第3話『来客』
時は過ぎて陽は傾き、されど夏の暑さは幾分も和らぐことない夕暮れ時。むしろ夜に近くにつれ暑さの粘性は増し、数度程度の気温低下などなかったかのように不快感が肌を覆う。
そんな空気が出来上がりつつある午後六時過ぎ。黒衣とアリスは先導する杏子に連れられ無駄に長い学園の廊下を歩いていた。
さきほどは夏の不快感がどうのこうのとは言ったが、杏子による地獄の特訓終了の後シャワーを浴びた黒衣にさほどの不快感などなく、むしろ爽快感さえ体に感じていた。
だがそんな黒衣の胸中には、体の爽快感とは裏腹に、とある一つの疑念が芽生えていた。
曰く、優しすぎる、と。
特訓中は散々黒衣のことを罵ってくれた杏子が、特訓後はシャワールームの貸し出しから運動部用タオルの手配、さらには着替えまで用意してくれていた。
後輩思いの先輩、と言ってしまえばそれで終いの話なのだろうが、そうは問屋が卸さない。
何せ相手はあの鬼瀬杏子なのだ。本の鬼と恐れられる完全無欠の図書委員会会長にして剣道部エース。そんな恐怖の権化たる彼女が不出来な後輩である黒衣に優しくするなど、通常ではありえない。
何か、何か裏があるはずなのだ。
そう思い、黒衣は恐る恐る口を開く。
「あ、あの先輩。これ、どこ向かってるんですか?」
「んー? 言ってなかったかしら? まぁもうすぐ着くから大丈夫でしょ」
大丈夫と言われましても……。
そういえば、シャワーを浴びる前に『さすがにそのままじゃダメでしょ』などと呟いていた気も……。
「もしかして、誰かと会うんですか?」
「うーん……。まぁ、そんなところかしらね」
煮え切れない杏子の返事に疑問を感じつつ、黒衣はそれ以上何も言わずに着いていく。
「着いたわ」
そうして着いてその場所は、黒衣が普段訪れることのない場所。
扉の片隅に掲げられた表札には『学園長室』の文字。
「え……、ここって——」
思わぬ場所へと連れてこられた黒衣が尋ねるよりも先に、杏子がノックした扉が中から開かれる。
かくして、その部屋には二人の人物がいた。
一人は扉を開き一同を部屋の中へと招き入れた男性。学校には似つかわしくない執事服を着込んだ背の高い老紳士。
そしてもう一人。室内奥に配された机——おそらく学園長のものだろう大きな黒革の椅子にどっかりと座り込んだ一人の少女。
執事以上にこの厳粛な部屋には似つかわしくない、十二単にも見紛う絢爛豪華な黒の着物身を包んだその少女。
「『この世に存在する上で、最大の充実感と喜びを得る秘訣は、危険の中に生きることである』」
――ニーチェ?
「やあおはよう諸君。よくぞやって来た」
着物と同色の扇子を口元に広げ、少女は真珠色の瞳でやって来た黒衣たちを見据える。
「もう夕方ですよ、学園長」
――学園長?
