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綺麗事の羅列。理想の垂れ流し。前人未踏の山頂に咲き誇るお花畑

 七月も中盤を迎え、夏本番の様相を呈している。本来なら受験生として猛勉強に勤しんでいるべき三年生の俺達であるのだが、焼け付く日差しとは裏腹に、受験エンジンに火は入っていなかった。


「ファンタジー規制に始まり、僕ら創作活動に携わる青少年は様々な規制下におかれてがんじがらめにされてきた。それはまさに創作すべからず、といわれているに等しい扱いだ。だが僕たちはその執拗な規制をかいくぐって、ここで創作に打ち込んでいる。何故そこまでしてやるんだろう……」


 夏空が広がる窓際に肘をかけ、木ノ下は呟く。俺達はその日は部活に参加せず、隣の図書室の窓際で肩を並べていた。いよいよ夏本番。水が目一杯張られたプールは、冴えた太陽光を反射して、ただゆらゆらと水面を輝かせている。だが、その揺蕩たゆたいは木ノ下の問いかけに答えるそぶりもなど微塵もない。


 規制対象年齢の青少年は、法施行後のこの約二年間、ファンタジーに類する媒体と触れあっていないことになる。


 保護者の監視の下であれば閲覧も可能ということになっているが、ラノベを愛する妄想という粘液で下着を濡らすナイーブな青少年らが、ラノベを読みたいがために、おいそれと保護者たる母親や父親に下読み――すなわち検閲だが――をしてもらうなどと剣呑な行為に及ぶはずはなく、せいぜい友人達と隠れて体育倉庫の裏で回し読むというのが関の山だ。そして教師に見つかり、あえなくその御本尊・・・を取り上げられるという事態が各地で散見されて久しい。


 俺は幸い桐生先輩がいたから、そのような危険な真似をする必要がなかった。だが、それももう終わりにしようと思う。いや、終わるのだ。


「俺もお前も、後もう少しで解禁される。そうなれば規制など関係のないことだ。今は……今は理不尽な決まり事に束縛されて、何もかもが上手くいかない様に思えるかもしれんが、魂まで奪われたつもりはない」


 道を示したかった。それは驕慢きょうまんな物言いに聞こえるかも知れないが、事実だ。


 現在、十八歳以上のアマチュア作家は、嬉々として創造創作媒体を手がけているはずだ。それが誰にも読まれないにしても、認められる事がなかったとしても、規制から解放された彼らは執筆を再開出来ているのだ。


「国重……お前は自信あるか?」木ノ下の言葉はあまりにも小さくて聞き取りづらかった。「お前、規制が解かれた後に、またファンタジーを描ける自信があるか?」


 その質問に俺は即答しなかった。肯定も否定も、今の俺の言葉はいずれも木ノ下にすれば実に不誠実に思えたからだ。


「僕は規制以降の二年間、広辞苑しか読んでいない。もうすぐ暗記できそうだ。二年の間に刊行された話題のラノベは全て手に入れてはいるが、読んでいない」


 木ノ下は真面目な男だ。深夜の学校に忍び込んで、体育倉庫の鍵を壊し、かすめたライン引きで校庭一面に魔法陣を描くような男ではあるが、体育倉庫の裏で密かに御本尊を崇めるような罪を冒す男ではない。


「ファ、ファンタジーにしろ純文学にしろ、物書きにとって知識や情報は宝じゃないか。お前ほどの知識量があれば、どんな作品世界でも描ききることが出来るじゃないか。素晴らしいことだ」


 俺は話題が逸れた安堵感から、つい声を張ってしまった。やや芝居じみていたかもしれないが、知識や情報は一朝一夕では身につかないものだ。素晴らしいことだと思ったのは本当だ。


