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限定条件性選択的固着観念の上にかろうじて立っている暫定的美人教師

 春、それはめくるめく萌芽の季節。新しい生命が育まれ、太陽に向かってその恩恵を授からんと一斉に諸手を挙げる者達で埋め尽くされている。


 通常教室の半分に満たない図書準備室を間借りしている我が文芸部部室は、新入生の黒い頭で満杯になっていた。そう、全員が新入部員だ。


 先日行われたクラブ紹介の壇上に立った白鳥は、ざわめきと黄色い声援の中で喝采を浴びていた。


 入学式の進行を務めるため舞台袖に待機していた吉原美奈子は、俺が懇願した訳でもないのに教師にあるまじき十センチに及ぶピンヒールを穿き、艶めかしい黒のストッキング、張りのある臀部を包むタイトスカートで男子のリビドーを誘惑する。指先のわずかな動きをも主張するかのように、スワロフスキーをまぶした爪に光を湛え、壇上のライトに照らされハニーオレンジに輝くロングウェーブを肩から払い、この日のために特別に誂えた高級スーツを纏い、完全無欠なボディスーツで形どった身体の凹凸を誇らしげに誇張しながら、真っ赤に彩られ、とろけ落ちそうなグロスリップから淫猥な吐息を吐き、バサバサのマツエクの奥の滲むような瞳で、壇上で流れる水のように滔々と部の紹介をする白鳥だけを見つめていた。


 吉原美奈子、あなたはそんなに華やかな人ではなかった。


 せいぜい三流高校において、うだつの上がらない教諭陣の中でただ少し若いという理由だけでもてはやされ、ただ髪の長い女教師であるというだけでマドンナ先生などと呼ばれた。限定条件性選択的固着観念の上にかろうじて立っている暫定的美人教師があなたという人だ。


 さらに仔細を語らんとするならば、生徒と最も年齢が近いというだけで、若者に理解がある大人だと目され、女子生徒からかろうじて、先生今日のお洋服かわいい、などと言われると、こらっ大人をからかうんじゃないわよ、などと冗談交じりに返しつつ、心中で微笑むのが大人女子としての矜持を保てる唯一の出来事であり、しかしその実、放課後には疲れてむくんだふくらはぎに若い子とは違う代謝の悪さひしひしとを感じ、今朝テレビCMで観たサポート率の高いストッキングを新調しようかしらなどと、生徒たちに手を振りながら、悩ましげにドラッグストアの前で財布の中身と相談しつつ、思慮にふけっているのが、あなただ。そう、それがあなたとして相応しいはずだった。


 だが、今の吉原美奈子はそんな怠惰で陰鬱な色香をおくびにも見せず、まるで嫌がらせのように、俺のすぐ横に立って香水という唯物的な仮初めの色香をふりまいていた。


「本来はあそこに僕が立っているはずだった――そう言いたげね」吉原美奈子は視線を動かすことなく言った。


 そんなことは思っていない。実力のあるものが、才能のあるものが部長を務めるのは、世の理だ。我が文芸部の筆頭作家が、その頭である部長の座に君臨するのは当然だ。


「いえ、僕は、ただ彼らに負けないよう、努力するのみです」そう答えるだけだった。


 だが吉原美奈子はチラと俺の方に一瞬だけ視線を流し、息を吐いた。


「国重君……文芸は、勝ち負けなのかしら、ねぇ?」


その艶やかな物言いは俺の胸の鼓動を大きく打った。


しかし、その言葉の意図を訊き返す暇もなく、彼女はそのままマイクを持って舞台へと躍り出てしまった。


 勝ち負けなのか……勝ち負けじゃない……? くにしげくん……?





 あの日、人心を惑わすような麗しさとは裏腹に、どこか憂いげだった吉原美奈子の言葉を反芻しながら、俺は新入部員でごった返す部室の中で執筆を続けていた。


 男子と女子の新入部員数は半分ずつ。いずれもが小説執筆は初心者で、文法や単語、レトリックの使い方や伏線の張り方など、基本的な小説作法に戸惑っていた。


 この春までは広辞苑とスマホしか触らなかった木ノ下と小山田が、親身になって新入生の指導にあたっている。いつぞやの俺たちが桐生先輩より教示されていたときの姿が思い起こされる。


 懐かしさに、思わず一人笑みが漏れそうになったが、慌てて口を噤む。俺の隣の二人、桐生と白鳥はそんな喧噪の中でも黙々と自作の執筆を続けている。すさまじい集中力だ。


 新入部員の誰もが彼らに憧れども、とてもではないが声をかけ、教示願うなど、恐れ多いと思っているのだろう。


 窓際の席で、彼らに並んでキーボードを必死にうち続ける俺のこともそう思われているかもしれない――などと一瞬でも思い、こそばゆい笑みが全身を駆け巡る。


 しばし俺は手を休め、執筆を諦めた同輩二人の指導風景にそっと目をやる。


「――例えばだよ、君が異世界転生者ならばその記述で問題ないんだけど、語り主である主人公は現地の人間だろ? その語りはNGかな――――あ、そこのそれはね、別に異世界ってわけじゃないから説明過多になって冗長になるし、知識のひけらかしになりがちだから削ったほうがいいよね――――」


