現実世界でラノベが読めないから、異世界に行ったけど、なんか文句ある?
期末考査もあり、暫く部活動は休みとなっていた。どちらにしても両手の指が治らないことにはキーボードも打てなかったのだから、同じ事だった。
あの雨の日からずっと、桐生先輩の部屋には行っていない。もうひと月ほどになるだろうか。
今まで木ノ下、小山田に黙っていたことの後ろめたさを、今更ながら実感してしまったというのもあるが、何よりラノベは俺にはもう必要のないものなのだと悟ったのだ。
さらばファンタジー。そしてさらばSF、さらばフィクション、さらばコメディ、さらばエロ本。俺は現実に生きることを決めた。
今が、今こそが現実なのだ。
“女子はにっこり笑ってスカートの中身を見せてくれるものではない”
いままでありがとう、桐生先輩。
“素直になれない女には理由がある。クローディアによろしくな”
ああ、誰だか解らんが了解したぞ、三条。
“現実のほうがリアルで現実的だったんだよ”
確かにお前の言った通りだ、殴ってすまなかった、木ノ下。
“美味しいですよ、国重君もいただいてはどうですか”
ありがとう、俺もいただくよ、白鳥。
“いつも俺のことを変態だと罵りやがって!”
小山田、お前は変態だ。
みんな、みんな、ありがとう!
廊下の窓から覗く夏の校庭は、試験明けから早速、すがすがしい汗を青春という季節に振りまく、いかにも学生然としたラグビー部達の歓声によって彩られていた。
チームワーク。それは皆が協力し、たった一つのボールをゴールへ導く青春群像劇。
俺達は君たちのようにチームワークで賞を取ることは出来ないが、一人一人を信頼し認め合うという部分では同じだ。誰も信頼できないままではパスは出せないだろう。
一人のために皆が支える。皆のために一人ずつが支える。一人の思いを理解する、共有する。良い部分優れた部分を引き出し合い、称え合う。仲間は、気づかなかった自分の可能性をたぐり寄せるきっかけを作ってくれることもある。それだけじゃない。ミスを指摘し合うのも大事なことだ。巡り巡ってすべてが自分たちの力になる。
学校に様々な人種がひしめくのは、ここが社会の縮図であるからに他ならない。俺達はここで人を学び、人間関係を学び、自分を成長させ、目標を見据え社会に出るのだ。
校庭でボールを追いかけるのも、図書準備室でキーボードを打つのも、同じ事だ。
俺達は発展途上人なのだ。人を知るためにここに居る。人を知るためにもがき苦しみ喘ぐ。人を知るために怒り悲しみ恋をする。
人は素晴らしい。この世界は素晴らしい。
き、桐生……幸子。さ……さっちん……!
心のなかで君の名を呼んでみただけなのに、どくんどくんと密度の高い血液が心の臓を打つ。じわじわと蝉の声を遠くに聴きながら、汗を拭う。窓に映った俺の顔はどこかしら爽やかに見えた。
明日から試験休み、終業式が終われば高校最後の夏休みが訪れる。“彼女がいる夏休み”という目眩く彩りに満ちた世界が始まる。山に海に、プールに夏祭りに、そして……そして……! 俺は、まるで接地感のない脚を運びながら、久方ぶりに文芸部の部室へと向かった。
ところが部室の前は、俺の心中とは裏腹に、不穏な空気に支配されていた。どうしたことか、部室から一年生部員が不安な顔をしてぞろぞろとなだれ出てきた。
「どうした、何事だ」俺は一人の一年生男子部員を掴まえて事の次第を問いただす。
「ら……らの……」
「らの? なんだ?」
「うちの部にラノ……べが……」
「はっきりいえ!」
まるでラノベという言葉を発することすら、禁忌に触れる業悪だとでもいうように、一年生部員は怯えていた。俺は彼を掴んでいた手を放し、入口付近に屯する部員をかき分け部室内に踏み入った。
眼前に飛び込んできたのはたっぷりとした肉質をたたえるタイトスカートの臀部、吉原美奈子の完全無欠ボディスーツで造形した、張りのいいヒップラインだった。
「コレを部室に持ち込んだのは誰かしら。正直に言えば今回は咎める事はしないわ」
吉原美奈子が顔の横に掲げているA6版の文庫本、チラチラと見えるカラフルなフォントの背表紙、まさしくラノベ……ライトノベルだ。
しかもあれは、十八年に渡る大長編ファンタジー小説。二年ぶりの発売で、今年にはいってさらに全巻増刷、感謝御礼中の『ゲライモ』の最新刊だ。さらにはつい最近、満を持して劇場アニメ化するという制作発表があったばかりだ。
