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1.公園

「お疲れ様ですっ!」


 小鳥のような可愛らしい声が朝の澄んだ空気に響く。


「お疲れ様」


 そう返しながら振り返るとそこには、朝陽に透ける柔らかな髪を、ふわふわと揺らして笑う少女がいる。朝から大量の野菜を運ぶのも大変だったけど、少女の煌めくような笑顔を見ているだけで、朝の仕事の疲れがなくなっていく気さえする。


「朝ごはん?」

「はい、朝食ができたので呼びに参りました!」

「じゃあ、戻ろうかな」


 両手で抱えていた野菜がたくさん入った木箱を、うず高く積まれた木箱の側へ置き、裏口の扉を開け少女に中に入るように促す。


「朝から力仕事お疲れ様です。私もお手伝い出来たら良かったんですけど……。」

「ありがと~。でもやっぱ俺も料理とか下手だからさ。」


 明るい廊下を歩きながら、少女は申し訳なさそうに眉を下げて微笑む。


「そっそれよりですね!今日は上手に野菜が切れたんですよ!」

「ミタカさんが喜んでくれるかな〜と思って!頑張っちゃいました。えへへ……。」


 一瞬沈んだ空気を察して少女は手で野菜を切る真似をしながら言う。

少女はちょっと照れたように首を傾げてニヤニヤしている。

かわいい


「どうかしました?」

「かっ……エスターは器用だからなぁ。」


 笑顔で一瞬固まった俺の顔を、下から覗き込んで来る。心の声が漏れそうになりながらも、平静を装う。エスターは本当に可愛らしい、愛らしい。


 エスター出会えたのは本当に幸運だった。この人生の全ての運を全部使い切ったと思う。





 今はこうして当たり前のようにここで働いているけど、俺は元々この世界の人間じゃない。

 エスターが言うところによると、俺は隣の世界から飛ばされてきたらしい。

 なんでも、無数に存在する世界は横に繋がっていて、何かの拍子にそこから人や物が飛ばされてくる。そして、今居るこの世界からも飛んでいってしまう人がいるらしい。隣の世界へ飛ばされるなんて、未だに全ては信じられていない。


 でも、俺が飛ばされてきた世界がここで良かった。生まれた時から平和に包まれて来た俺が、もし戦争やら紛争やらが起こっているような世界に飛ばされていたら、きっともう死んでいたと思う。

 俺は現代日本ではサラリーマンをだった。極めて平々凡々なサラリーマンだ。飛ばされてきた日も、次の日の準備の為に遅くまで残業していたし、過重労働で死ぬほど疲れていた。そのせいでここに飛ばされて来たといっても過言ではない。


-


 ここへ飛ばされて来た日、俺は終電を逃し井の頭公園のベンチで項垂れていた。



「明日は忙しいのに……帰れないとか……」


 鬱だ。大体今からタクシーで帰ったって大した時間眠れないだろう。昨日だって徹夜だったのに、人事部なんてロクなもんじゃない。人を面接したりするのは好きとか、得意とか喜んでた頃の俺を返してくれ。半年前に買ったゲームも開封すらできてないし、もうこの仕事やめようかな…。


 そんな鬱々したことを考えていると仕事用の携帯に通知が入る。深夜の公園に着信音が響き渡る。通知欄に表示された名前を見て大きく舌打ちする。あのクソ上司!今何時だと思ってんだ!!!

 通知に答えることなく、怒りの勢いでそのまま携帯の電源を切る。過労死とクビだったらクビの方がマシだ!!!!!


「あ〜!!もうどうにでもな〜〜〜


  ベンチから立ち上がり、携帯をおおきく振りかぶる。


「っれ!」


 腕がしなり、携帯が指先から離れたところで正気が戻って来る。


ぽちゃん。


 携帯は月が輝く夜空に、綺麗な弧を描いて池の真ん中へ落ちた。


「あああああああ!」


 やべえええええ!今完全に正気を失ってた!!ついにやってしまった!!今すぐ拾えば間に合うか?!


