それこそが俺の、あなたへの愛なのだ
雨が止んだので、と桐生先輩に暇乞いをし、そそくさと俺はマンションのエレベーターホールへと向かっていた。
彼女の口から聴きたくはなかったのだ。“お前の作品が好きだ”などと。
彼女の口からありきたりで、当たり前で凡庸で、当然の帰結のような、男女が少し同じ時間を、同じ場所で過ごした事で、生まれる共同意識を、共感精神のための屁理屈を垂れ流して欲しくはなかった。なにより、変態の権化たるあなたが、変態達から神と崇められているあなたが、俺のようなノーマルな男が書いた作品に恋い焦がれているなど、三文芝居以下の茶番である。
あなたは変態であるからこそ、そのつるぺた体型に形取られたマシュマロのようなふわふわした真っ白な肌と、棒のような四肢がより淫猥な音を奏でるのであり、もしも俺があなたを穢してしまえば、あなたはもはやただの変態作家でしかなくなってしまうではないか。
純文学作品を書けず、悶え苦しむBL作家こそがあなたの本懐だ。今まで多くの健全な男女をアブノーマルに誘ってきた巫女としてのあなたの咎は筆舌にしがたく、それを今更普通の文学好き女子のように、物語に恋がしたい、私だって女の子のなのよと、紅潮したいじらしい顔面を背け、意地悪しないでなどと口にするなど言語道断。
あなたはBL作家、海原桐子だ。
もしもその軛を解く鍵が俺の手の内にあるのなら、あえて俺はその鍵を飲み込み、胃と腸で数日熟成した後、洋便器のトルネードと共に海の彼方に葬ってしまおうと思う。
桐生洋子よ、あなたは変態処女のまま果て、悶死する美しい最期が似合う。
その時、俺はあなたの墓前に太宰を捧げよう。
それこそが俺の、あなたへの愛なのだ。
一階から昇ってくるエレベーターの表示を目で追っていた。ドアが開き、一歩前に出たところで一瞬視界が黒く遮られ、鼻先に鋭い衝撃が走った。俺はかろうじて後ずさる事で耐えたが、どうやらエレベータ-内にいた人とぶつかり、押し倒してしまったようだ。
「す、すみません、大丈夫ですか」鼻頭をおさえつつ庫内に駆け寄った。申し訳ないことをしてしまった。
しかしそこにいたのは、食パンをくわえM字開脚で尻餅をつく女子校生ヒロイン――ではなく、桐生幸子だった。
――しまった。
ここに来る際にただ一つ警戒しなければいけない事があるとすれば、桐生先輩の妹――すなわち桐生幸子との邂逅であった。
桐生先輩と幸子の間柄はけして良いものではなく、互いに文芸活動を通じて相反しあっている。故、幸子が先輩の部屋を訪れることはないという軽率な思い込みが俺を無警戒にさせてしまっていた。
「痛ぁ……、国重先輩? ……なんでこんなとこに?」立ち上がった桐生幸子は顔をしかめ、額を手の甲でさすりながら問う。「まさか取材? ――――じゃないですね……」
たまたま通りかかるにしては、マンション最上階は不自然極まりないだろう。
知人宅へ訪問した帰りだ、という虚言も頭をかすめたが、ここは一階につき三軒しかない小さなマンションである。桐生洋子宅以外の住人である、夫の帰りを待ちながらカレーを作る新妻や、夜な夜な遊び呆けている妙齢の独身OLと、俺がどんな知人関係であるかを説明するための設定が鼻の痛みのせいで思い浮かばなかった。
やむを得ず俺は正直に告白した。先輩のところに行っていたのだと。
案の定、桐生幸子の顔が汚いものを見るかのように歪んだが、それはほんの一瞬で、すぐに真顔に戻り首を振ると薄く微笑み、オクターブを下げた。
「姉の、ところですか?」
「先輩からはまだまだ教わらなくてはいけないことがあるからな」
「――必要ないんじゃないですか」
姉の件が絡むと途端に彼女の口調は冷たい深海へと沈む。そしてことあるごとに、姉のことを認めない、を繰り返す。俺はそれに対して否定することはできなかった。
「私は実家に届いた姉の郵便物を渡しに来ただけですから」そう言ってそそくさと封筒の束を鞄から取り出し見せると、俺の横をすり抜け先輩の部屋のドアの前まで走っていった。
挨拶もなく、さっさと自分の用事に走ってしまう彼女のらしくなさに首をかしげつつ、俺はエレベーターの箱へと乗り込み、一階のボタンを押す。
あんなことを言っていても姉妹だ。離れていればそれなりに積もる話もあるのだろうと、俺は一人納得し、閉じかけるドアをぼんやり見ていた。
しかし、閉じかけたドアが、がこんという衝撃と共に停止し、再び開いた。自動扉を押しのけるように飛び乗ってきたのは、桐生幸子だ。
「先輩、待っててくれてもいいじゃないですかぁ」