本来ローティーンからハイティーン向けの、軽いタッチの文学作品を指してライトノベルと呼んだのだのがラノベの始まりであり、その黎明期はけしてアニメ化を前提としたものではなかった。だが、ラノベ全般が扱う、とりわけ若者たちが興味を示す、恋愛やSF、幻想世界、コメディや冒険もの、それらが自然調和的に、実写映画ではなくアニメや漫画の原作となり、またヒットしたアニメ作品がノベライズ化するなどして、双方は互いに表裏の双璧を成して成長し続けてきた。
いつでもそれらを主に支えてきたのは、漫画やアニメ、ラノベに関心を寄せるボーイズ&ガールズであり、その原動力が互いの業界を安泰とさせていた。
しかし、ファンタジー規制により、番組視聴率、書籍の売り上げ共に激減した。
それまでは書けば売れるとばかりに、意気揚々とラノベを執筆していたプロのラノベ書き達は、規制に抵触し有害図書認定を受け、ティーンの読者層を逓減させることを恐れるあまり、無意識にラノベ的演出、ラノベ的表現手段を自ら封印し、テーマを絞り、メッセージ性を強め、キャラクター性を排除、ストーリー性を重視し、ラノベ枠を脱しようとした。
その結果、この二年間で多くのラノベ作家が自らの不器用さと、実力の無さを思い知り、失意の中で筆を折り、文壇から姿を消していった。
無論ラノベ作家、あるいは漫画家を目指すという若年層も激減し、業界は新たなる才能の発掘が遅れ、急成長を遂げてきた右肩上がりの曲線も、ついに失速した。
しかし、その急激な引き潮へ楔を打ち込むかのように、突然二年間の沈黙を破り新刊を発売したのが、伝説的ライトノベルの『現実世界でラノベが読めないから、異世界に行ったけど、なんか文句ある?』だ。
十八年前当初、作者である『暗黒便所』はアマチュア作家で、ウェブ小説サイトが発端だった。だから作者が一人であるなら、もうずいぶんな年齢になっているはずだ。そして最初にこのペンネームを使ったことを、とても悔いていると思う。
実は先任顧問の松田元先生も、当時自作の小説を同じウェブ小説サイトで発表していたのだそうだ。何度も聞いた彼の唯一の自慢が“暗黒便所と同期”である。彼は「才能のない俺はゲライモのすごさに圧倒され、潔く筆を折って教師の道に進んだのだ」と、自らの人生の選択を軽業師のごときやってのけたと遠回しに自慢していたが、その後退職してフリーターになったのだから、何をかいわんやである。
結局蓋を開けてみれば彼の人生はラノベによっていいように振り回されてきたということになる。つまり、ラノベは人生を狂わせる、と行政府の主張するがままを地で行った大人の一人といえる。
それはともかく、
当初のゲライモは発表からわずか一ヶ月、あれよあれよという間にウェブ小説サイトでランキング上位に頭角を現し、三ヶ月後には五年に渡り首位を独占してきた作品を追い越して、一位の座に輝いた。実力は本物、これぞラノベ、これぞ我々が待ち望んでいたものだ、と出版社からも絶大なる賞賛を受け、半年後には小説大賞受賞を待つことなく出版社のオファーを受け書籍化された。
紙媒体の創作物など消えゆく運命と囁かれた時代において、一冊のラノベが社会を動かすほどに騒がれた。青少年の間では異世界転生をしようと、自殺未遂すら起きた事があるそうだ。
この世紀の大ヒットはラノベブームを巻き起こし、様々な異世界転生ジャンルの作品が生まれていった。それと同時に消えてもいった。その過程で松田・アンタッチャブル・元先生のような、由緒正しいどうしようもないオタクのおっさんが、うたかたのように量産されていったのだ。
ニートを肯定化し、現社会を拒絶せよと。
働いたら負け、自ら軛に繋がれ社畜になるなかれ、荒野に発つ孤高の勇者となれ、と鼓舞し。視野など広く持つな、自身らのぺらい世界を最上の物とし、三次元に存在する全てを傀儡と見ろと諭す。技術や経験など不要、自らのイマジネーションが縮小すると警鐘を鳴らし。セックスなどするな、魔法使いになれないぞと脅し。結婚などするな、搾取され奴隷に成り下がりたいのかと詰問し。死を恐れるな長生きなどするものではない、いつか異世界に転生する時を待つがよい、と啓蒙する。
全てはこのゲライモが引き起こしたのだ。またはゲライモに触発されて描かれていった全てのファンタジー小説が日本を、世界を、青少年らをダメにした。
そのように現行政府は判断した。
若者をこの様な書籍に触れさせるべきではない、と。
初刊から十八年。全てのオタクのバイブルとも云われ、またその反社会性故に閣僚の一部から、禁書にすべしとの提言があるほどの第一級書物である。
