第9-1話『すれ違い1』
真夏の湿度は時間経過と共にその粘度を増し。
日が沈もうという頃には、止まることを知らぬ大粒の汗がその不快感をより強固なものへと変えていた。
ただ、その二人の間にある居心地の悪さの根源は、少なくとも気候によるものではないのだろう。
夕陽を背に歩く、黒衣とアリスの間にあるのは。
「……………………」
カツカツと。足早に黒衣は歩く。
決して早いわけではない。その足取りは単に急いでいると感じられるものとは違う。言うなれば、言い知れぬ不満を足音として現しているかのような、そんな粗暴な歩き方だ。
その黒衣の歩みに、日傘をさしたアリスが数歩遅れて付き従う。付き従うとは言うが、その足取りは重く、まるで横に並ぶことを拒んでいるかのようで。その表情も、日傘の影に覆われ暗い。
「……。……」
ひたすら歩みを止めない黒衣とは違い、アリスは時折顔を上げ、何か言いたげに口を開くが、やはり何も言わず影へと戻る。
そんなことを数度繰り返した曲がり角。互いの距離が少し開いたそのタイミングで、黒衣が不意に歩みを止める。
「何でだ」
振り向くこともなく、ただ呟くように放ったその一言に、アリスもまた足を止める。
「何であんなこと言った」
再度、黒衣は問う。
だが、二度目の問いにも、アリスは口を開かない。
答えないと言うよりは、どう答えて良いのかわからぬと言うように。アリスは言葉の出ない唇を歪ませる。
「答えろよ、アリス」
「っ…………」
そんなアリスの思いとは裏腹に、黒衣はその答えを急かす。
*
数時間前――。
「あの子は――ユウタは、貴女達の本当の孫なのか?」
思いも寄らぬアリスの言葉に、黒衣は驚き思考を止める。
その言葉が何を意味しているのか、黒衣は一瞬理解できないでいた。できたのは、脳裏でその言葉を反芻することだけ。
――本当の、孫?
「お前、何を、言って――」
「大事なことなんだ」
黒衣の脳が処理を行うよりも早く、アリスは黒衣から漏れ出た言葉さえも遮ってしまう。
「奥方……」
睨むのではない。しかし芯の入った強い瞳を見て、おばあさんは驚きに丸めた双眸を優しさの色に染める。
「どうして、そう思ったのかしら?」
「…………、それは……」
思わぬ問いだったのだろうか。アリスは思わず言い淀む。
その戸惑いの瞳に黒衣は訝しみの視線を向けるが、そんな黒衣とは裏腹におばあさんは小さく微笑む。
「そうね……。ええ、あなたの言うとおりよ」
「……それでは――」
「ええ。あの子は――ゆうたは、あたしたちの本当の孫じゃない」
アリスの指摘に確かな肯定を示したおばあさんは一度瞳を瞑り、そしてゆっくりと語り出す。
「あの子と最初に会ったのは少し前――二週間ほど前のことだったわ。そのひの夜は月がとても綺麗に出ていてね。日課の散歩に出ていたおじいさんが、その日はいつもよりも早く帰ってきたの。何か会ったのかと思ったわたしは「どうしたんです?」って聞いたの。そしたらおじいさん「子供を拾った」なんて言うもんですから、わたし驚いてしまって」
その時のことを思い出したのか、おばあさんは本当に愉快そうにからからと笑う。
「その話をあの子は――ゆうたは、おじいさんの足に隠れるように見ていたわ。それが、わたしたちとゆうたの出会い」
まるで、その日に出ていた月でも眺めるかのように、おばあさんは遠く夏の空を見上げるていた。
「おじいさんが言うには、ゆうたはたった一人で夜の街を歩いていたらしいの」
その言葉に、黒衣は「え」と声を上げ反応する。
「一人? 親とか、他に大人は……」
しかしおばあさんは首を横に振る。
「いなかったわ。わたしたちも探したのだけれどね。とにかく、その日はもう夜も遅いし、わたしたちは次の日にゆうたを警察に連れて行くことにしたの。でもあんまり要領を得なくてね。どうにも、ゆうたは自分の家の場所も、名前も覚えてないみたいだったの」
「それ……って……」
——記憶、喪失?