 木ノ下、いちいち喩え話をする際に、異世界を持ち出すのはやめておけ。


「えっ、と。ああ、君は妹ちゃんなのか、ん? 三つ離れたお兄さんがいる? ぼ、僕より年上だね、だったら僕はちっさいお兄ちゃんだよね――――」


 小山田、セクハラではなく小説のアドバイスをしろ。女子部員に近づきすぎだ。鼻息を避けようと嫌がっているではないか。


 しかし、二人とも概ね上手くやっているようだ。ともになんの不満も覚えないのか、新入生からもB先輩、C先輩と呼ばれ親しまれているように見える。もっとも新入生はそれを単なるあだ名だと思っているようで、まだまだ無邪気なものである。


 ともあれ時に哄笑を交える微笑ましい光景だ。俺達が入学した当初からすれば、文芸部がこれほど活況になるなど誰が予想できただろうか。これほどまでに物語創作に対し渇望する人々がいたことがわかっただけでも、今の俺は嬉しい。


 視界を正面に戻すと、ディスプレイ越しの窓外でざっと風が吹き、すっかり葉桜になった桜並木から、最後の花びらを散らす様子が垣間見られた。


 ファンタジー規制法施行後、俺は約二年に渡りファンタジー作品、すなわち想像創作作品を執筆できていない。後一年も待てば、晴れて俺はあの忌まわしい規制から逃れることができる。


 しかし衝動とは恐ろしいものだ。心は現代劇を書こうと、リアルな描写に頭を巡らせているというのに、魂がそれを許さず、気づけば主人公が伝家の宝刀を引き抜いている。


 やめろ、その刀で何を斬るつもりだ……なに? 妖魔だと、そんなものいるわけがなかろう――いや、考えてみろ。突然人が豹変したかのように、主張を変え周囲を混乱に陥れるのは妖魔が取り憑いたからではないか。人に罪はない。俺は普通の人の目には見えない妖魔を斬り捨て、世界に平和と安寧をもたらす斬魔衆の末裔。人知れず魔を切り裂く闇の掃除人、その名はっ――――削除デリート削除デリート削除デリート……。


 くそ、心を許せばすぐに俺はラノベという妖魔に支配される。浄化せねばならない。


「じゃ、俺アガるから。取材行ってくる」俺は一段落したからと思わせぶりにパソコンを閉じ、立ち上がって誰にともなく言い放つ。なるべく新入部員とは視線を交えない。彼らが入部したその日から、俺は部内では寡黙で実直な純文学路線作家という設定を貫いていた。


 ふとそこへ、一枚の桜の花びらが舞い込み、閉じたパソコンの上へと滑り降りる。


 花と散る。


 今まで俺は何度この言葉によって自らを戒めてきたか。一次落ち、一次落ち、二次落ち、落ちた数なら数え切れないほどだ。まるで落ちることが運命づけられた桜の花びらのように、幾度も幾度も数ある文学賞で落ちた。


 だが、白鳥と桐生の活躍により、晴れてIDイマジナリーディレクト資格を取得した吉原女史が顧問を務めるこの文芸部で創作を続けるには、ただただ純文学路線を突っ走らねばならなかった。


そのまま規制解除の日まで筆を折ることも考えはしたが、筆力が落ちることを嫌い、描きたくもない文章を綴り続けた。目合まぐわう事なき純朴な男と純真な女の物語は性体験のない俺にはうってつけとも思えたが、それは一向に俺自身を奮い立たせることはなく、ひたすら虚しさの中で愛という実態のない影を掴むような執筆だった。


 だが今となってはそれも遠い追憶の日々である。


「お疲れ様です、国重先輩!」「これからも頑張ってください! 国重先輩!」口々に新入部員達は俺に別れの挨拶と共に、口々に賛辞を述べる。しかし俺はそっと彼らに手を挙げ応えるだけだ。


 俺は名を取り戻した。


 この春、三年進級と同時に俺は、白鳥、桐生に続く賞作家となり得たのである。俺はかろうじて新入部員に“A先輩”などと呼ばれる事は避けられたのである。


 あの入学式の当日発表された、本好きで有名な地元本屋店主が開催する超絶ローカルな文学賞において大賞を獲得したのだ。そのせいもあるだろう、とりあえず後輩へのくどい指導とセクハラしかしない木ノ下と小山田がここに居続けられるのは。


 受賞の結果は部の顧問である吉原美奈子にまず連絡がゆき、部長の白鳥から俺に報告があった。もちろん俺のスマホにも店主から連絡があったようだが、あいにく電源を切っており不在着信となっていた。美奈子があの時直接俺に伝えてくれれば、何も舞台袖で俺があんな焦燥感を味わうことなどなかったのに、つくづく意地の悪い女だ。


 受賞作品は店主のポケットマネーで書籍化され、ISBコードも取得して、半永久的に店の本棚に並べられるという好待遇。俺は名実ともにプロといってもいい立場となった。売れればだが、店主と折半の印税も手元に入ってくるらしい。


 白鳥の書籍が、部室に置かれた本棚に誇らしげに収まっている。もちろん先日受賞した桐生幸子の作品も並んぶことになる。そして、いずれ俺の作品も並ぶだろう。


 何気ないふりをしながらも、受賞の事実は少なからず俺に、執筆継続の意欲を奮い立たたせた。規模としては自費出版に毛の生えた程度ではあるが、それでも俺はデビュー作家なのだ。売れた数ではない。第三者が俺の作品を認めてくれた事に意義がある。


 ここ一ヶ月、部室はちょっとしたお祭りムードに沸いていた。運動部でいうなら大賞受賞は優勝だ。白鳥、桐生、そして、ここに入部してきて早々直面した俺の受賞で、新入部員にとっては、ここで活動すれば自分もデビュー作家になれるかもしれないという夢を描くには充分な説得力があったのだ。




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