それはけして詰るような語気ではなかった。やや甘えたようにおどけるように、まるで俺が意地悪をしてドアを閉じた事を責めるみたいに、それはとても可愛らしい舌端であった。
「え……あ……すまん。その……先輩とは?」
桐生幸子は短く息をつくと、俺から視線を外し、
「だからいいんですってば。別に姉と会っても話す事などありませんから。いつでも郵便受けに入れておくだけですよ。さっさと住所変更の手続きしてくれたらいいのに」
どうも、彼女の姉嫌いは筋金入りのようだ。俺には兄弟がいないから、その感覚というのがいまいちよくわからない。
普段から彼女は俺のことを――いや、名を奪われていた時期でさえ先輩として立ててくれていた。後輩に先を越されているというその明らかなる事実に劣等感を抱きながらも、白鳥にはない、先輩を慕うという側面を持った彼女の事は、密かに気に入っていた。
だからという訳ではない。訳ではないが、たまには先輩らしいことをしてみてもいいのではないかと、さっきぶつかったお詫びだと、近くのコンビニでソフトクリームを買ってやった。
それから少し離れた小高い丘にある公園まで歩いて話をした。
さっきまでの雨が嘘のように、一面は夕焼けに彩られていた。水滴が茜色に染まり、きらきらと輝いていた。
今の文芸部のこと、最近見た面白い映画の話や、読んだ本、はては未来の文芸界のことまで、時間も忘れて話は弾んだ。
雑談の中での知識だけは年の功もあり、俺の方が物事を深く広くよく知っていた。唯一先輩としての矜持を示す事が出来たせいで、気分がよくなりつい饒舌になっていたのだろう。
自分の知らない事を聞くたびに「へぇー、そうなんですか」と感心する彼女は、まさしく高校二年生の女子そのものであり、厳格な節回しや、耳馴染みのない古語を扱う小説家の桐生幸子と同一人物だとは思えないほど無邪気で、普通の女の子の間で使われる流行言葉もためらいなく口に出しては、よく笑った。
桐生幸子は姉とは違い、膝上五センチという控えめながらスカートは標準丈より短く、頭髪も綺麗に整えられており、指の先足の先まで年頃の女子らしく気を使っている事が窺い知れる。裸眼の瞳は桐生先輩に似て鋭さを持ってはいたが、ころころと表情豊かな為か愛嬌がある。
彼女とこれほど密に話したのは初めてだった。気がつけばとっぷり日も暮れていた。
しかし彼女は、俺が何のために桐生先輩の部屋を訪ねて、何をしているのかを一度たりとして訊いてはこなかった。
ただ、あんな作家から教わることは何もない、と相変わらず口にする。そして先輩は先輩の道をゆくべきですよ、と滑り台に上りながら、軽い冗談のような口調で俺に告げてきた。
俺はラノベなど読まない。あんなものはクソだ、と部内で豪語してきた。そしてその言に偽りなき事を証明するがごとく、ひたすら純文学作品を執筆してきた。桐生幸子はそんな俺を認めてくれている。そう感じることは度々あった。
「わたし、吉原先生の方針を否定するわけじゃありませんけど、それでも承服できかねない箇所はあります」
桐生幸子は滑り台の上に腰掛けて、ブランコに座る俺を見下ろしていた。
昇り始めたおぼろ月をぼんやりと見つめながら、後輩の愚痴を聞くのも先輩の務めだなと、悟られないよう腕時計をちらと視界に入れつつ地面を蹴る。
「先輩方は姉の代で退廃した文芸部を立て直した、今の文芸部の礎たります。そんな方たちをまるで私達よりも下賤な者として扱うかのような彼女の言には、時折反感を抱かざるを得ません」
「ははッ、相変わらず桐生はお堅いな。俺たちは先輩といえども文芸カーストになぞらえれば底辺さ。お前が言うように、俺たちはまさに土台ってところだよ」
きいきいと音を立てるブランコに揺られながら、流れる空気のような軽さで応えた。軽く流して欲しかったのだ。
「そんな――私そんなつもりで言ったんじゃありませんよ!」
「はは、わかってるよ」そうだ、土台などであってたまるものか。
「文学の世界はカーストではありません。あえて言うなら下克上も可能な戦国――」
「おっと、みなまで言うな。桐生、お前は時代物を書いているなら知っているだろう? 今の日本に現存しているオリジナルの城がいくつあるのかを」
「はい……現存する城、すなわち現存十二天守として最も代表的なものが、姫路城、次いで彦根城、それから――」
「――――ん、それ以外は近現代建築だな。城の形をしたビル、などとも揶揄される復元天守かあるいは模擬天守だ」
「そ、そうです! あんなものは、もはや城ではありません!」
俺が企図する話の流れはそっちではない。なにも現代のビル城をディスるつもりなど毛頭ない。