しかし、おばあさんはこれに首を横に振る。
「さあ、どうなのかしらね。わたしには詳しいことはわからないけど。けどあの子は警察が何を聞いても、一向に口を開こうとはしなかったわ」
どうもユウタはなかなかに人見知りの激しい性格らしい。そのことは初めて杏子たちと相対した時にも感じていたが、おばあさんの話を聞く限り本当にそうらしい。
「だから警察があの子を預かるって話になったときは随分と揉めたわ」
「揉めた、んですか?」
「ええ。それまで何を聞いても口を開かなかったあの子が、警察で預かるって話になった途端騒ぎ出してね。それはもう泣くわ喚くわの大騒ぎよ」
子供の癇癪は時に大人のそれをも凌駕する。恥や外聞を気にしない分躊躇がない。嫌だと思うものを嫌だと否定する。それがいかに恐ろしか、黒衣には今ひとつ実感はないのだが。
だがしかし、そんな騒動の話にも関わらず、おばあさんは楽しそうに笑う。
「わたしも警察の人ももう困っちゃって。そしたらあの人が言うのよ」
「あの人?」
首を傾げ尋ねるアリスに、おばあさんは答える。
「おじいさん」
と。
「おじいさんね、そっとあの子に近寄って言うのよ。『この子の面倒は、うちでみる』って」
その答えに、黒衣も思わず驚いてしまう。
「え。それで見ちゃったんですか、面倒」
「ええ。警察もね、さすがにそれは駄目だって言ったんだけど、ゆうたがね、それで泣き止んじゃって。もう誰も文句は言えなかったわ。警察も、もちろんあたしもね」
懐かしいものを見るような目で、庭先で遊ぶユウタをおばあさんは眺める。
「おばあさんは、それでよかったんですか?」
「よかありませんよ」
(えーーーーーーーー……)
「何の相談もなしに勝手に決めて。どうせ家事だって全部あたしに任せっきりのくせに」
「は、はぁ……」
「もちろん、家族が増えるのは素直に嬉しかったわ。でもね、この歳であんな小さな子の面倒をみるのがどれだけ大変か、それもわかってたから」
日の傾きかけた庭先を、ヒグラシの鳴き声が満たす。
「でもね――」
そんな、茜色へと移りゆく黄金色の世界で、
「あの子の笑顔を見てたら全部、どうでも良くなってしまったの」
向日葵色の笑顔がにこやかに、大手を振って咲き誇る。
「それにね、ふふ……。あの子がうちで暮らすって決まって、一番喜んでいたの、誰だと思う?」
「あーー……」
「ん? それは当然、ユウタではないのか?」
何かを察した黒衣とは裏腹に、アリスはきょとんとした顔でそう答える。
「ふふふ……。正解はね、おじいさん」
どこかで盛大なくしゃみが聞こえたような、そんな気がした。
「む。あのご主人がか?」
「ええ。それはもう大喜び。普段は大人しいフリなんてしてるけど、内心はとても寂しがり屋なのよ、あの人」
「むぅ。そうは見えぬが」
「そうなのよ。実は」
悪戯をしている子供のように、おばあさんはルンと上機嫌に笑う。
「その日のおじいさんはそれはもう大喜びだったわ。『わしに新しい孫ができたぞー』ってね」
なかなか厳格そうな人に見えてはいたが、実のところはそうではないのかもしれない。実際、ユウタに対してはかなり甘いところがあるのは黒衣も確認済みだ。
「あれからもう随分と感じるけど、まだたったの二週間しか経ってないのよね。ふふ。おかしな感じだわ。きっと、ゆうたが来てくれたおかげね。こんな老いぼれ二人の隠居生活に、月日を感じるだけの刺激なんてなかったから」
そっと、おばあさんは自分の胸を撫でる。今まで長い長いたった二週間の毎日を、静かに飲み込むように。
「だからあの子には感謝しているの。こんな老い先短いあたしたちに、生きるだけの目的を与えてくれて」
おばあさんは再び黒衣とアリスに向き直る。
「アリスさん。あなたはさっき、あたしにこう聞きましたね。ゆうたはあたしたちの本当の孫なのか、と」
「……ああ」
「その答えは、本当とも言えるし、そうじゃないとも言えるわ」
「……それは、どういう意味だ?」
「あの子とあたしたちの間には、血の繋がりなんてものはありません。けれど、確かにこう言えるわ。『あの子は、あたしたちの本当の孫』なのだと、ね」
いつの間にか、ヒグラシの鳴き声は虚空へと消え、黄金色の日差しはすっかり茜色へと変遷を遂げていた。
庭先で走り回っていたユウタも今ではすっかりと落ち着き、木陰に落ちていたセミの抜け殻を木の棒で突っつき遊んでいた。
かく言うアリスも、問いに対するおばあさんの答えを聞いてすっかり熱を削がれてしまっていた。
「……すまない、奥方。妙な質問を、してしまった。どうか愚かな私を罰してほしい」
「罰すだるなんて……。いいのよ、もう。あなたが疑う気持ちもわかる。それでもあなたはあの子を信じてくれた。それで、いいのよ」
「奥方……」
カランと、夕風が風鈴を揺らす。不器用に揺れた風鈴は風情とは程遠い鈍い音だけを残し、夏の夕暮れへと消えていく。
「…………」
「奥方……?」
ふと見れば、さきほどまで笑顔だったおばあさんの顔は今は俯き、夕刻の陽を浴び影を作っていた。
アリスもそんなおばあさんの変化を感じ、少し心配げに声をかける。
「どうかしたか? 体調が優れないのなら、今すぐに――」
「いいえ。そうじゃないの。そうじゃないのだけれど……」