「いつも言っているだろう、鬼瀬杏子よ。妾との出会いこそがつまり皆の始まりなのだと。だからこそ、妾は常に始まりの声をかけるのだと」
――なるほど。よくはわからないが、芸能人的なものでなく安心した。
そんなことを考えていると、学園長と呼ばれた少女は黒衣へと視線を移す。
「して、其方たちだな? 先日の【魔女】を退治せしめたという新たな【語り手】とその【妖精】というのは?」
まるで全てを見透かす鏡のように、少女の丸い瞳は黒衣を映し出す。
その子供らしからぬ物言いに佇まい。それに最近何度も感じた世界から僅かにズラされたような奇妙な感覚。
――つまるところ、この人は……。
「もしかしてだけど、アンタ【妖精】か?」
「ほう」
「ふん」
「へー……」
「……」
少女は俺の言葉を推敲するように片目を瞑り、アリスは何も言うことなく黒衣の言葉を肯定する。後ろの杏子は感心したように息を漏らし、桃は何の反応も示さずただ黙す。
四人それぞれが黒衣の言葉に対して異なる反応を現すが、誰一人として否定はしない。
少女は、今度は値踏みするような目つきで黒衣の全身へと視線を配らせる。
「何故、そう思った?」
「別に、特に理由なんてないさ。ただなんとなく、普通とは違うと感じただけだ」
そう。ただ、あの夜に見た【魔女】と同様の、この世あらざる異質さをこの少女にも感じただけ。
「ほう……」
真珠の瞳がジッと黒衣を見つめる。まるで星空のさらに奥、宇宙という名の深い海すら思わせる。
無論その容姿にも疑問を抱いた。見た目は厳かな着物を着ただけの子供だ。この場に似つかわしくなという意味では、確かにその通りだ。
だがそうではない。見た目がどうとか、年齢がなんだとか、そんなものじゃない。そんな上部だけを見ただけのものじゃ、この違和感は決してなかった。
そう例えるなら、あの空間――【逢魔時】。この世とは明らかに異なる世界。自分の方こそが異質であるとさえ思えてしまうあの場所と似ている。だが逆だ。【逢魔時】は自身の存在こそが違和感の塊だったが、この少女はその逆だ。この現実に存在していることこそが異質。いないはずの存在が目の前にいるというどうしようもない違和感が、そこにあった。そうちょうど、【逢魔時】を少女の形にして押し込めたような、そんな感覚だった。
そしてその感覚を、黒衣はもっとわかりやすい形で感じたことがあった。
巌のように盛り上がった麻色の筋肉。ひび割れた穴の奥に輝く野獣の眼光。鬼を思わせるあの形相に、黒衣は目の前の少女と同様のものを感じていた。
この世に存在し得ないはずの存在。にも関わらず、その異様なまでに濃密な存在感。
そしてそれは黒衣の隣――当初アリスにも感じていた感覚。この一週間、常に共に時を過ごしていたことで意識しなくなっていたが、それは【妖精】に対して感じる特有の感覚だ。
この違和感としか呼べぬものがなんなのかはわからないが、既に複数の【妖精】と接触を果たした黒衣にはそれを感覚として捉えることができていた。
「なるほど。【魔女】を退けたというのはあながち間違いではないらしい」
黒衣の意見に納得したのか、少女はパタパタと扇子を閉じてその相貌が露わとなる。
見た目同様、それはやはり幼い少女。月のように白いもち肌にほんのり朱の差した頰。簾のようにかかった前髪は、一城を治めるお姫さまを思わせる。
月――。天上より下界を見下ろす満月のような少女だと、黒衣は思った。
「なかなか面白い男だな、鬼瀬杏子よ」
「ええ、そうね。確かに、面白いという意見には賛同するわ」
大変不本意なのだが、ここは黙っておくことにしよう。
「ふむ。では歓迎しようか。【妖精】『不思議の国のアリス』、そしてその【読み手】宇佐美黒衣。ここは【妖精】と人間が手を取り合う互助組織『図書館』。世界の愛と平和を守る正義の味方だ」
「……なんだって?」
正義の味方? ヒーローショーでもやるって言うのか?
「学園長。冗談はその辺にしとかないと、話が進まないですよ」
「ふむふむ。別に妾は冗談のつもりはないのだがな」
杏子に指摘され、少女は若干不機嫌そうに口を尖らせる。
「まぁ良い。して宇佐美黒衣よ。先に其方が申した問い答えだが、正解――だと言っておこうか。其方の申す通り、妾は【妖精】。天上の都より来たれり月の姫――名を『かぐや』という」
「っ――! かぐや姫……」
「ふむ。その様子だと、一応妾のことは知っておるみたいじゃな」
知っている、なんてものではない。
竹取の翁により光る竹より出で、その美貌で多くの男を翻弄し、最後は月の使者によって月へ還ったお姫さま。『桃太郎』同様日本において知らぬものなき童話にして、日本最古の物語とも言われる『竹取物語』。その主人公『かぐや姫』。
――そんなのまでいるのか。
黒衣は驚愕する。アリスに桃太郎、茨の魔女に金太郎。そしてお次は『かぐや姫』。
知らぬ者なき童話の登場人物たち。
この一週間。こうも次から次へと【妖精】たちが現れるこの現実に、黒衣は驚きを隠せない。
それに杏子は彼女を何と呼んだ?
