第6話『おじいさんと子供』
「あら?」
それはすでに十二回目となる交叉路でのこと。
幾度と同じ方角を指し示していた小刀が、唐突に違う方向を指し示す。
この異常な猛暑に【妖精】を含めた全員が疲れを見せ始めていた頃。誰もが口を開かぬ中、杏子と黒衣は一瞬の目配せののち、小刀の指す方へと視線を移す。
そこにいたのは——一人の老人。
群青に染められた作務衣にカロコロと子気味良い音を鳴らす足駄。
髭は蓄えていないが、短く切った白の頭髪と皺の深く刻まれた相貌がその年齢を伺わせる。
腰は曲がってはいないものの、その足取りは年相応におぼつかず、いつ転んで大怪我をしても不思議ではないといった様子だ。
しかし当の本人は危なげな自分の足取りなど気にした様子もなく、ただひたすらに何かを叫んでいた。
「おーーい。ゆうた——……。出ておいで——。ゆうたや——い」
「おじい、さん……?」
ピクン——。その嗄れた声に、まるで主人を見つけた動物のように耳を立てて、ユウタくんは桃の背中から飛び降り駆け寄っていく。
「おじいさーーーーん!」
「お……、ゆうた? おお、ゆうた!」
駆け寄るユウタくんを、おじいさんと呼ばれた老人は強く抱きとめ、嬉しさからユウタくんのその身を高々と宙へ掲げる。
再開に喜び合う家族の姿が、そこにはあった。
「う……う……、いい話じゃない……」
「お前マジか……」
微笑ましい家族の様子を前にして突如涙ぐむ杏子に、さすがの黒衣も引いてしまう。
と、そんな中——、
グギ——。
何かが砕けるような音が、夏の陽光を縫って響き渡る。
同時に、ユウタくんを抱き上げていたおじいさんが腰から崩れ落ちる。
「おじいさん……? おじいさん……、おじ————さーーーーーーーーん!!!」
その悲痛な叫び声は、夏に響く蝉の鳴き声に混じり、虚しく消えていった。
*
「いやー、すまんねどうも」
降り注ぐ夏の日差しが宇宙からのレーザー光線か何かと勘ぐりたくなる正午過ぎ。
黒衣は雑草残る庭を縁側から眺めながら、清涼なる風と共に室内より吹き注ぐ嗄れた声に耳を傾けていた。
「いえ。別に俺は、大したことは何も」
庭から布団の中で寝込むご老人に視線を移し、本心からの一言を告げる黒衣。
「そうですわお爺様」
それに続いて、杏子も身を乗り出して言ってくる。
「それに、困っている方がいれば助けるのは同じ町で暮らす住人として当然のことです!」
ビシッと、普段よりも数オクターブ高いボイスで何かを力説していらっしゃる。
これはあれだ。夏休みの所為か鳴りを潜めていた、いわゆる先輩の『外面』だ。
教師や学園部外者、図書委員以外の生徒に対して向けられる完全無欠の優等生。まるで仮面でも被っているのかと疑いたくなるほどの、それは完璧なまでの外面。しかし真実を知るごく一部の生徒によってその笑顔は偽りであるとまことしやかに語られていった。そうして生まれたのが『本の鬼』。本を穢す不届き者を成敗すると言う優等生の仮面を被った鬼の伝説だった(満月談)。
こうして改めてその片鱗を見せられると、教師陣が丸ごと丸め込まれている事実にも納得させられる。
一見して人畜無害。ただの善良な女子生徒にしか見えないのだから。
——ギロリ。
「ぃ——」
「あら〜〜? どうかしたかしら黒衣くん? ナニか、私に言いたいことでもあるのかしら?」
「い、いや、別になんでもないですよー……」
触らぬ神に祟りなし。たとえ相手が神ではなく鬼だとしても、その原理に対した違いはないだろう。
そう自分に言い聞かせ、黒衣はそそくさと目を反らす。
「それにしても、いくら子供とは言え人一人を持ち上げるなんて。いくらまだまだお若いと言っても無理しすぎですよ」
「はっはっは。参ったねどうも。こんな可愛らしいお嬢さんに若いと言われ、その上説教までされてしまうとは」
