5.宿屋
少女エスターから異世界なんてとんでもない現実を叩きつけられたあと、俺は諦めて今聞きたいことを全部聞くことにした。俺の頭がおかしくなったのか、俺以外がおかしいのか、判断できないんだから一人で考え込むのは無駄だ。
「ていうか本当に体は大丈夫ですか?昨日思いっきり頭打ちましたよね。それにあの後昨日は何がどうなったんですか?」
「落ち着いてください。私のおじ様はお医者様でもありますので、診ていただきました。もう大丈夫です!おじ様を今呼んで来ますので一緒に朝食を食べながらお話しましょう!」
大事は無いようで本当に良かった。生きていてくれるだけで嬉しい、あんなに頑張って運んだから。
少女はスカートを翻して部屋を駆け出していった。扉の外からたったたったという足音が聞こえる。家の中では杖は使っていないみたいだが、エスターは昨日と同じように右足を引きずっていた。もしかしたら先天的に足が人より不自由なのかもしれない。昨日はあまり気にしている余裕も時間もなかったが、わざわざ杖を持ってあんな夜に彼女は森で何をしていたんだろう。
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窓の外に見える洗濯物がはためいているのを眺めていると、部屋の扉がノックされた。
「どうぞ。」
ベッドから立ち上がって声をかける。
開いた扉から40代くらいの茶髪にメガネの男性が顔を覗かせる。その姿を見て落胆する。どう見ても現代日本人のおじさんの服装ではない。正直、スーツか作業着にネクタイみたいなおっちゃんが入ってくるのを期待していた。それを見たらここがいつもと同じ世界である希望が持てたのに、やっぱりここは日本じゃない。
「おはようございます~。ごめんなさいね、寝坊しちゃって。」
全く悪いと思っていなさそうな薄ら笑いを浮かべながら、少女と共に部屋へと入ってくる。まるで初対面とは思えない馴れ馴れしさに、若干の苦手意識を覚えたが、そこはぐっと堪える。
「昨日はエスターを運んでくれてありがとね、ほんと。」
「いいえ、こちらこそ助けていただきました。初めまして、すみません。お聞きしたいことがいくつかあって。」
「いいよ。じゃあまず朝メシ食べよう。」
名乗りもせず食い気味な態度の俺に、内容も聞かず男性は即答すると、いやー生きててよかったなぁと言いながら俺の背中をバシバシ叩き、部屋からの退出を促した。
廊下に出てみると、掃除用具や靴などが置かれている。どうやら2階は客室としては今使われていないようだ。
「エスターは俺の後ろな。」
「はいっ」
階段を降りるときに、少女と男性の間でそんなやり取りが行われ、少女は階段の手すりを掴みながら慎重に階段を降りる。軽薄そうに見えた男性だが、少女のことを気にかけていることはよく分かった。男性は体を半分後ろへ向けた状態で、雑談をしながらゆっくりと階段を降りる。
「そういえばお兄さん名前は?」
「ミタカと申します。」
「よろしく。俺はノア。」
ノアが廊下の1階廊下の突き当たりの扉を開くと、机やソファなどがいくつか並べられた談話室のようになっていた。大きなホテルのロビーを木造にしたら、この部屋に近くなるだろうか。実際入り口と思われる少し大きな両開きの扉がある。
「では今朝食をご用意しますから、ミタカさんはそこへお掛けになってお待ちくださいね。」
明らかにはしゃいでいる様子のエスターは、ノアの腕を引っ張って、入ってきた扉の外へ戻って行った。一人でこんなところに取り残されてしまうと、友達の家に一人で放っておかれるような居場所のなさを感じる。
木造の窓から朝の光が差し込んでいる。それを見ていると、自分がこんなところであんなファンタジーみたいな人達を待っているのはあまりに不相応な気がしてくる。
座っていろといわれてもそわそわしてしまい、椅子から立ち上がり部屋の中をうろうろと歩き回る。部屋のにはカウンターのようなものの上に名前のらしきものが書かれた紙束や、インクとペンが置かれている。インクにつけて使うタイプのペンなんてほとんど使ったことが無い。これを日常的に使っているのか……なんて考えていると、エスター達が戻ってくる。いつもは何かを考える暇なんてないはずの5分が、とても長く感じた。
「お待たせしました~~~さぁどうぞ座ってください。」
お盆に料理とお皿などを乗せて現れたエスターは、なぜかやつれていた。
「いやぁ~ほんと俺なんも出来ないからさ」
ノアがへらへらと笑いながら肩を揺らす。
「おじ様はもうお皿を触らないでください……」
エスターが料理をテーブルに並べながら、キュッと目を瞑って眉を八の字にする。宿屋と言っていたけどオーナーがこんな様子で、どうやって経営してるんだろう……。
