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女子はにっこり微笑んでスカートの中身を見せてくれたりはせぬものだよ

 今日も俺は部活を早退し、小雨のぱらつく街道を小走りに駆けていた。


 もうすっかり梅雨入りだ。学校を出るとき遠くの黒い雲が雷鳴を響かせているのが気になってはいたが、思ったよりも雲足が速かった。


 桐生先輩は高校卒業と同時に実家を出て、築三十年超えのマンションに居を構えていた。けして綺麗でもなく、利便性がすこぶる高い訳でもなく、最低限の生活が出来る程度の単身者然とした1Kの賃貸である。


 俺がマンションの粗末なエントランスホールに駆け込んだときには、既に本降りになっていた。五階建てで住戸数は十五という小規模の細長いマンションである。


 この佇まいを見て人は、大学生としては当たり前の住環境であろう。と誰もが納得するだろうが、彼女ほどの印税収入があれば、大学の授業料はもちろん、マンション一棟を買い取るくらい造作もないはずなのである。そうしないのは、自身が全世界的BL作家、海原桐子であるという事実を隠すために、奨学金を受けて大学へと通うというカムフラージュを施しているからである。


「国重か、入れ」


 インターホンから短い返事を聞いて、ロックが外されたドアノブに手をかける。


 俺はいつもこの扉を開くたびに、神々しき天上の神殿に足を踏み入れるような気分になる。地上世界から解き放たれた人の理が及ばない異界。俺が、俺だけが唯一女神との謁見を許された選ばれし勇者なのだと妄想をこじらせる。


 が、ドアを開いた眼前に佇むは、けしてひらひらふわふわの半透明で露出度が異常に高い、非現実的な髪色をした美少女女神などではない。


 グレーではなく“ねずみ色”と形容する方がふさわしい、くたびれたスェットに、二日ほど風呂に入ってないのか若干油っぽい髪を乱し、高校在学中から愛用していた黒縁眼鏡をかけた桐生洋子の姿がある。

人はこれを見て、以前何度かOGとして部室に訪れた華麗な彼女と、同一人物とは思わないであろう。それが同一人物だったと仮定できたとしても、劣化、あるいは病み、などと彼女の差分を表現するための言葉を探すだろう。


 だが違う。


 これが、彼女なのだ。


「上から下まで続きになったひらひらのワンピースなど、無防備の極み。隙を突かれ、裾を持ち上げられれば、いとも簡単に裸体と違わぬその流線型を露わにし、秘部をかろうじて隠すだけの面積しか持たない小洒落た装飾衣をさらし、けして他人には推し量ることが出来ぬであろうはずの性的趣向プライヴェートを白日の下にさらすことになる。まして頭頂までまくり上げられ束縛されてしまえば、両腕の自由ばかりか、その視界までも遮られてしまう――それすなわち“茶巾縛り”という、女子としての最大恥辱であり、極刑とも言われるものだ」


 俺はわずかながらに感じていた受賞の喜びから、少し気持ちが浮ついていたのかもしれない。思わず、彼女の秘めたる美しさを賛美したい気持ちがわき上がり、「いえ、しかし――――――あの時の先輩は……」などと口を挟んでしまった。


「――言うな国重」


「は……」


「私にこれ以上を言わせるな」


「はあ……」


 俺の反応を見て桐生先輩はマグカップを両手に持ちつつ、言葉を解さない猿を目の前にしたかのように、首をかしげて深く、そして執拗に睨み付けてきた。


「あの……先輩?」


「……貴様が……貴様達ごときが私を茶巾縛りの憂き目に遭わせるほどの実力を持っていないと知っての上での行動だ……どうだ、できまい。貴様達は婦女子のスカートを捲り上げるというその行為すら完遂できずに、手を伸ばしかけたことがトラウマとなろう。そして十七歳の過ちに対し、一生をかけてその罪を贖うという愚行を続けるだろう。貴様達がそれほどまでに不甲斐ないからこそ、私は古今東西の紳士淑女が即応的に嵌合しうるに最適な合理的かつ扇情的な衣装、すなわちにワンピースなどという愛されて止む事なき最弱装備で貴様らの前に立つことが出来る――――――それがどういう意味なのか、いい加減にわかる歳だ」


 かさかさと乾いた音を立て、インスタントコーヒーの粉末を瓶から直接カップへと入れ、古式ゆかしい手押し式のポットからお湯を注いだ。しかしポットは四押し目で嘔吐か下痢のような下品な音を立てた。残りのお湯があまりなかったのだろう。


「……大人になれ、国重。女子はにっこり微笑んでスカートの中身を見せてくれたりはせぬものだよ」


 桐生先輩は、薄くあまりにも密やかに微笑むと、濃すぎるインスタントコーヒーをいれたマグカップを二つ、ぞんざいな手つきで置いた。そこにはミルクはもちろん砂糖も、かき混ぜるためのスプーンも添えられることはない。