見た目べっぴんの杏子との会話におじいさんはすっかり機嫌を良くしたらしく、真っ白に蓄えた髭を揺らしながら、頭髪の一切ない禿頭をペチンと鳴らす。
「笑い事じゃありませんよ」
そんな歓談に花咲く室内に入ってきたのは、何やら大きな器を持って現れたユウタくんと、これまた老齢の女性。
「まったく。あなたはいつもそうやって年甲斐もなくはしゃいで。少しはご自分の年を考えてください」
「何じゃばあさん。いきなり入ってきたかと思えばグチグチとお小言なぞ言いおってから。わしゃ今若いもんとお喋りしとるんじゃ。用がないなら出とってくれ」
「何がおしゃべりですかいやらしい。そう言うのはセクハラって言うんですよ」
「セクハラじゃないわい。むしろセクハラならもっとしたいわ」
あーだこーだと、入ってきたおばあさんとの口喧嘩が勃発してしまった。これがいわゆるところの痴話喧嘩というものか。
二人のご老人が言い合っている中、ユウタくんが頭の上に掲げて持ってきた大きな器をトテトテと机に乗せる。
「持ってきたー!」
「お、偉いぞユウタくん」
黒衣がぐしぐしとその小さな頭を撫でると、ユウタくんはくすぐったそうに身を捩る。
「おお、ゆうた。お手伝いか。なぁにを持ってきたんじゃ?」
そんな様子を見て、おじいさんは交わしていた口論をほっぽり出してユウタくんへ猫撫で声を向ける。
「えっとねえっとね……、そーめん!」
ユウタくんの言う通り、ユウタくんが持ってきた大きな器には氷水の中にこんもり盛られた白い素麺が清涼感を放ちながら揺らめいていた。
「そうかそうか素麺か。やっぱり、夏には素麺だわなぁ」
「当然、あなたの分はありませんよ」
「なにぃ? ついにボケでも始まったかババァ」
「これはゆうたとお客さまの分です。お医者さまにあれほど安静にしろと釘を刺されていたのに、こんな暑い日に外に出た罰です」
「ワシがどこに行こうとワシの勝手じゃ。ユウタが迷子なのに家でのんびりとなんてできるわけがなかろうが!」
「ちょっと子供が外に遊びに出ただけでいちいち騒ぎ過ぎなんですよ。男なら男らしく見守ったらいかがですか」
おばあさんにそう言われ、おじいさんは言い返せずにぐぬぬと唸りを上げる。
「はい」
そんな中夫婦の喧嘩を物ともせず、ユウタくんは一人動き回り、昼食の準備にと黒衣に箸を手渡してくる。
「あ、ありがとユウタくん。ユウタくんは結構お利口さんなんだな」
「えへへ〜〜」
黒衣がユウタくんの髪をクシャりと撫でると、ユウタくんは嬉しそうにはにかむ。
「でもいいのか? おじいちゃんとおばあちゃん、喧嘩してるみたいだけど」
黒衣がそう言うと、ユウタくんは意外にもぶんぶんと首を横に振る。
「ううん。喧嘩じゃないよ」
「うん?」
「えっとねぇ。おじいさんとおばあは喧嘩してるんじゃなくて、仲良ししてるんだよ」
「仲良し?」
予想外の答えだった。まさか真逆の答えが返って来ようとは。
「どういうこと?」
机の反対側で聞いていた杏子も気になって話を聞いてくる。
「えっとねえっとね。この前ね、おじいさんにね、何で「おじいさんはおばあのこと悪く言うの?」って聞いたの。そしたらね、おじいさんがね、「喧嘩するほど仲がいい」って」
「あー……」
なるほどね。
「だからね。あれはケンカしてるんじゃなくてね。仲良ししてるんだよ。だから、ダイジョーブ!」
そう嬉しそうに言うと「それに、いつものことだから」と一言付け加えて杏子にも箸を渡す。
「ありがと。……なるほどね。なんかあれね。この子、おじいさんの言葉をそのまま通り受け取ってるっていうよりも、そういうものなんだってどっかでちゃんとわかってる。そんな感じよね」
ユウタくんは未だ口喧嘩を続けるおじいさんとおばあさんにも箸を手渡しに行く。
可愛い孫に笑顔を向けられた老夫婦も、ケンカなどしていなかったかのように笑顔で箸を受けっとってしまうから驚きだ。