見たことある食べ物と見たことない食べ物が混在する料理を食べながら、まるで夢の中にいるようだと考える。正直、以前に飛んできた人がいるという前情報がなければ、知らない土地でいきなり料理なんて食べられなかったかもしれない。
「ミタカさん、それでおじ様にお聞きになりたいことは何でしょうか?」
食事を勧めながらどのタイミングで話しを切り出そうか考えあぐねていると、エスターが唐突に話を切り出してくれた。
ありがとうエスター、とチラッとエスターに目配せすると、それにニコっと笑って答えてくれる。親切な人だ……。
「ええと、じゃあまずここは日本じゃなくて、なんなら世界もまるごと違って、そこに俺が飛ばされてきたって……」
「エスターがそう言っただろ?それで合ってるよ。」
「でもそれなら言葉が通じるのはおかしいと…」
「飛んできた人は皆そう言う。この世界には”言語“という概念しかないらしい。言語か、言語以外か、それだけだ。言葉は神が作ったものだからな。」
「そんな無茶苦茶な。大体俺は池で溺れて、気づいたらここにいたんです。本当は俺の頭がおかしくなっただけであなたは医者なんじゃないんですか?」
「池が繋がってたんだろ、ここに。それに俺は医者じゃない、医者じゃないけど、俺はお前の頭はおかしくないと思うね。」
ここは異世界であるなんてことをただひたすら、淡々と並べられる。その度に、やりかけの仕事から部屋に積んであるゲーム、池の淵に置いてきてしまったカバンとコートまで、気になるものはどんどん増え続けて脳を侵略してくる。まだ目覚めてから1時間も経っていないはずなのに、もう数ヶ月帰っていないような感覚だ。
「じゃ、じゃあ、どうやったら帰れるんですか。」
「知らない。飛んで行った人はほとんど戻ってこないから。俺は今まで生きてきて、飛んできた人とここから飛んで行った人には会ったことがある。だけど一度他へ飛んでここへ帰ってきた人には会ったことない。」
「えっ」
その事実に思わず気の抜けた声が出る。帰り方が分からない?ここへ帰ってくる人がいないということはつまり、俺も自分の世界へ戻れないのではないか?
帰れない。
毎日仕事をしながらうわ言のように呟いていた言葉がまた俺を支配してくる。だけど、まさか家どころか日本へ帰れない日が来るなんて思ってもみなかった。
「…ミタカさんはこれからどうなさるか、考えていらっしゃいますか?」」
ついさっきまでのはしゃぎっぷりが嘘のように静かに話を聞いていたエスターは、食事を口に運ぶ手を止めて、神妙な面持ちでじっとこちらの目を見つめてくる
これから?これからって何だ。
元の世界には帰れなくて、服すら無い俺はこれからどうすればいいんだ。
エスターは久しぶりのお客様と言っていたが、俺は金も1円だって持っていない。金どころか知り合いだって一人もいない。それに、あの森で丸腰で寝るなんて、今度こそ本当に死んでしまう!
ネガティブな思考だけが頭の中でぐるぐると渦巻く。眉間に皺が寄り、目がギラギラと光る。何としてでも今日の宿くらいは確保しなければ。
「特にないのならーーーー」
「こっここで!仕事のお手伝いさせてもらえませんか?」
エスターが何か言いかけたが、それを遮るように言葉を発する。
「突然何言ってんのお前。」
ノアからの当然のツッコミは無かったことにする。俺はここで絶対採用されなきゃ野宿なんだ。虫は絶対に嫌だ。俺はサバイバルできるほど強くない。では今ここで何を言うべきか?
「ノアさん!俺、エスターさんにお礼がしたいんです!飛んできたのが本当でも夢でも、エスターさんがいなかったら俺死んでました。料理も洗濯も出来ないですけど、2階でも階段でも窓の外側でも掃除しますし、朝から夜までここにいられます!それに、上から物が落ちてきたりしても丈夫なんで全然大丈夫ですよ!」
一気にまくし立てた俺に、ノアは俺の言葉に一瞬眉を顰める。そして、俺の目を見つめたあと、エスターの方へ顔を向ける。
「お前はどう思う。」
「私は……」
「私は、採用しても良いと思います。ミタカさんは私が助けたとおっしゃっていますが、ミタカさんが助けてくださったおかげで私は森から帰ってくることが出来たんです。私はこの方が悪い方だとは思いません。」
俺を援護してくるエスターに、ノアは一瞬うーんと考えたあと、
「採用。」
あっさり採用を告げた。
「おじ様が採用するなんて!」
エスターは口に手を当てて目を見開く。採用されないと思いながら援護してくれたのか。
良かったですね!と自分のことのように喜んでくれるエスターに、
「それに俺、他に働く人を増やすならお手伝い出来ることがあるかもしれないです。そういうの、前やってたので……」
と付け加える。俺は人を見る目だけはあるはずだ。多分。きっと。