 着ていたコートとカバンをその場に投げ捨て、目の前の柵を乗り越え池の中へ入る。足首に水が触れた瞬間、あまりの水の冷たさに甲高い声が出る。

 過労と寝不足でアドレナリンが出ているからか、痛いくらい冷たい水の中へ躊躇無く入ることができた。だけどまだ2月なんだ、このまま水の中に居たら凍死してしまう。早く拾わないと…!あのクソハゲ上司に朝から文句言われるのは面倒くさい…!!


「誰だよ馬鹿みたいに振りかぶったやつ!」


 30秒前の自分に文句言いながら、凍てつく池の中を進む。絡みつく泥に足を取られながらも、池の中をゆっくりと前傾姿勢で水を掻き分ける。寒さに震える手を伸ばし、携帯が落ちたのはこの辺りか…?と一歩前に足を踏みだすと、その先に足場はなかった。


「うわぁっ!」


  一歩後ろへ戻ろうと体をよじるが、前のめりになっている体はそう簡単には戻らない。そのまま、足場のない暗闇へバシャン!と音を立てて体ごと落ちる。まるで全身に重りをつけているように動けない。上着くらい脱いで来るんだった。


 一度水に浸かってしまうと、小さな子どもが溺れる時のように音もなく頭のてっぺんまで水に沈む。顔に刺すようなに痛い、痛い。少しでも水面を目指して手足をばたつかせるが、どういうわけか体は沈んでいく。


「ごぼっ…ぐぼっ…」


 水が上から圧し掛かってくる。押しつぶされるように肺から息が押し出される。全然いくらもがいても足は水底に着かない。ふと頭上を見上げると、自分の知っている池の大きさからしてはあり得ないくらい遠くに、水面のキラキラとした光が見えた。明らかに10m以上沈んでいる。


「ごぼ…」


 思わず暴れるのをやめた。


 やべぇ…俺ここで死ぬのかな…。一応まだ死にたくなかったんだけどな…。疲れた社畜の入水自殺とか最悪だよ。色々なものが頭の中を駆け巡る。たかが携帯のために俺は死ぬのか。


 意識が遠のきかけた瞬間、ザリッと足先に何かが触れるのを感じる。


「っ!」


 最後の力を振り絞って地面を蹴る。浮上する力を手に入れた体を必死に動かし、水面へ顔を出す。


「ぶはっ」


 本当に死ぬかと思った。陸に放り出された魚のように口がパクパクとしながら酸素を求めていると足がついた。ただ足が着くことがこんなに安心するとは思わなかった。


「はぁ……はぁ……」


 なんだか水が温かいように感じる。肩で息をしながら水を押し退け、一番近くの池の淵に上半身を預ける。


「…?」


 酸素の供給を受けた脳が少し冷静になる。何かおかしい。足が全くつかなくて溺れてたのに、今池の中を歩いて来なかったか?この池にそんな深い場所はなかったはずだ。10m、20mの深さなんてありえない。


「ていうか携帯…」


 あんな深さに沈んだのでは見つけるのは困難だろう。大きくため息をつく。またあのクソボンクラ上司に朝から文句言われるのか…。クビのがマシだとあの時は思っていたが、こうなると何のやる気も起きない。もう明日から出勤しなくていいか。そんな投げやりな考えになる。死に掛けてまで取りにいくものじゃなかった。


 とりあえず池の周辺を歩く、歩く。井の頭公園の池は決して小さくなかったが、こんなにバカデカくもなかった。池っていうよりもはや湖みたいな……。脳が深く考えてはいけないと警告を鳴らす。何か、非日常的なものに足を踏み入れてはいないか?

 ただ歩き続けるのも疲れて、その場に座り込みここは一体どこなんだと、水と泥で悲惨なことになっている革靴を見つめる。靴、買い替えなきゃなぁ……。

 月明かりがあるからまだ歩くことが出来るが、これでもし雲が出てきたら……そう思っただけで身震いする。2月にずぶ濡れで朝まで外にいたら流石に死んでしまうだろう。不思議と凍えるような寒さを感じないのは、もう既に死にかけているからだろうか。


 溜まりに溜まった疲労と溺れて死にかけたことで何も考えられなくなり、池の側で仰向けに寝転がって大の字でまどろんでいると、少し震えたような可愛らしい少女の声が聞こえた。

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