「自己紹介の手間が省けて安心した。ああちなみに、妾はこの学園の長も務めている」
「は?」
今、さらっと変なことを言ったような……。
「すまん。俺の聞き間違いか、今アンタの口から長って言葉が聞こえてきたような気がしたんだが」
「ふむ。聞き間違いなどではないぞ、宇佐美黒衣。妾は今、確かにそう口にしたつもりだ」
「…………」
「事実よ。彼女はこの学園の学園長。さっきそう言ったでしょ?」
無言で杏子へと視線を送るが、返ってきたのは無慈悲な返答。
「……確か、俺が見たことのある学園長ってのはもっと大人な女性だったはずだが?」
たとえ不良のレッテルを貼られた黒衣と言えど、仮にもこの学園の生徒だ。その学園の長を一度も見たことがないということなどあるはずがなく。事実黒衣は何度も学園長とされる人物を目にしたことがある。はっきりと顔を覚えているわけではないが、その人物は六十近い妙齢の女性だったはず。遠目でもわかる、歳を感じさせないキリリとした佇まいによく通る声。その女性を学園長として紹介されても何の疑いも持たない、そんな人物のはずだ。だが目の前の少女はどうだ。黒衣が知っている女性とは似ても似つかない。共通点があるとすれば、装いが和服というところだろうか。それでもその程度。顔はわからないが、身長も年齢も場違い過ぎている。たとえ黒衣が学園長を一度も見たことがなくとも、この少女を学園長だと言われて「はいそうですか」とはさすがにならないだろう。
だからだろうか。
「ほう。その女性とやらは、このような姿ではなかったか?」
目の前に現れたその女性を見て、黒衣は思わず驚きに目を見開いてしまう。
少女が立っていたはずのその場所には、さきほどまで黒衣が思い浮かべていた女性――黒衣の知る学園長の姿がそこにあった。
「……どういうトリックだ?」
突如現れた学園長――と思しき女性は扇子で口元を隠し、不敵に笑う。その声色は大人びてはいるものの、確かにさっきまで聞いていた少女――かぐや姫のものだ。
だがやはり、その女性はかぐや姫とは似ても似つかない。……いや、似てはいる。長く流れる黒髪も、羽織った着物も、相手を写す真珠の瞳も。そこにはさきほどまで目の前にいた少女の面影を多分に残していた。
そうまるで……、
「まるで、妾が成長したかのよう。か?」
くつくつと、黒衣の頭の中を覗き込んだかのように言い当て、その女性――大人へと成長したかぐや姫は笑う。
「その通りだ、宇佐美黒衣。お前の考えは正しい。妾は自身の年齢を自在に操ることができる。なに、なんてことはない、ただの【魔法】だ。大道芸の方が、まだ幾分にも面白かろうが」
そう言いつつ椅子へと座り直すかぐや姫は、いつの間にか元の少女の姿へと戻っていた。
「人の世で生きるには、こちらの姿では存外不自由も多くてな。人前では基本先の姿で過ごしている」
「なるほどな。道理で俺が知らないわけだ」
そんな力があるのなら、【妖精】が学園長として――人として生きていてもおかしくはないのかもしれない。【妖精】が歳をとるのかは知らないが、その力は人を欺くには打って付けなのだろう。
「そうは言うが宇佐美黒衣よ。其方が妾の言葉をまともに聞いていたことがあったか?」
「うっ……」
言われて黒衣は呻きをあげる。確かに、黒衣は学園の集会にもろくに出ず、出たとしてもそっぽを向いているか寝ているかのどちらかだ。だからこそ学園長の顔もろくに思えていないのだ。
――というかこの人、もしかして全校生徒のこと見ているのか?
