べ、別に国重先輩のためだけに焼いたわけじゃないですよ!
部室に入った途端、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「あ、国重先輩、おつかれさまです!」桐生幸子は部室に訪れる誰に対してもこの挨拶だ。一年生部員達も桐生に続き、健気に挨拶をしてくる。
窓外から差し込む光を背後にした彼女が振り返ると、ふわりと浮き上がった髪の一本一本が輝いて見えた。
どくんどくんと心の臓が鼓を打っていた。ダッシュしてここまで来たからな、当然だ。
「なんか、いい匂いがするな」息を整えながら、鼻先であたりを見回した。
「クッキー焼いたんですよ。先輩今日は遅いから、来ないのかと思っちゃいましたよ」
桐生幸子はかわいらしい皿に山盛りのクッキーを、俺の目の前へと差し出してきた。
周りを見てみれば、手作りクッキーなどおよそ口にする機会のない、木ノ下と小山田がむさぼるように口に運んでいる。もちろん他の一年生部員も談笑しながら賞味している。
「桐生が作ったのか」
「ええ、そうですよ! これ国重先輩の分です、どうぞ」
「あ、ああ……。桐生、女子力係数高いな」
「ええ、女子ですからね!」
桐生幸子は姉と同様、ない胸を精一杯張った。が、それは高圧的な能力の誇示ではなく、制服のブラウスから透けて見えるブラのような、慎ましくささやかで、無邪気な恣意に思え、俺はついくすりと笑ってしまった。俺の分だけ分けておいてくれたらしい。そして少し豪華だ。昨日の御礼ということか。
なんで笑うんですか、と俺の――三条の鼻水がついたのとは逆の――袖をそっと掴んで、頬を膨らませる。
「美味しいですよ、国重君もいただいてはどうですか」回転いすに腰掛けた白鳥が、くるりと向きを変え、クッキーを口にしながら俺に微笑みかけてくる。その陽だまりのような眼差しは言外に、女の子が頑張ったんだから素直にほめてあげなきゃ、と投げかけてきている。
この部長の微笑みこそが、今のこの文芸部を支えている。部員皆が朗らかに高らかに、信念を謳い文章に綴ることに熱意を傾けている。侃々諤々と文学について語り合うこともあれば、ちょっとした諍いも衝突もある。
しかし、それも文学へかける情熱故の事だ、と部長の天啓が全てを光の中に吸い込んでしまう。まるで教祖さながらの包容力。白鳥は今、すべての若い純真な文芸部員の心を鷲掴んでいるといっていいだろう。
悪いことではない。
こうして部が一丸となって一つの目標に向かっているのは。
居心地が悪い訳でもない。
木ノ下も小山田も、目を輝かせて後輩たちへの指導に当たっている。
われら文芸部は今、文芸界という大海に向かって邁進している、船長の白鳥の為ならば命など惜しくもないと、ロマンを求めて旅に同道する冒険者集団だ。
川の流れに翻弄され、淀みに入った木の葉のように、身動きが取れなくなっていたあの時の俺たちに比べれば、今の文芸部は帆を上げ風を受けて、確かな目的地を定めて航進する一隻のガレオン船である。
俺はまるで下級生とは思えない白鳥の落ち着いた様に気圧され、その視線が示す助言のまま、桐生に笑顔を向けた。「すごいな、桐生は。うん、うまいよ、ありがとうな」と自分でも信じられないほどの優しい声色で、彼女の瞳を覗き込む。
すると、はっと目を丸くした桐生が、唇を結んで顔を俯き加減に背けてしまう。
「べ、別に国重先輩のためだけに焼いたわけじゃないですよ! ――ってもう、C先輩一人で食べ過ぎですぅ!」
――――これは……。
心の臓が一度大きく鼓を打つ。
俺の心の中に三条の軽薄な声が響き渡り、やがてふつふつと膨らみ出した。
廊下で俺に足蹴にされた三条は起き上がらなかった。いや、起き上がることが出来なかった。
「りょ、両脚のアクチュエーターがおシャカだ。制御系もバグってやがる。おまけに残弾はゼロ。そろそろ俺もヤキが回ったか……さあ、お前は行け! なあに、ここで最後の大花火を上げてやるさ。グズグズしてたらお前も巻き込んじまうぞ!」
俺もお前も、かつてはそうして作品と向かい合ってきたのだ。自身の信念たる作品と共に爆死も覚悟の上だと。だが、今のお前は作家ではない。心中はごめんだ。お前は疑似科学者としてそこで一人死ぬがよい。
しかし三条は続けた「ただ国重……これだけは覚えておけ」と。
「素直じゃない女ほど、モノにしたくなるってのが男という生き物だ。対して素直になれない女には素直になりたくない理由ってのがある。つまりだ、そいつを包み込んでやれる両腕が男にあるかどうか、ってな。がっちり掴んだら離さねぇ覚悟があるかってことよ」
作家にとって作品とは、手に余り手に入れがたい、つかみ所のない理想の恋人のようなものだ。言い換えれば己の魂が文字という記号に形を変えた権化だとしても良い。そいつを攻略し胸の内につかみ取り、離さない覚悟。それもよく解る。
「出力リミッターを解除、冷却水を全排出、相転位炉弁全解放! 地獄で会おうぜ兄弟!」