「エスプレッソだ、飲むがいい」


 しとしとと降る雨が生温かい空気を部屋内へ運んでくる。


 桐生先輩は、あきらかに濃すぎるブラックコーヒーが入ったマグカップを持ち上げ、立ち昇る湯気に吹きかけるように、ふっと息を吐いた。


「不本意だな」


それが何を意味しているのかは解っている。海原桐子せんぱいは受賞した俺のことなど褒めるに値しないと考えている。いや、取り繕い仮初めに彩られた純文学作品になどなんの価値もないと一蹴するのだ。


「先輩からはそう言われると思っていました」


「ふッ。だから、ここに来たのだろう? そう・・って・・しくて・・・、ここに来たのだろう?」


 壁一杯を使った作り付けの大型本棚には、俺達がこの二年間、願っても手にすることが出来なかった無数の蔵書がある。そう、一見漫画と見まごうかのような装丁のラノベたちだ。そこにはファンタジー規制時に、部室から避難させた作品も含まれている。


 桐生先輩は、俺だけに蔵書ラノベの閲覧を許可していた。ちょうど部長の座を白鳥に奪われた頃、内密に声をかけられた。木ノ下、小山田、三条に関しては閲覧の許可を出していないばかりか、未だに海原桐子せんぱいの正体すら知らされていない。


 何故俺だけなのか? そんな疑問も浮かんだが、俺は目の前の蜜を一人で舐める快楽に酔いしれ、桐生先輩のマンションに入り浸っていた。


 地元・・本屋大賞に精力を向けていた時期だけは、作品に集中するために自粛していたが、受賞して以来は元通り自らの禁を解き、毎日部活を早退して桐生先輩の部屋を訪れる生活に戻っていた。


 部活を早退するのは取材などではない。ましてや先輩に執筆指南を乞うている訳でもない。


 俺はずっとここに、ラノベを読みに来ていたのだ。

 

 先輩は保護監督者でもなければ保護者でもないため、十八歳未満の俺たちにファンタジー作品を閲覧させる権限はないのだが、もちろんそこは秘密だ。持ち出しは堅く禁じられたが、彼女の部屋の中でならば誰に知れる危険性もない。


 血を吐くような思いで書き綴る純文学作品に、俺のリビドーは反応しない。ただただ陰鬱な思いが鬱積するだけだ。書きたくもないものに自身の才能と筆力を消費しているやるせなさに加え、下級生達に賛美される心地の悪さに耐えられなくなり、心の整理をつけるため、たびたびここに来ていた。

俺はラノベが好きなのだ。ファンタジーが書きたいのだ。想像創作物語の中でこそ、俺は本来持つ翼の飛翔力を発揮できるのだ。


 後輩達よ。それは、お前達の見ている俺は、本来の俺ではないのだ。


「国重。私は失敗したが、お前は私と同じ過ちを辿らないで欲しい」


 桐生先輩のその言葉は重い。


 彼女は生粋の純文学作家であったところを、部の存続のためだけに信念を折り曲げ、BL小説を書き殴り、コミケで大売れ。不本意にもそのままデビューし業界で大成功を果たした。しかしその富と名声の対価として、一切のメディアへの露出、著者近影も含めて、桐生洋子という人格を秘匿せねばならなくなった。


 そして同時に彼女は、物語作品を書く能力を失った。


 文章を書かない者からすれば、それは能力の問題だと断ずるだろう。所詮は才能がないのではないかと。


 だが違う。海原桐子ほどの極みに達した文筆家はその取り扱うすべての言葉が、身に染みついた意味へと変換され、連鎖した想像の荒縄は、言葉の本来が何を目的としていたのかを見えなくするほどに、立体芸術的な緊縛を実現してしまう。人はそれを見てただ感嘆するばかりで、思考のすべてを奪われてしまう。


 その証拠に彼女の文章は、『前立腺が読んだ』あるいは『子宮が感動した』などと、人の持つ原初的な胎動たる下半身の唸りにより評される。


 だが、そんな彼女自身は、自身の信念を貫き通せない、不治の病に冒された不遇者だと断ずる。自らの心のままに執筆が出来ていない、作家崩れもいいところだと。いや、まさに道化のメイクを施したり(リオ)人形ネットだと自身を卑下する。


「民が望むのならば、私は私の能力としてそれを世に差しだそう。もはや現代の巫女たる私にはそれしか出来ないのだからな」


 自嘲するように肩を落として、桐生洋子はカップをテーブルに戻す。そしてあらかじめ手渡していた俺の受賞作の原稿のコピーを手に取り、ざっと用紙を繰ってみせる。そして静かに閉じると、その束を俺の目の前に突き返した。