「ふふ……。それとも何か? 其方はこのような幼子の体よりも、こちらの方が好みなのかな?」
ふよん。そんな擬音と共に、黒衣は柔らかな感触の中へと誘われる。
具体的に言うと、急に大きく膨れ上がった、かぐや姫の胸の中に――。
「んん……!?」
「ふふふ……。愛い子よな。そう頰を染めずとも、とって食ったりはせんぞ?」
――いや、そうじゃなくて。普通に苦しいんですけど!
豊かな感触の中黒衣は必死に訴えるが、その言葉は届かない。
「ぐえ――」
ただ一人を除いて。
「おいお前。誰に断ってわたしの人間で遊んでいる?」
その一人――アリスはかぐや姫に捕らえられた黒衣を引き剥がし、青筋の入った笑顔で彼女を睨みつける。
「む。まぁ確かに、宇佐美黒衣は其方の【読み手】だったな、『不思議の国のアリス』よ。すまないな。少々調子に乗りすぎた」
言われたかぐや姫は意外なほどあっさりと引き下がってしまう。
――いや別に、ちょっと惜しいなんて思っていないですけど。
「お前も! 何をそんなにデレデレとしているのだ! こんなロリなのかババアなのかわからぬ女に胸を押し付けられたくらいで!」
「い、いや、別に俺はデレデレなんてしてたわけじゃ――」
「(キ――)」
「……はい。すみません」
こうなったら何を言っても無駄だ。素直に謝っておかないと、後々面倒だ。
「ふふ……。いやあすまなんだな。妾もこちらへ来て随分と経つ故、若い者たち見ているといろいろと当てられてしまうのだ。許せ」
はぁ、と返事を返す黒衣に対して、アリスは未だ気に食わないとばかりにフンとそっぽを向く。
「長いって、どれくらいこっちにいるんです?」
「ふむ? さぁて、どれほどだったかな? セバス」
呼ばれ、部屋の脇で立っていた執事風の老人が頭を下げ、口を開く。
「今年でちょうど、五十年目にございます」
その答えに、黒衣は再び驚愕させられる。【妖精】とはそれほど昔から、そして長くこの世界に存在するものなのか。一体どれほどの【妖精】がこの世界へと融け込んでいるというのか。
何気なく聞いた質問だったが、やはり【妖精】には一般常識というものは通用しないらしい。
「それとかぐや様」
「なんだ、セバス?」
「私の名はセバスではなく沖中で御座います」
――はい?
「なんだそんなことか。そんなもの、とうの昔から知っているに決まっているだろう。どれだけの付き合いだと思っている」
「それも、今年で五十年になります」
――じゃあなんでセバスなんて呼んだ。
「セバスの方が執事らしいではないか」
――この人は何を言っているんだろうか。
「まぁ、そんなことはどうでもよいのだ」
――ええ、そうでしょうとも。
「それよりも、妾が今日其方たちを呼んだのは、一つ、言っておきたことがあったからだ」
そうかぐやが改まって言うと、徐に頭を下げる。
「礼を言うぞ、宇佐美黒衣。そして『不思議のアリス』」
これには思わず杏子も慌てて声を荒げる。
「ちょ、ちょっとどうしたのよ急に」
「急などではないぞ、鬼瀬杏子。妾は先日のあの一件より、ずっと言わねばならぬと思っていた」
先日の一件。考えるまでもなく、先週起きたあの事件のこと。
「多くの生徒が巻き込まれたにも関わらず、妾はあの【魔女】を止めることができなんだ。妾はこの学園の長だ。たとえ人の身あらずとも、たとえ仮初の【妖精】の身であったしても、そこに偽りなどあるはずがない。我が校の生徒なれば、妾の子も同然だ。その子らを救い出してくれた其方らに、一言礼を言いたかったのだ」
かぐやは未だ頭を上げず、ただ一言、
「ありがとう」
そう黒衣とアリスに向かって言った。