俺は振りかえらなかった。これ以上奴の言葉を聴くまいとしていた。いや、聴きたくはなかったのだ。理解もしたくなかったのだ。奴の断末魔に何の意味があるのかなど。
「国重、クローディアによろしく……な」そう言い残し、奴は冷たい廊下の床に伏し、永遠の眠りについた。
不本意にも、俺はこの全くもって不可解な自爆男の言説を反芻し、一人心中で思い悩んだ。一体誰なんだ、クローディアって、と。
彼女はクッキーを褒められて、ただ照れただけだ。現に、俺にだけでなく彼女は部員全員にクッキーを配給しているではないか。
ツンデレキャラのテンプレート発言を彼女が呈したとしても、安易にラノベ的恋愛展開と現実を混同するほど俺は呆けてはいない。
現に、C先輩は、小山田先輩は、ペド小山田・オナニスト先輩は、今熱烈に桐生のことを見つめているではないか。愛しいものを舐め尽くすかのような怪しげな眼光を放ち、俺の妹ちゃんとして、桐生の頭の先からつま先までのデティールを大脳辺縁系へダウンロード真っ最中だ。
俺は素知らぬふりで小山田のスキャンレーザーを遮る形で、桐生との間に割り込んだ。
何も知らない無垢な後輩を、精巣を五つ持つといわれる草食系オナキングのズリネタにする訳にはいかないではないか。彼女が桐生でなくとも俺は同じ行動をとっただろう。この妨害工作は良識ある先輩としての正義だ。
案の定、小山田は“国重、貴様! その場で爆散して死ねばいいのに”という強烈な念波を俺にぶつけてきている。
「さて、全員集まったかな」白鳥が腰に手を当て、立ち上がった。「今日は僕からすこし話があります」
全国的にも注目された天才高校生作家である。高校文芸部の部長の貫禄などとうに備えていて当然だろう。歓談していた十数名の部員達が水を打ったように静まりかえると、一斉に彼の顔を見上げた。俺も小山田の熱視線を遮りながら、白鳥のことを注視する。
「作家というものは孤独なものだ。だけど僕たちはまだまだ弱い。荒波の大海に繰り出すには力が不足しすぎている。自分よりも大きな波がしらを目の前にすれば、たちまち心が折れて冒険をあきらめてしまうだろう。だから今は、一人一人が協力し合わなければいけない……それは決して恥ずかしい事じゃないんだよ。僕は、自分だけが宝の地図を手に入れたのだとほくそ笑み、わき目も振らずに宝島を目指して倒れていった人たちを随分見てきた」
白鳥。その若さでどんな経験を積んできたというのか。
彼の言葉に部員たちはすっかり心酔してしまっている。
皆が協力し研鑽し合う。悪いことではない。
白鳥の言葉は確かに正しい。
だが、彼がそれそのものであるように、文芸界の頂点に立つということは名誉と称賛を得ると同時に、道しるべのない道を往く孤高の先導者となることを意味する。それが皆で手をつないで仲良くやってゆけるものか。たとえそれが高校球児であっても、ドラフト指名を勝ち取り、スターダムに登り詰め、大リーグに抜擢される選手はほんの一握りどころか、敗北した選手が持ち帰った甲子園の土の一粒に比肩する。
綺麗事だ。
文芸界にそんな甘言は通用しない。
受賞の規模は白鳥より小さいとしても、桐生だってその事は理解しているはずだ。いつになく真剣なまなざしを向ける彼女の横顔を盗み見た。
「今、小説を書いている諸君は、いつか作家になることを夢見ているだろう。自分にも可能性があるんじゃないか、とね。新刊を出せば飛ぶように売れる、あの作家のようになれるかも知れない、と。あるいは作家になってしまえば印税で左団扇な生活が保障される、嫌な仕事を命令されてしなくてもいい、自分が発することの全ては神託のごときであり、世の理の全てであり、あらゆる非難批評批判を封殺してしまえるのだとか」
そんなことを考えている奴がいるだろうか――――いや、いる。
自意識過剰で承認欲求を肥大させた勘違い野郎。多くのモノ書きが陥る闇の監獄。そこから聞こえるのはただひたすら冤罪だと叫び続ける怨嗟の声ばかり。
俺には実力がある、だが読まれないのは時流のせいだ。
読まれないから、モチベーションも上がらず書けないのだ。
感性の乏しい読者が多いばかりに、薄っぺらなストーリーのくだらない作品が幅を利かせて文芸の価値を地に落としている。容姿と知名度と話題性があったから売れたのだ、実力なんかではない。たまたま波に乗っただけ。コミュニケーション能力と根回しが功を奏しただけ。コネだ、出来レースだ、枕営業だ。
地を這いつくばる者達の声はおよそそんなものだ。
そいつらがまかり間違って天に昇る糸を掴めば、カンダタのように自らの足を引っ張る人間を蹴落としにかかるだろう。
俺が勝ち取った栄誉を、栄光を奪うな、と。
白鳥は続ける。
「だが、思い返してみて欲しい。時々でいいんだ。何故自分は小説を書こうと思ったのかって事をね」
部員はそれぞれに顔を見合わせている。中には一人俯き考え込み出すものもいる。木ノ下もその一人だった。