 だが木ノ下は鼻から息を吐き、かすかに首を振った。


「国重……無邪気に過ぎるぞ」


「なにが、だ……?」


「広辞苑に書いていることは、揺るぎない事実だ、現実だ。そこに羅列されている、この世の、この世界の全てを知ってしまうことがどういうことか、お前には解らんのか!」


 その木ノ下の地を這うような声と言葉は、また俺を暗い路地に置き去りにされた子猫にしてしまう。


 この後ろめたさ。俺が彼らに内緒でラノベを読みまくるという違法行為に手を染めていたせいだ。木ノ下が読めない間、ただストックしているだけの作品を、おそらく俺は全て網羅しているだろう。彼が広辞苑を暗記し現実に直面している間に、俺だけがファンタジーを堪能し、異世界を旅していた。そして今、その先にさらなる異界がある事を知った。


「俺にはもう、異世界が描けない。異世界が想像できないんだ……」


 卑怯者。


 木ノ下の悲しき告白は、俺を詰る罵倒となって襲いかかってくる。


 俺は返す言葉がなく、耐えきれず顔を背けた。


 何故黙っていた? 何故自分だけが読んでいることを隠した?


 先輩から言われたからだ、他の三人には内緒だと。


 本当にそうか? 先輩から釘を刺されなくとも、俺は黙っていたのではないか?


 自分だけが、先を行きたいが為に。貪欲に自身の成功だけを望んでいたのではないのか。


 違う。俺は、俺の目の前に垂れた蜘蛛の糸が、切れるような事態に陥りたくなかったのだ。奴らを蹴落として這い上がるような真似をしたくなかっただけだ。


 自らの快楽を追求しただけ。


 そのチャンスがあったから。転がり込んできたから。ただそれだけなんだ。




「臆することなく一人一人が、一人一人の物語を綴れることこそが僕の望みだ。すべての物語に価値はある。それがその人の思いなのだから」




 そう白鳥は言った。


 だが、互いを蹴落とし合い、自身を高みにのし上げることでしかこの世界では生き残ることが出来ないではないか。頂点に登り詰めたものだけが称賛され得るべき世界じゃないか。そこに君臨さえすれば、黙っていたって本は売れる。無辜な民草は社会的に認知された御本尊を崇め奉り、素晴らしいと絶賛し、その無知蒙昧なる支持がまた新たな信者を呼び、作品価値は肥大してゆく。それがこの世界のあり方ではないか。


 現に木ノ下はこの世界の片隅で、異世界にもいけずに野垂れ死のうとしている。


「世界は美しく、残酷だ」木ノ下は暮れかける街の風景に、目を細めて微笑んだ。「これから僕は、これまで得た知識を後進のために注ごうと思う。それがこの世界のためになるなら僕は本望だ」


「な、何を言っているんだ……」


「僕は自分が考えた世界が表現できる媒体として、小説を選んだんだ。けどね、現実の方がより深かったんだよ。リアルで現実的だったんだよ」


「それは、あ、当たり前だが……だからといってファンタジーを諦める理由にはならんだろ! 異世界は依然としてそこにある、お前はいつもそう言っていただろう! なのに何故だ!」


 俺は勢いのまま、木ノ下の胸ぐらを掴んでいた。潤んでいるせいなのか、とろんとした彼の瞳は俺を捉えようとせず、抵抗する気もないようだった。だが、虫歯治療の麻酔で締まりのなくなったような唇から、俺の全身の骨を打ち砕くような湿っぽい言葉が漏れた。


「国重はさ……お前はもう……ファンタジーを書かなくともやっていけるじゃないか。もう、結果を出したじゃないか……ラノベなんてなくとも……もう、いいんじゃないのか」


 俺は激昂した。何故そこまで感情が昂ぶったのかは説明が出来ない。


 俺は渾身の力で木ノ下を殴り飛ばしていた。


 片付けを始めていた図書委員の三年生女子が、あたふたして悲鳴を上げた。


 磨かれたフローリングの上で、木ノ下のメガネが軽妙なダンスを披露してから、壁際でことりと動きを止めた。


「何やってんだよっ!」隣接する図書準備室から飛び出してきたのは小山田だ。


小山田はその豊満な体躯でもって俺を弾き飛ばした。桐生を守る為、俺が行った幾度もの妨害工作の恨みも手伝っての事だろう、今度は俺がへなちょこなステップを踏んで、机に背中を打ち付けた。


