた。外に灯りらしき灯りはないので、そこで仕事は終わりということになった。
気がつかないうちに留守にしていたノアが帰ってきた。朝と同じように3人で食事をとる。薄暗い部屋がランプで照らし出されて、まるで海外映画の中にいるみたいだ。
「また無理しただろう、お前。」
元気のないエスターをじっと見つめていたノアが、咎めるように呟く。
「ごめんなさい、つい……。」
「自分で出来ないことくらい分かるだろう。」
「はい……でも今日一日で私よく分かりました。気を使ったつもりが、逆に周りに迷惑を掛けることがあるって。格好つけて、普段おじ様がやってる仕事までやろうとするなんて、自分のことしか考えられていませんでした。ミタカさんの提案通り最初から頼めば良かった。」
そして、エスターが過去にノアが雇った人間に初日から仕事を与え過ぎて、すぐにいなくなってしまったことを教えてくれた。話を聞く限り、エスターはきっとはりきり過ぎてしまったんだろう。
だから、俺には気を使って普段の自分の仕事を振り分けて、自分はノアの仕事をやろうなんて思ってしまったんだ。
俺はエスターに恩を返したいのだから、もっと大変な仕事を振ってくれていい。次からは、もっとそれが伝わるように主張しよう。俺がいるせいで怪我をして欲しくない。
「ああでも、明日は買い出しですから今日の仕事はお休みです。ゆっくり休んでくださいね。」
「そうだな、一緒に行ってきな。」
二人のその言葉に少し胸が躍った。
買い出し、つまり人がいるところへ行くらしい。ここへ来てからノアとエスターの2人にしか会っていないからどんな人がいるのか、少し、楽しみだ。