「読んで、頂けたのですか……?」


 今までも何度となく応募作品のコピーを先輩に読んでもらおうと持ち込んだのだが、その全ては俺の手元に戻っては来なかった。すなわちそれは、“不可”として彼女の手により廃棄されたのだと理解していた。


 原稿を突き返した桐生先輩は、テーブルに肘をつき組み合わせた両手で口元を隠したまま、俺のことを見つめていた。


 薄暗い部屋の窓から、雷鳴と共に差し込んだ雷光が眼鏡に反射して、一瞬その奥の表情は鬼気迫るものに見えた。だが、


「素晴らしい……」桐生先輩の口から、ついそれは漏れてしまったかのような、あまりに密やかな告白だった。



 今まで大きく見えていた先輩の存在。


 桐生洋子は女子の中でも小柄で華奢で、頼りない肩幅の少女だったが、今の彼女ほど、その見たままに見えたのは初めてだった。


 伸びきったスェットの丸首の襟は普段の脱着衣時の癖からか左右非対称で、伸びた左側の襟元から見え隠れする鎖骨の窪みに、先輩ちょっとそのままじっとしていてください、とマグカップに残った濃すぎるコーヒーを注いで、厭らしい音を立てながらすすりたい衝動に駆られる。


 あるいは、正座の形から膝を外側に折り曲げ、尻をぺたんと床につけた女性特有の座り方をした彼女の足裏を、ハイヒールを日常的に履くほどこなれていない、まだまだ柔らかいかかとを、背後から両手で執拗にさすりたいと思った。


 そんな俺の思惑を先輩はみじんも感じ取っていないだろう。


 先輩は、先ほどの呟きが失言であったと言葉にする代わりに、背筋を伸ばし息を吸い自らを大きく見せようとしていた。女性ではなく先輩だという態度を懸命に前面に押し出し、「国重、今日は読んでゆかないのか」、と憂いを含んだ瞳で俺に問う。


 書架の右端には、『現実世界でラノベが読めないから、異世界に行ったけど、なんか文句ある?』の最新巻がある。ラノベの代名詞とも呼べる、口語的付加疑問の長ったらしいタイトル。最初に発表されたのは今から約十八年前、俺達が生まれる前に世に出された作品だ。ラノベファンからは“ゲライモ”という通称で呼ばれている、規制の直前まで連綿と続刊を続けてきた伝説的ベストセラー異世界転移ファンタジー小説である。


 俺も物心ついた頃からファンタジー規制までは、発売日に買って読んでいたほどの名作だ。その後規制が敷かれた二年前、それまで年に三回きっちり発売されていた最新刊が発売されなくなり、五十巻を前に続刊が停まった。売り上げが激減したせいで出版社が渋っているなどと非難もされたが、それも致し方ないだろう。ゲライモの主軸読者は俺達のような青少年世代だったのだから。


 だが、皮肉なことに当の規制を予見するかのようなタイトルがネット上で話題になり、世間の耳目を集めて再び上位ランキングへと返り咲くという現象も生まれた。


 そしてこの機を逃すまいと考えたのか、今春突然、二年ぶりの最新刊が上梓されたのだ。


 そんな待ち望んでいた最新刊である。当然読んではいないし、十七歳の今の俺では手に入れることも困難だった。だが、今目の前にそれがある。


 しかし、俺は断った。


「ええ、今日はやめておきます」先輩に作品を読んで貰えただけでも満足でしたから、と。


 本当は、もしもこれ以上この神殿に居座ってしまえば、俺はこの目の前の女神を壊してしまうかもしれないと感じたからだ。


「……国重」


「なんですか」


「国重……私は、貴様の……お前の……が、私は……」


 立ち上がった俺の事を見ないように、桐生洋子は雨煙で何も見えないダークグレーに染まる窓外を見つめたまま、寂しく呟く。


 俺はやるせなくなり、眼下で怯える小動物のような彼女から目を逸らすより他なかった。


「先輩、それ以上言わないでください。あなたの口からそんな言葉を聴いてしまったら、俺は……」


 突然、桐生洋子は勢いよくテーブルを叩きつけ立ち上がった。窓を背にして、俺を見つめていた。そしてまた、雷光が彼女のシルエットを浮き立たせた。


「聴いてしまったらどうなのだ! どうするというのだ! 貴様は私の事など、私の事など、私の……事、など……」


 遅れてきた雷鳴と共に叫んだ桐生洋子は、両手で顔を覆い、そのまま膝から崩れ落ちた。伸びきったスェットの襟から、丸くて白い、弱々しい左肩が露わになる。


「先輩……」


 俺はその場で立ち尽くしながら、目頭に掌をあてて俯いた。


 そして、やはりノーブラだったかと、陰りゆく部屋で安堵のため息をついていた。


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