「そうかもな」
子供だから——おじいさんにそう言われたから、ではなく、言われたことを自分の中で精査し、考えた上でユウタくんはそう結論付けたのだ。少し考え過ぎなのかもしれないが、ユウタくんの笑顔はどこか、子供ながらの無邪気さから来るものではなく、子供だからこそ感じてしまう気遣いのようにも、そう思えてしまう。
「すまんかったなゆうた。それにお客さん方。せっかく来てくだすったというに、みっともないところを見せてしまって」
ケンカを終えたおじいさんは胡座の上にユウタくんを座らせると、改めて黒衣たちに向き直る。
「わしは西方魚美と申す。改めて礼を言わせてほしい。この子をこの家まで送り届けてくれて、本当にありがとう」
おじいさんーー西方魚見さんは厳かな声でそう言うと、深々とその丸めた頭を下げる。
「ちょ、おじいさま?! あたしたちは別に、そんなーー」
「わたしからも、礼を言わせてくださいね。なんたって、あたしたちの大切な孫を助けていただいたんですもの。ほんと、ありがとね」
「ほれ、ユウタも」
「うん!」
おばあさんもにっこりと優しい笑顔で頭を下げると、ユウタくんも、おじいさんに言われ頭を下げる。
三人に頭を下げられ、さすがの黒衣と杏子もどうしていいかわからず、おろおろと困惑してしまう。
なぜならそれは、本当に、心からの、感謝の礼だとわかってしまうからだ。
「よしっ!」
と唐突におじいさんは顔を上げると、
「メシだ!」
と膝を叩いてそう言い出す。
「メシっ!」
続いてユウタくんも元気よく手に持つ箸を掲げ叫び出す。
「さ、若いの。ささやかじゃがわしらからの礼の気持ちだ。遠慮はいらん。たぁん食っとくれ」
黒衣と杏子は互いに顔を合わせ、次にうずうずと目を輝かせるユウタくんを見ると、勢いよく手を合わせ、
「「いただきます」」
「まーす!」
と、一斉に素麺に手を伸ばした。
*
「はい!」
縁側で一人日向を眺めていたアリスに、ユウタくんが声をかける。
「いや、わたしは……」
突然目の前に突き出された器と箸にアリスは目を丸くする。
まだ昼食を口にしていないアリスを気遣ってのことなのだろうが、如何せん、アリスは後ろめたそうに目を背ける。だが、
「受け取ってもらえないかしら」
それを見ていたおばあさんが声をかけてくる。
「綺麗な髪ね。本物のお人形みたいだわ。じゃなきゃ、お伽話に出てくるお姫さまかしら」
なかなか鋭いところを突いてくるおばあさんの指摘に内心ヒヤリとさせられるが、それについてアリスは気にした様子はなく。むしろ気にしているのはその前の言葉。
おばあさんはユウタくんから器と箸を受け取ると、アリスの隣に腰を下ろす。
「ごめんなさいね。余計なことだったら無視してもらって構わないのだけれど、もしかしてなのだけど、ゆうたが何か気に障ることでもしてしまったのかしら?」
意外な問いに、アリスはまたも目を丸くする。
「い、いや……、そんなことは……」
「そう? それならいいのだけれど」
おばあさんは少し心配そうにアリスを見る。
「あの子ね。興味を持ったことや気に入ったものにとことん夢中になる子でねえ。何故か気に入った人のことは「おじいさん」って呼ぶのよ。可笑しいわよね」
「…………」
どう返せば良いのかわからないのか、それとも単純に返事が面倒なのか、アリスは相槌を打ちもせず沈黙したまま。
「だから時々ご近所のご迷惑になることもあるの」
「迷惑?」
「ええ。そうね。例えば、人様の家の庭に入って蝉を採っていたこともあったわ。うんっっっっ……と高い杉の木に登って降りられなくなったこともあったわね。ご近所の飼い犬を棒で叩いてたこともあったかしら」
「それは……」
うん。それはなかなかの悪ガキ具合だ。
将来は満月と肩を並べる程度の不良になれるんじゃなかろうか?