黒衣はなんと返せばいいのかわからない。あの時はただただ必死だった。【魔女】と戦ったのも、生徒を助けるなんて御大層な理由からではなく、ただ単に友人である八重を助けたかった。八重を惑わせる原因を取り除いてやりたかった。ただそれだけの理由で戦ったのだ。
だと言うのに礼など言われてしまうのは、なんと言うか、歯痒いものがある。
だが、やはりコイツだけは格が違ったらしい。
「何を勝手に礼などしているのだ」
無論、アリスだ。
「わたしがあの魔女と戦ったのはこの人間がそう望んだからだ。そしてこの人間も、何もお前の子のために戦ったわけではない」
「え、確かにそうだが――」
「この人間は、自分の女を守るために戦っていただけだ」
…………。
「だから、貴様なんぞに礼を言われる筋合いなど、一切合切ありはしないのだ! わかったのなら、その目障りな頭をさっさと上げろ」
アリスはそう一気に捲したて、指先をかぐやへと突き立てる。
驚いたように口をポカンと開け放つかぐやは、突き立てられた指先をしばらく眺めた後ゆっくりと顔を上げ。
「ふむ。そうか」
そう一言、納得した表情で口にする。
しかしアリスは、そのかぐやの顔を見た途端顔を赤らめ、
「行くぞ、人間っ!」
とそう言い、扉を乱暴に開け飛び出してしまう。
――はぁ……。ホント、よくわからんやつだ。
「それじゃすみません。そういうことらしいんで、俺たちはお先に」
黒衣もそんなアリスを追うように扉から出て行く。
「あ、それと。【魔女】の件は本当に気にしないでください。アリスが言ったように、俺たちは俺たちのやりたいようにやっただけですから」
それじゃ、と最後に行って、黒衣は本当に去ってしまう。
「……本当に、面白い者たちだな、鬼瀬杏子よ」
「ええ、まぁ。それには大変同感ですけどね」
「まさかあのように返されてしまうとはな。妾は求められることはあっても、突き返されることは今までなかったのだがな」
「それもまた、この世界ならではじゃないですか?」
「む? まぁ、そうかもしれぬな」
かぐやは楽しそうに、二人が出て行った扉を見つめる。
「だが、伝えたいことを一つ言いそびれてしまった」
「まだ何かあるんですか?」
「ああ。先の件と同様、また妾の『玉の枝』が反応を示してな」
「それって……」
「ああ。まだ先の件も片付いておらんというに……、
――早々に、次が来たようだ」
*
「なぁ」
長い長い渡り廊下を、アリスはズンズンと突き進む。
「…………」
黒衣の声など、聞こえていないかと振る舞うように。
「……なぁ」
「…………」
「待てって」
「…………」
「なぁ」
「うるさいぞ! どこに行こうと、わたしの勝――」
「ん」
差し出したのは、行きがけの店で買った大きなどら焼き。
「食うか?」
「っ……………………、食べる……」
*
渡り廊下の中ほどには、無駄に長い設計を考慮してか休憩所のような空間が造られていた。昼休みにはベンチの取り合いが発生するほどの学園三大ランチスポットの一つではあるのだが、今は夏休みの夕方ということもあって生徒は誰もいない。
そんな少しばかり広い空間で、黒衣とアリスは二人静に和菓子なんぞを喰んでいた。
「うまいか?」
「美味い……」
「そうか」
いつもは豪快に食べるアリスだが、今日はなぜかハムスターを思わせるもそもそとした食べ方でどら焼きを掘り進めている。
「……何故、とは聞かんのか?」
そんなアリスが、どら焼きを半分ほど食べたところで口を開く。
「聞いて欲しいのか?」
「別に、そういうわけでは――」
「じゃあ聞きたい」
「…………」
「俺のパートナーが何考えてるのか、ちゃんと聞いておきたい」
「……そうか」
黒衣がそう言うと、アリスは少しだけ口元の形を変えて、餡子の付いた口で話し始める。