俺達が、原罪的中二病罹患者ならば、ゲライモは『原罪』そのもの。すなわち神の意志と称して相応しい。
俺は背を向けた女教師が掲げるラノベを憎々しく見つめて、拳を握ることしかできない。
今の俺はファンタジー路線を捨てたとはいえ、ゲライモは俺の原点だ。吉原美奈子、それをどうしようというのだ。
次の瞬間、その美麗なイラストが表紙に描かれた書籍は、彼女の手からするりと滑り落ちて、埃をわずかに舞わせてぱたんと足元の床に伏せた。
そうして彼女、吉原・Of・The・アルティメットデヴィル・美奈子はいう。
「さあ、一人ずつこの穢れた本を踏みなさい。あなた方が本当に我が文芸部部員であるならば、躊躇なく踏めるはずよ」と。
窓際におののき身を引いていた木ノ下の口は明らかに、この悪魔め、と声に出さずに詰っていた。
吉原美奈子はゆっくりと、一年生部員を従えるように立っている俺のことを振り向き、「国重君も……」と厭らしく片方の口角を上げる。
一年生部員は一列に並び、彼女の指図通り次々と"ゲライモ"を踏みつけてゆく。多くの者たちは躊躇していたが、美奈子の怪しい微笑みの前では抗うことが出来ない。
なんて酷いことをさせるんだ。ここに居る者たちは皆、本を愛する者達だ。それが辞書だろうがエロ本だろうが、本を足蹴にし、まして踏みつけるなどという行為を強要されて躊躇しないわけがない。
一年生の次は二年の桐生、白鳥、そして三年の俺たちだ。
美奈子女史の眼がより一層ギラリと光る。大方三年生の俺たち、三人の誰かが持ち込んだのだろうと、あたりをつけてこんなことをさせていることは判っている。俺たちには踏めないだろうと。
一年生部員は戸惑い狼狽えながら、それでも現況から逃れたい一心で、義を犯し本を踏みつけるなどという行為に及んだ自身を詰ると同時に、強権をもってこのような行為へと至らしめる吉原美奈子を憎みはするだろう。彼女はそれを承知していると見える。
だが、そもそも禁止されている書籍を所持し、あまつさえ神聖な部室へと持ち込んだ原罪人こそが、部員たちから弾劾されるべき者だ。平和な世界の秩序を乱す者であると、文芸界の敵であると、その者を排除すべしと高らかに声を上げることで、憎悪の波は一気に、原罪的中二病罹患者へと向かうであろう。
長らく同じ二次元媒体の漫画やアニメに蹂躙されてきた文芸界であったが、白鳥の活躍のおかげで我が部の再興も、そして全国の青少年らの間にも、“小説を書く”という行為がトレンドとなりつつあった。その原因を作ったのは奇しくもファンタジー法の施行による。
かの悪法により、一旦二次元媒体全ての流れがせき止められた。閲覧も執筆も禁じられた青少年らはただ闇の中で喘ぎ絶望した。そう、かつての俺達のように。しかしその暗闇を打ち破るべく一条の光をもたらしたのが天才美少年完璧超人高校生作家、白鳥茜である。
創作物に飢えていた青少年らは、彼を希望の星とみた。そして一気に小説家志望者が、小説執筆者が世にあふれた。無論白鳥に続けと諸手を挙げた純文学志向の作家達だ。
その結果、ネット上でもいずこからか聞きつけた原罪的中二病罹患者という文言が飛び交うようになった。
それは「全ての作家が陥ってはならぬ魔道」、という意味をはらんだ禁忌の存在として、時に冗談として、時に罵詈雑言として、時にコミュニティからの追放を意味した。そのように様々な解釈を内包しながら変容し、文芸世界に浸透していった。
存在だけが一人歩きし、妄言が恐怖を煽り、無知蒙昧な民がよってたかって聖者を悪魔の神輿に担ぎ上げたいい例と言えよう。
不遜な輩のせいで誤解が蔓延していることに、俺は不快感を拭えない。
原罪的中二病罹患者を名乗ってよいのは、原罪の洗礼を受けた我々だけなのだ。それは忌むべきものではない。限られた人間だけに許された、可能性の証なのだ。
その末裔の一人、小山田は不自然に踏み惑うことはなかったが、上靴を脱ぎ、黄ばんだ白靴下でもって、じとりと踏みつけた。
俺はできるだけ優しく踏んだのだと、彼が上靴を履きながらよこした熱く湿った視線から、彼の気骨は汲み取れた。この状況だ、今は何も言うまい。もう十数人に踏みつけられて表紙は埃ですすけていたが、黄ばんだ靴下をなお埃で汚してもかまわないという、小山田の行為に悲哀の情を禁じえなかった。