「でもね。それは違ったの」
「違った? 何がだ? やはり彼奴が——ユウタが犯人ではなかったのか?」
「ふふふ……。いいえ。残念だけど、それは違うわ。さっきも言った通り、悪戯の犯人は間違いなくあの子自身だった」
「では……」
「でもね。それには全部理由があったのよ」
「ワケ……。悪戯にか?」
「ええ、そう。勝手に人様の家に入って蝉を採っていたのは、おじいさんが昆虫が好きだと言ったのも覚えていたから。杉の木に登ったのも、小さな子が飛ばした風船を取ってあげるため。犬を棒で叩いていたのも、近所の子供が怖がっているのを知っていたから」
「それは……」
「ええ。全部、誰かのためにしたことだったの」
「————」
「もちろん、やったことは決して良いことばかりじゃないわ。虫を採るにしても、もっと別の場所はあったでしょう。風船を取るにしても、まず大人に相談するべきだった。犬が怖いからと言って、それを暴力で解決なんてしようなんてのは以ての外」
確かに、その通りだ。誰かのためだからと言って、その結果他の誰かを困らせてしまったのでは意味がない。その場は凌げたとしても、結果的に多くの人に迷惑がかかってしまう。それは本末転倒というものだ。
「でもね。わたしが言いたいのは、あの子が決して悪い子じゃないってこと」
おばあさんの視線に釣られて、アリスもそちらを見る。そこには、おじいさんの膝の上で笑うユウタくんの姿。
「あの子はね、不器用な子なの。どうしようもなく不器用な子。いつも誰かのためを思って行動するけど、いつもそのやり方を間違えてしまう。そんな子なの」
「不器用、か……」
アリスは再び日向を見つめる。白く反射する陽光は眺めているだけで瞼を瞬かせ、網膜を緑色に焼け焦がす。
「だからもしあの子が何かしてしまったというのなら、あの子の保護者として、私から謝るわ。ごめんなさいね」
「ご婦人……」
「でも、できれば許してあげてほしいの。ユウタを」
アリスは押し黙る。自分よりも高齢の女性に頭を下げられて、どうすればいいのかわからないといった様子だ。
「…………」
——何か。思えばユウタはまだ何もしてはいなかった。無論何かをさせる気はない。だが、それがこの人の言う間違いだとしたら。そしてそれがわたしの勘違いなのだとしたら、それは……。
「いや。こちらこそ、すまなかった、ご婦人。高貴なる身でありながら、わたしはあの者を——ユウタを理解しようとしていなかった。出会いが悪かったという、ただそれだけの理由で」
そう言ってアリスも、自ら頭を下げる。
「許してほしい。これほどの持て成しを受けていながら、わたしは貴女たちに礼の一つも述べず、あまつさえあの子を悪だと決めつけていた」
アリスはそう、静かに述べ。
「そう。ありがとうね」
おばあさんも、そう優しく返した。
「食わねぇのか?」
「…………人間」
話を終え、おばあさんが片付けに台所へ向かった後も一向に箸を握ろうとしないアリスの隣へ、黒衣は声をかける。
「よいしょ」
「……誰が隣を許した」
「まぁそう言うなって。ここん家のそうめん、美味いぞ?」
「そんなことは聞いていない」
とは言うものの、器を示した一瞬視線が泳いだのを黒衣は見逃さない。
「……悪かったよ」
「……何のことだ」
この期に及んで気にしていないとでも言うつもりなのか。
とも思ったが、それは言わないことにしよう。
「お前のことを頭ごなしに否定したことだ。そりゃ、今でもユウタくんが俺を襲おうとしたってのは信じらんねぇ」
「……」
「でも、だからってお前の話を何も聞かずに「そう思えねぇから信じない」ってのは、やっぱ違うと思う」
どちらも、本心からの答え。
「自分がそうだと思ったことを否定されるのは辛いし、それが相手のことを思って言ったことならなおさらだ。それ——」
それになにより。
「俺はお前のパートナーだ」
「————」
「お前が俺の身を案じることが当然のように、俺がお前を信じるのも当然なんだよな」
「人間……」
「ごめんな。正直、俺はまだこのパートナーってのにいまいちピンと来てねぇんだ。中学の三年間はほぼ一人で過ごして来たようなもんだし、それまで一緒にいたのは妹や八重。最近では満月だけだ。けど、多分そういうのとも違うんだよな」
「ああ。そうだと思う」
「だよな。かと言って、俺には恋人とか彼女とか、そういうのもいた経験はないし」
「ん、そうなのか?」
黒衣の答えに、アリスはキョトンと目を丸くする。
「ああ、まぁな。ていうか、お前が前俺に言ったことだぞ。俺のこと童貞だとか言って散々バカにしてたじゃねぇか」
「む。そうだったか?」
「ああ言った。はぁ……。やめてくれよな。一応、男はその一言で結構傷つくんだからさ」
「ああ、わかったわかった。もう二度と言わんさ、童貞」
ニヤリと、最後の一言にタップリと嫌味を込めて、アリスはそう笑う。
「お前な……」
相変わらずの皮肉屋なお姫さまに、さすがの黒衣も呆れを覚える。
だが、その相変わらずに安堵する。
——少しはいつもの調子を取り戻したか。
「ま、何はともあれだ。とりあえず食おうぜ。麺が伸びちまう」
「うむ、その通りだな。美味い飯は美味いうちに食べねば。というかこれは、どうやって食すものなのだ?」
「えーっとだなぁ。まずこの麺を、このつゆに漬けてだなぁ——」
「ふんふんなるほどなぁ——」
次回、夜の時間です