心配げなアリスをおばあさんは手で制するが、その様子は見るからにあからさまで。何もないようにはとても見えなず。
体を支えるように手をそえるアリスを見て、おばあさんは意を決した様子で口を開く。
「…………そうね。ゆうたと仲良くしてくれたあなたたちには、いっておいた方がいいのかもしれないわね」
「奥方……何を――」
「おじいさんはね、もう、長くないの」
風が音を立てて止まったかのような、そんな錯覚に陥った。
「え――――?」
何を言われたのか理解できないとでも言いたげに、アリスの口から疑問符が漏れ出る。
「癌、なんですって。それも末期の。気が付いたときには、もう手の施しようがないって」
癌、という言葉を、末期という言葉を理解しているのかはわからない。だがおばあさんのその只ならぬ雰囲気から事態の深刻さは容易に察することができた。
「だ、だが……、ご主人はまだあんなにも――」
「ええ、そうよね。今のおじいさんは元気そのものなんだもの。とても、今日明日に死んでしまうかもしれないなんて、思えないものね」
「今日、明日……」
突然過ぎるその告白に、アリスは思わず呆然としてしまう。黒衣も、事態のあまりの深刻さに言葉を失ったまま。
「ユウタは、そのことを?」
未だ庭の向こうで一人遊びに興じるユウタを見て、アリスは思い出したように問いかける。
「いいえ。知らないわ。この間出会ったばかりの小さなあの子には、酷過ぎるもの」
「……………………」
言葉が出ない。ついさきほどまで隣で笑いかけていた相手が今すぐにでも死んでしまうかもしれない大病を抱えている。そんな事実に、まだ高校生の黒衣は元より、【妖精】であるアリスでさえも次の言葉が見つけられなかった。
「ほんと、あなたたちは優しいのね」
ぽろっと、溢れるようにおばあさんはそう呟く。
「だからってわけじゃないけれど、できればあの子と仲良くしてあげてほしいの」
「ユウタと?」
「おじいさん。口には出さないけど、あの人もそれを望んでいると思う。あの人、自分が死ぬってことには無頓着なくせに、ゆうたのこととなるとほんと人が変わったように大騒ぎするんだから。きっと、あの子があの人の唯一の心残りになる。できるのならそうはならないでほしいけど、難しい、でしょうね」
静かに、思いの丈をおばあさんは話す。心配なのだと。不安なのだと。そう。
「だからこそ、あなたたちには感謝しているのよ」
「感謝? わたしたちにか?」
おばあさんの意外な言葉に、やるせのない気持ちに苛まれていたアリスは顔をあげる。
「ええ。あたしたち以外誰にも懐くことのなかったあの子にできた、唯一の心許せる人。……本当に、よかったわ」
両の手を胸の前で握り締めて、おばあさんはホッと笑顔を作る。さきほどのように子供のような笑顔でもない、安心という名の笑顔だ。
「だからこれからも、あの子の友達でいてちょうだいね」
おばあさんの口から出たその単語に、アリスはまたも目を丸くする。
「友達? わたしがか?」
「ええ。もちろんよ。ゆうたにできた初めての友達。ほんと、ありがとね」
胸を撫で下ろした両の手で、おばあさんはアリスの手を握る。その皺の刻まれた手をされるがままに掴まれたアリスは、まだ少しポカンとした様子でその手を見つめる。
「友達……。そうか……。友達、なのか……」
何を思ったのか、そんな呟きだけが、わずかに黒衣の鼓膜を震わせた。
「おはなし、終わった?」
話を終えた黒衣の元に、ユウタがちょこちょこと駆け寄ってくる。
「ああ、終わったぞー」
「じゃあね、あそぼ!」
「ああ、もち――」
同意しかけた黒衣だが、茜色に染まった視界を思い出し、言葉を改める。
「ああ……――、ユウタ。もう時間も遅いから、今日はこれで帰るな」
「ええー」
案の定、帰宅の意を伝えると、ユウタは不服そうに声を漏らす。
「…………わかった」
だが、黒衣の意に反してぐずることもなく、ユウタは聞き分けよく首肯の意を示す。
「よーし、えらいぞユウタ」
ぐしぐしと、ユウタの頭を黒衣が撫でると、ユウタは昨日の昼と同じくくすぐったそうに頭を揺する。
「それじゃあな、ユウタ」
「うん……バイバイ」
別れを惜しむように少し悲しい顔を見せるが、それでもユウタは別れの手を振る。
アリスも黒衣について宅を去ろうとするが、
「アリスさん」
と、おばあさんに呼び止められてしまう。
「もし、ゆうたに何かあったときは、その時はよくしてやってくれませんか」
「? 何か……とは?」
意味のよくわからないその願いにアリスは首をひねる。
「いえ、特に何かがあるってわけじゃないんですけど……」
言い淀むおばあさんを、アリスは訝しむ。
だがおばあさんのその表情は、さきほどと同様の――ただ孫を心配する祖母のそれ。少なくとも、アリスにはそう見えた。
「ん、よくはわからぬが、心得た。もしユウタに何かあったのならば、その時はわたしに任せるが良い」
「ありがとう、ございます」
胸をドンと叩くアリスに、おばあさんは深々と頭を下げる。
そんなアリスのドレスの裾を、ユウタがグイグイと引く。
「ん?」
「おねえさん。バイバイ」
「ああ。また、明日な……」
そう言って、アリスは軒先で待つ黒衣と共に帰路へと着いた。
次回、女の子とのケンカは傷つきます




