第19話『お別れ』
「——タ。——タ。ユウタ」
「ん…………、クロエ……?」
「よかった、ユウタ。目が覚めたか」
ふわりと、微睡みの残る瞼を持ち上げ、ユウタは最初に入ってきた人物の名を呼ぶ。
すなわち、その小さな体を腕に抱く、黒衣の名を。
「あ…………」
だが一転。ユウタは思い出したように目を見開き、表情を強張らせる。
「おじい、さん……。そうだボク、おじいさんのために……。集めないと。早くしないと、おじいさんが、また、また……」
「ユウタ」
「クロエ。ボク、おじいさんを、おじいさんのために、ボクが……、ボクが——」
「ユウタ!」
焦りと混乱に取り乱すユウタを、黒衣の声が一喝する。
普段ならこのような強引な手段は取らないはずだが、今はそうも、言っていられない。
「……ユウタ。落ち着いて、俺の話を聞いてほしい」
普段とは違う黒衣の様子を感じ取ったのか、ユウタは黒衣の腕から降り、自分の足で立ち上がる。
「……どうしたの?」
不安の色に揺れるユウタに、黒衣はさきほどかかってきた電話の内容をゆっくりと告げていく。
*
暗い廊下を、三つの影が走り行く。
昼間は白く映える廊下の壁も、夜の暗がりではただただ不気味に見えて。
数メートル間隔で配置された間接照明も、今はその不気味さを煽る舞台装置にさえ思えてくる。
ただ、今の三人に、その廊下の雰囲気に怯えている暇はない。
普段なら決してやらないだろう廊下を走るという行為も、今は気にしていられない。
何より、手を握りしめるこの子が、それを許しはしないだろう。
「ゆうたっ!」
部屋に入っての第一声に応えたのは、黒衣も見知った顔。おばあさん。
そして、そのすぐ横のベッドで眠っているのは——、
「おじい、さん……?」
同じく、この二日で既知の人物となった、ユウタのおじいさんだ。
しかし、今のおじいさんの姿を、黒衣は一度たりと見たことはない。
白いベッドの上で横たわり、簡素な病院服に身を包んだ、おじいさんの姿など。
おじいさんの周りにはいくつもの機器類が置かれており、その内のいくつかは黒衣もテレビなどで見たことのあるものだ。そしてそれらは、大抵の場合こう呼ばれていた。生命維持装置と。
「……………………」
ユウタは心配そうに見つめてくるおばあさんには目もくれず、ただ何も言わないおじいさんの側へと歩いていく。
「おじいさん……」
ユウタの言葉に、おじいさんは応えない。
おじいさんはただ、口に取り付けられた機器によって一定間隔の呼吸を繰り返すばかり。
側にある心電図も、おじいさんが如何な状態なのかは教えてくれない。ただ、黒衣が素人目で見たその波形は、とても弱々しく見えていた。
「おじいさん、どうしたの、ねえ。おじいさん」
ユウタはおじいさんの腕を握り、強く揺する。
だがおじいさんに反応はなく、ただ無機質な呼吸音を続けるばかり。
「おじいさん。おじいさん。おじいさん」
幾度も、幾度もユウタはおじいさんへと呼びかけるが、反応が返ってくることはない。
「少し前に一度、目を覚ましたんです」
そんなユウタを見つめながら、おばあさんがぼそりと、まるで独り言のような声で話し出す。
「おじいさん。目を覚ますなり『ゆうたはどこだ。大丈夫か』、ですってって。よっぽどユウタのことが心配だったみたい。今自分が、どんな状態なのかも知らずに……」
話すほどに、おばあさんの声は消え入りそうに細くなる。
「さきほどお医者さまが来て…………、もう、永くはないって。……たぶん、朝は迎えられないだろうって…………」
おばあさんの目尻に、涙が浮かぶ。だが決して泣くことはなく、ただ側からおじいさんを呼びかけるユウタを見つめている。
「……………………」
*
「——ユウタが?」
黒衣と杏子が自宅を出た直後。
『ええ。今確認したらどこにもいなくて……。もしかしてあなたのところに行ったんじゃないかと』
「……ええ。わかりました。多分ですけど、ユウタがどこにいるか知ってるんで。だから俺に任せておいてください。見つけ次第、ユウタをそちらに連れて行きます」
『ありがとうございます。でも、連れて来て欲しいのは自宅にじゃないの。それが——』
「病院? ですか?」
『ええ。実は————』
*
「……………………」
数刻前のことを思い出し、黒衣は奥歯を噛む。
込み上げてくるのは、いくつかの後悔。
どうしてという、後悔の念。
どうして、ユウタをもっと早く連れてこられなかったのか。有無など言わさず、ユウタの正気が戻った瞬間にここまで走っていられれば、間に合ったのではないか。
どうして、自分はこんなにも無力なのか。【魔法】などという力を手にしても、未だ自分は無力ではないか。何が【魔法】だ。何が奇跡だ。こんな力、いくらあったって、誰一人、救えやしない。
握った掌に、キリキリと爪が食い込んでいく。痛いほどに、深く。いっそこのまま血の一滴でも流してしまえば、少しは頭の血が引くだろうにと、そんなことさえ思ってしまう。