「何しやがる! 事情も知らない奴がしゃしゃり出てくるんじゃねぇ!」


「事情も何も、殴られてる人を助けるのは当たり前だ!」


「テメェ!」


 俺は頭に血が上ったまま、小山田にも殴りかかった。そいつが当たったのかどうかなんてもう判らなかった。互いに喧嘩慣れなどしていない。この拳を作る両手は、俺達の掌は、文字を紡ぐためにあるのであって、人を殴るために出来てはいない。


「ちょっと受賞したからっていい気になりやがって! それで何もかも手に入ると思ったら大間違いだぞ!」


「何の事だ! 俺は俺の実力で賞を勝ち取ったんだ! 悔しければお前達も名を取り戻せ!」


「くっ、地元のドローカル本屋賞だろが。だいたい前から気にいらなかったんだよ! いつも俺のことを変態だと罵りやがって! お前は部長になんてなれる器じゃなかったんだ。ただ、桐生先輩の指名だったから黙っていたけどなっ!」


「ハッ、なら勝ち取ってみろ! 今度はお前が白鳥から部長の座を奪ってみせろよ! お前の実力でなっ!」


 何発か殴り、何発か殴られ、その後は二人ともふらふらになって一切の攻撃を中てることが出来なくなった。一年生部員に制止されるまで自分が立っているのか倒れているのかもよく判らなくなっていた。


「一体、何があったっていうんですか……木ノ下先輩」


 騒ぎを聞きつけ部室に戻ってきた桐生が、困惑のあまりアルファ蔑称を忘れて木ノ下に問い正している。


 だが、木ノ下には説明など出来ないだろう。俺にも、小山田にも、どうしてこんなことになったのか、それは解らない。俺達が互いに吐いた暴言は半分が本当で、半分が嘘だった。


「しばらくはキーボード打てないですね」桐生は俺の横を歩きながらずっと怒っていた。互いに格闘技量のレベルは似たようなものだったが、肉の鎧を着ている分、小山田のダメージは少なく、鼻血と顔面の打撲で、最初からそうだったと言われればそれまでだが、長年小山田を見てきた俺からすれば、ひどい顔だった。


 その顔をこしらえた張本人たる俺の顔はまるで無傷であったのだが、彼を一方的にを殴った俺のほうが病院送りになった。


 怒りの感情に任せた拳。すなわち俺達の商売道具である両手指の人差し指と中指の二本ずつ、合計四本を軽く骨折したためだ。


 病院に付き添ってくれた桐生には迷惑をかけた。もうすぐ期末考査も始まるというのに。


「ペンは、持てそうですか?」


「別に……いいんだよ。さりとて浮かぶアイデアもない」


「よくありません! 国重先輩はこれからもっともっと作品を書かなきゃいけないんですよ! 受賞作家としての自覚と矜持をもっと持ってください!」


「受賞作家、ね……」


「そうですよっ!」


「木ノ下や、小山田はどうでもいいってか」


「……な、なにいっ……てるんですか。木ノ下先輩も小山田先輩も、いえ、誰であっても殴ったり殴られたりしていい訳ないじゃないですか! 作家は物語と対峙するものです! 叩き伏せるなら作品を、物語を、ストーリーを叩き伏せて、読者に突きつけてくださいよ! ……先輩方の葛藤は私にも想像つきますよ。そんなにバカじゃありません。伊達に一年を共に過ごしてきた訳じゃないです……」