「別に、大した理由ではないぞ」
「そういうのはいいから」
「……あの偉そうなちびっ子――かぐやと言ったか? あの娘が言ったな、「礼を言う」と」
「ああ」
「わたしは、あの言葉が納得できなかった。礼を言われるようなことを、わたしは何一つとやってはいないのだ」
「そんなことは――」
ないはずだ。アリスはあの戦いでは始めから、あの【魔女】と正面から争い、数千にも及ぶ【魔女】配下の【獣種】をたった一人で蹴散らしていた。杏子があの大男『金太郎』討伐に集中できたのも、黒衣が八重を追いかけることができたのも、ひとえにアリスが【魔女】を引きつけていてくれたおかげだ。
最後に【魔女】を追い詰めることができたのも、アリスがいなければ到底叶わなかった。
そんなことは黒衣も杏子も理解している。
だがアリスはそうじゃないと言う。
「なくはない。その証拠に、あの娘は、お前の元を去ってしまったではないか」
「————」
衝撃だった。
まさかアリスがそんなことを……、八重のことを気にしていたなんて、さすがに思ってもみなかった。
「わたしがやりたいようにやって、その結果誰かが救われたのかもしれない。今回はそれでたまたま学校の生徒たちが救われた。あのちびっ子がわたしに対し礼を言ってきたのも、そういうことなのだろう。それは理解している。だがわたしが言いたいのはそんなことではない」
——ああ、そうなのだろう。アリスはそう。他の誰かではなく——。
「わたしが助けたかったのは、他の誰でもない……『お前』なのだ、人間」
——ああ、そうだろう。お前はきっと、そういうやつなのだろう。
「わたしはお前の【妖精】——パートナーだ。あの時、あの場所でわたし達はそう契約を交わした。そんなお前の頼みを——『願い』を叶えられずして、何がパートナーか……」
アリスは俯く。いつもは太陽のように煌めく少女の笑顔に、今は夕暮れとは違う陰りがかかっていた。
出会って一週間。日に日に新たな一面を垣間見せるパートナー兼同居人に、黒衣は内心驚きでいっぱいになる。
――コイツも、こんなことを思うのか。
「アリス……」
こんな時、何と言えばいいのかわからない。杏子なら最もな正論を言うのだろうか。月光なら共感でもするのだろうか。それとも、八重なら――。
「…………そんな、気にすることじゃないさ。お前はあの時、俺の目的のために十分やってくれた。結果的に誰も傷付かずに済んだ。八重も、他の生徒も、もちろん俺も、みんな無事で済んだんだ。お前がいなきゃ、こうはいかなかった」
「…………そうか」
――…………こんな時、こんなことしか言えない自分に腹が立つ。
アリスはしばらくそのままでいると、唐突に――、
「ッんん!!」
ッパン――、と自分の両頬を叩いて立ち上がる。
「よしっ! 人間――ッッ」
「……お、おう」
「メシだ!!!」
勢いよく何を言うかと思えば。
「もう日も暮れる。さっさと帰ってメシにするぞ! くよくよ考えるのはその後だ!」
「っ……、おう!」
俺もアリスに倣って立ち上がると、アリスはさっさと渡り廊下を飛び降りる。
「ほら、人間。早くしないとわたしがお前の夕餉も食ってしまうぞ!」
アリスはさっきまでの陰鬱加減が嘘のように明るく笑い、茜色の日差しを浴びて走っていく。
「……たく。その夕餉を作るのは誰だって話だよ」
傾いた夕日なあっという間に山々へと吸い込まれ、夏の街に夜の帳を揺れ飾る。
今までどこにいたのか、虫の嘶きは一斉にその勢いを増し、暑く夜を耽らせる。
ただ一点、夏の夜にも負けぬ黄金色の髪だけが、夏の湿気を跳ね除け輝いていた。
あたかも世界に、ここだと主張するかのように。
そしてまた、【妖精】の夜が始まる――。
次回、白いあの子が登場です