そんな黒衣の震える拳を、そっと誰かの手が触れる。
柔らかく、蒸し暑いこんな夜でも触れていたと思える、暖かい手。
「顔を上げろ、クロエ」
その真っ直ぐな声に促されるように、黒衣は顔をあげる。だがその視線は声の主——アリスへと向けられる。
自分の名前を呼ぶ、アリスの方へ。
「後悔もあるだろう。やりきれない思いもあるだろう。だがそれでも、今は顔を上げろ。顔上げ、しかと見届けろ。華々しくとはいかずとも、何もしてやれずとも、精一杯生きた御仁の最期を、しっかとその両の目に刻め。それが今のお前にできる、御仁へのせめてもの手向けだ」
言う間も、アリスはおじいさんから目を背けない。
しっかりと、真っ直ぐな碧の瞳をおじいさんへと向け、たった二日程度しか知らぬおじいさんの人生を汲み取るかのように、ただ見つめ続ける。
「…………。…………ああ」
そんなアリスに倣い、黒衣もおじいさんへと視線を向ける。
触れる掌を、ほんの少しだけ——二本の指だけを——握り返して。
どれほどの時間が経ったのか。今の黒衣にはわからない
その変化に、室内にいる全員が反応する。
「…………ゆうた……?」
ぼそりと、くぐもった声が静寂の室内に響く。
おじいさんが目を覚ましたのだ。
「おじいさん、おじいさん!」
ユウタが大声でおじいさんを呼び。その声に、おじいさんも安心したように笑みを浮かべる。
「ゆうた……、そこにいたか……」
おじいさんはどこか彷徨うように、手を空へと伸ばす。その手を、ユウタが両の手で握り返す。
「……俺、先生を——」
我に返った黒衣が医者を呼びに部屋を出て行こうとするが、握った手をキュッと締めて、アリスがそれを制止する。
驚き見つめ返す黒衣に、アリスは首を横に振る。
「っ、…………」
その意味を察し、黒衣は廊下へ向いていた足を元に戻す。
「おじいさん……」
「ゆうた……。ちゃんと、飯は食ったか」
「うん」
「そうか……。……儂が一緒じゃなくても、ちゃんと風呂は入れたか」
ふるふると、ゆうたは首を横に振る。
「なんだまだか……。ちゃあんと入らないにゃいかん。ちゃあんと肩まで浸かって、百まで数えてな」
「……うん」
「ゆうた……、友達はできたか?」
「……クロエが、いるよ」
「……そうか。……ゆうた。友達を作りなさい。一人が好きでも、嫌いでも、ずぅっと一人でいちゃあいかん。たくさんじゃなくてもいい。百人じゃなくてもいい。大切だと思える友達を、少しでもつくりなさい」
「……うん。つくる。つくるから、おじいさん……」
「黒衣くんは、おるかね……」
「おじいさん……」
呼ばれ、ベッドへと近づく。
「ああ、よかった。君がいてくれて。君には、お礼を言わねばならん」
「お礼なんて……」
言わなくてはいけないのは、こちらの方だと言うのに。
「君がゆうたの友達になってくれて、儂は安心したんじゃ。ずっと友達の一人もつくらなかったこの子のことが、儂は心配じゃった。…………だから、ありがとう。黒衣くん」
「そんな……。お礼を言わなくちゃいけないのは、俺の方で……」
「そうか……。そう思ってくれてるなら、一つ、頼まれてはくれんかね」
そう言うと、おじいさんはユウタのいる方へ向く。
「この子を——ゆうたを、頼まれちゃくれんかね」
「え——」
「たぶんこの子は、君らと一緒にいる方がいいのだと、そう思うんじゃ。事情を知らぬ儂ら年寄りよりも、君らの方が」
思わぬ申し出に、黒衣は目を丸くする。
「不躾な願いなのはわかってる。だがどうか、年寄りの末期の頼みと思って、聞いちゃあくれんかね」
声は呼吸器のマスクでくぐもり、弱々しく掠れている。それでも、その言葉の内にある真摯な思いは、決して掠れることなく黒衣へと届く。
「はい。……はいっ。俺なんかでよければ……、任せて、ください……!」
思わず涙が込み上げてくる黒衣に、おじいさんはニッと、安心したように笑顔をつくる。
「……ばあさん」
「はい。ここにいますよ」
「……苦労を、かけたね」
「何をいまさら」
「……それも、そうだなぁ」
けらけらと、まるで子供のように、二人は笑う。
「……ばあさん」
「はい」
「……いままで、ありがとうな」
「いいえ。こちらこそですよ」
「……ああ。楽しかったよ。……儂は、できた家内と、かわいい孫に囲まれて、いい、人生だったよ」
息も絶え絶えに、もはや指一つとて満足には動かせないだろう。だがおじいさんは、それでも確かに、はっきりとそう言って、皆に笑う。
この場にいる誰よりも、生き生きと。
「ああ……。ゆうたはいるか……」
「うん、いるよ。……ここに、いるよ」
「そうか……。そうか……。それは、よかった……」
その数分後。無機質な電子が病室に鳴り響く。
やたらと大きく聞こえる電子音の中。おじいさんは眠るようにして、息を引き取った。
最期の最後まで、笑顔のままに。
次回、まだまだ夏は続きます。