 桐生の目には涙がたまっていた。俺はそれを見て、ガキの愚図りのような態度をとったことにばつが悪くなり、口ごもった。


「……先輩、どうしちゃったんですか」きっと滴が頬を伝ってしまったのだろう。彼女は顔を背けていた。今の俺に、この穢れた両の腕に彼女の悲しみを抱きとめる権利はない。


 俺は砕けた両手を制服のズボンのポケットに差し入れて、歩幅を大きくとり、桐生の三歩先を歩いた。

そしてできるだけ明るい声を作って背中で訊いた。


「なあ、桐生。先輩のこと――お姉さんのことは、やっぱり認められないのか。そんなお前でも」


 彼女が息を吸う音が聞こえた。


「俺達のことを理解しているというなら、もっと長い時間を共有したであろうお姉さんのことを、もう少し解ってあげることは――」


「――やめてください。今は姉のことは関係ないでしょう」


 意趣返しという訳ではなかった。桐生にはそうとられてしまったようだが、これはいつかは問うべき事だった。だからやめるつもりはない。


「桐生は先輩の作品を読んだことがあるはずだ。その時どう思ったんだ?」


 今の桐生先輩は表向き、うだつの上がらない大学生純文学作家だ。作風は今の時流から外れないどころか本流。清廉潔白の正統派。政府推奨文学の書き手だ。だが、その分野では一切の賞獲得実績がない。


「先輩はどう思ったのですか。先輩だって姉の作品の一つや二つは読んだでしょう。他の二人の先輩より懇意にしてらっしゃるみたいですし……」


「はは、懇意って……そんなんじゃないよ。先輩は、桐生洋子は素晴らしい作家だと俺は思っている」


 はあ、とやや長い溜息が背後から聞こえた。


「私は姉が嫌いです。頭も良くて、社交的で、物怖じしなくて、なんだって器用にこなしてしまう、姉のことが嫌いです。そんな姉は劣等な私の事をこき下ろすでもなく、見下すでもなく、むしろ慮るような態度で接してくるのが耐えられません。彼女の作品は読む者の尖った心を包み込み溶かし、癒してしまうような優しい言葉に満ちあふれています。ただ一つの愛、傍にいることの大切さ。言葉を必要としない思いやり。人を蔑み罵倒する事を良しとせず、惑う心にしるべを与え、苛む者あれば手を差し伸べ、我が身のことを顧みない慈しみをその身に湛える――そんな彼女の、姉の作品が私は嫌いです。人は……人は、そんなに優しくはなれないもの……」


 確かに、桐生先輩の表向きの作品はそのような作風だ。綺麗事の羅列。理想の垂れ流し。前人未踏の山頂に咲き誇るお花畑だ。


「だから……姉のことは嫌いなんです。彼女の作品が私は嫌い。だから姉のことも嫌いです!」


「き、桐生……幸子」


 俺は心せず振り返っていた。そして次の瞬間、俺の背中に百万ボルトの閃光が迸った。


「あんなものはファンタジーです……!」


 不自由な両手で遮る間もなく、突然胸に飛び込んできた彼女の腕により、俺の身体はぎゅっと抱きしめられた。喧嘩で所々を打撲しているにもかかわらず、なんの痛みも感じなかった。


 彼女は俺の胸に顔を埋め、ファンタジーなどいらない、この現実だけがあればいいの、と泣きじゃくった。そして、先輩だってそう思うでしょう、と。


 俺は戸惑い包帯で巻かれた両掌を無防備に持ち上げていた。だが、意を決して、意思をもって彼女のか弱い背中に添えた。この手を離すまいと。


 包帯越しに感じる彼女の華奢な骨格、そしてブラのバックベルト。ああ、この鳩尾あたりに感じている両の膨らみはパッドなのか、と。


 長い長い永遠とも思える深さを伴った思慮は、俺が下半身の一部を彼女に密着させることが出来ない紳士協定の根拠として、十二分になり得たのだ。


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