「桐生……城とは、なんだろうな?」俺はブランコを漕ぐ足を止めた。
「え……それは、各国の名主が命をかけて守り抜いた象徴であり、その後も地元や国による代々続いた絶え間ない努力と、文化を守り抜く志の結晶であり……」
「そこに城址、すなわち城跡は含まれていないのか?」
「え……」
「かつてそこに城があった、それは石垣が示すこともあれば、公園に姿を変え一柱の石碑だけのこともあるだろう。ただ、たしかにそこに城はあったんだ。人はそれを忘れない。城とは、人々の心の中に今でも息づいているんだ。形が変わったとしても、ただの地面になったとしても」
「確かに、消えた名城は数知れずです……」
「時代の流れと共にな。だが、それがどうしたというんだ」
「せんぱい……?」
「桐生。時代は移り変わる。俺は、合戦の要衝にすらならない、ひっそりと山中に佇む小さな山城かもしれない。しかし、お前たちとともに生きた時間があったという事実は変わらない」
俺は心中で苦笑いをしていた。後世にも誇ることができる城址とは、歴史上に名を残した事実ゆえである。一度たりともその名を轟かすことがなく廃城にされた城はどうだ? なんの武勲も上げずに一生を終えた領主を誰が覚えているだろうか。それらは城としても武将としても讃えられることはないのだ。
「たしかに賞作家になる事は出来た。だが俺は本当に城を持った武将と呼ばれるだろうか……なんてな。ふと、そういうことを考えてしまうものさ」
才能のない奴はな――俺のせめてものプライドが、その言外を口腔内で籠もらせた。
「そんな! 先輩なら……きっと!」
桐生は滑り台の上で立ち上がった。
地に足を付けた俺と高みに立つ桐生。その高低差はけしからんほどに非日常的であり、人智の及ばぬ絶対可視角。
「はは。よしてくれ。もう今夜は遅い。お家の人も心配してるぞ」言いつつ、じっくり時間をかけ、当たり前の権利として顔を上げ桐生の事を見上げる。今そこには一迅の風も必要あるまい。いや、むしろ吹いてくれるな。
しかしその時、本当に気の利かない、空気の読めない、ダメだといわれたことを絶対にやってしまうバカなサブキャラのような夜風が、彼女のスカートをふわりと浮き上がらせた。
「きゃ、やだ!」その声色は羞恥、そして拒否。不埒な俺に対しては強烈な叱責となって届く。
気づかれないよう小さく舌打ちしたのもつかの間、彼女は両の手を手すりから離しスカートにやったせいで、足下からバランスを崩し、立ったまま滑り台から滑り落ちようとしていた。
「あぶない!」俺はブランコから飛び降り、アキレス腱に切れてもいいから一度だけ飛べと命じ、彼女の身体に両腕を伸ばす。
短い悲鳴が俺の耳朶を打ったとき、俺の背中には鈍痛、そして頬には彼女の吐息。彼女の身体は俺の腕の中にあった。俺は彼女を抱きかかえ、滑り台の向こう側の砂地に背中から着地したのだった。
「せ、センパイ……!」
「きを、つけろよ。滑り台の上では手を離すなって、さ。先生に教わらなかったか?」詰まる息を悟られないよう、俺は腹式発声でなんとか言い切った。俺は大丈夫だから、と。
濡れた地面の不快感が背中に伝わるよりも、胸に飛び込んでくる彼女の体温の方がリアルで、なにより愛おしく、吐息は甘いヴァニラの香りがした。
幸い、互いに怪我もなく、桐生家の前まで彼女を送り届けた。誰もいない公園で、事故とはいえ、抱き合うような事態に陥ったことは、その後の二人をただただ無言にさせた。
別れ際彼女は「助けてくれてありがとうございました」と頭を下げる。制服のスカートの裾が少し汚れてしまっていた。
俺は首を左右に振り、「じゃあまた、明日部室で」と、今日は何でもない雑談を楽しんだだけだ、といった風を装いながら右手を挙げ、踵を返す。
初めて抱いた女性の身体は、特別体格がよいとはいえない俺からしても華奢で軽くて、細くて、そして柔らかかった。
俺は規則的に並んだ街灯に丸く照らされた道路の先を見つめ、非現実感に昏倒しそうになる。
別れ際、何か声をかけなくちゃいけなかったんじゃないのか。俺は何をやっているんだという思いと共に、先輩としての矜持をぎりぎり守れた事にどこか安堵している。だがその思惑はあまりに虚しい。
自信が、ないのか? いや、覚悟か? 背中に彼女の視線を感じたまま歩き出す。
「先輩!」
世界に響き渡るようなその声に俺は立ち止まり、振り返る。
家の前の街灯の下、そのせいですっかり影と化してしまった、彼女のシルエットが浮かんでいた。
彼女は両手を拡声器のように口に当てて、俺に向かって叫んだ。
「――――国重先輩! わたしは……国重先輩の、作品……好きですよ!」