そして木ノ下だ。異世界物を愛した奴にとって、この世紀の大ヒット作は異世界転移、転生作品執筆者における永久バイブルとも成り得る記念碑的作品である。おそらく奴は、高校生にもなってお母さんと一緒に"ゲライモ"最新刊の初版本を購入したに違いない。それも保存用と観賞用と読書用の三冊は同時に購入したはずだ。
ゲライモの初版には帯がついており、特にマニアはそこに書かれる文言にこだわるのだという。
ちなみに今巻は『こっちじゃ最弱、異世界なら最強! プッチプチ、ムッチムチの美少女達のやることなすことが、俺の妄想力を超えた! 異世界ってやっぱり最高だ! だからニートはやめられねぇ!』だ。ゲライモの帯はその猥雑な文言で毎度話題を呼び、特に帯付きの第一巻初版などは、一冊十数万円で取引されているという。
ところで木ノ下の母は、息子がそのような本を至宝の如く扱い、あまつさえ三冊も購入した事に杞憂を抱かないのだろうか。
俺と小山田は、まさか木ノ下が? と互いに視線を交わし合っていた。
だが、ファンタジー規制下においては、十八歳に満たない俺たちの個人所持が禁じられているのだから、お母さんと一緒に買おうが、保護者管理下で所有していようが、その三冊はいずれも自宅に保存されたままのはずで、まして木ノ下がこのような場所に持ち込むような危険な真似をするはずがない。
なにより木ノ下も小山田も、あと数か月もすれば堂々とラノベを購入し読める立場にあるのだ。
ならば一体誰が……。
「部員B、どうしたの? 早く踏みなさい」吉原美奈子は声のトーンを落として、冷酷に告げる。
くそっ、悪魔め……。
彼女は胸の下に両腕を潜り込ませるように腕を組んで、前かがみになる木ノ下のことを、見下ろしている。
やめろ……。
もう、やめろ。
一体なんの権限があってこんなことを。
足をあげたまま踏み下ろせないでいる木ノ下の両眼からは、透明の液体が止めどなく流れ落ちていた。後ろの一年生部員が、B先輩はどうしたんだ? などと、ひそひそと囁き出している。俺は奥歯が痛くなるほど歯を食いしばっていた。
耐えきれず目をそらそうとしたその時だ。俺を見つめる黒い水晶のような瞳がそこにあった。
国重先輩、助けてください。そう彼女の目が訴えていた――桐生幸子、――――さっちん!
俺は彼女が片目をつむり、ウィンクで合図したのを見て、叫んでいた。
「せっ、先生! こんなのは間違っている! 本を踏みつけるなんて文芸に携わる人間なら、躊躇して当然だ! 本を愛するその強さの分だけ戸惑いは大きい!」
だが、美奈子は動じず、冷ややかな視線の端で俺を捉える。
「だからこそ、ではないのかしら? それとも国重君は彼が犯人ではないという確固たる証拠を持っているのかしら」
明らかに俺も疑われている。だが断じて違う。もちろん木ノ下でも、小山田でもない。
「さあ、部員B、踏みなさい」
木ノ下が遂に足を踏み降ろそうとした瞬間、たまらず俺は雄叫びをあげ、木ノ下の足元にヘッドスライディングのように飛び込んで、本を拾い上げた。
俺は勢い余って床を滑り、机の脚に頭を激突させた。
しかしうかうかしてはいられない。
位置関係的に背後に控える彼女のピンヒールを警戒し、朦朧とする意識の中、即座に身をひねり、次の行動のため振り返った。
一秒が幾百枚もの絵になって俺の視界をよぎってゆく。
しかし、そこで目にしたスローモーションは、にわかに信じられない光景だった。
事もあろうに、あろう事か。
俺が飛び込んだためバランスを崩し、たたらを踏んだ木ノ下が、吉原・パーフェクトツインヒル・美奈子を押し倒した挙げ句、その双丘が作り出す目眩く渓谷へと、自動車の衝突実験でエアバッグに顔を埋めるダミー人形さながら、嬉し恥ずかしまいっちんぐ鼻血ぶー、お前なんて広辞苑に顔面ぶつけて鼻血流してりゃいいのに、なんて自然に不可抗力にグラビトンのなすがまま、素敵な物理学の課外授業を受けていた。
俺は何者かに助け起こされながら、消えゆきそうな視界でその一挙手一投足を両目に焼き付け、憤怒の情を呟いてしまっていた。
「きっ、木ノ下……貴様ぁあああああ……」
底が見えない深淵へと身体が砕けて崩れ落ちてゆくように、深く深くどこまでも響き渡る魂の叫びは闇へと吸い込まれてゆく。
そして、モニターの電源が落とされたように、ぶつりと俺の意識は閉じた。
これにて、「続々ファンタジー死すべし」は完結です。次回「真~Sin~ファンタジー死すべし」にてシリーズ完結予定です。 お読みくださり誠にありがとうございます。次回もよろしくお願いいたします。