第10話『間違い』
「ただーいま」
自宅に着いて第一声、黒衣は帰宅を告げる声をぼそりと呟き、敷居を跨ぐ。
「…………」
いつもは自分の声の後、何をそんなにと言いたくなるようなでかい声が玄関口に響くのだが、今は当然、その声はない。
そんなわずかな無音さえも今は気になってしまっていて。たった一週間余り。されど一週間だったことを思い知らされる。
「くろ」
そんなことを感じながら玄関を上がると、ふと自分を呼ぶ声に顔をあげる。
「ただいま。姉さん」
黒衣を出迎えたのは、一人の女性。
真っ直ぐ伸びた黒髪に、黒衣に似た切れ長の双眸が特徴のその女性。
黒衣の従姉弟にしてお姉さま——流郷綺亜羅。
帰宅した黒衣を出迎えるキアラだが、そのシンとした様子はどうも暖かいお出迎えというわけではないらしい。
「ただいまじゃないぞくろ。お前、一体今何時だと思っている」
「今……?」
言われて黒衣は時計を確認する。
時間はすでに、夜九時を回っていた。
「ああ、もうこんな時間だったのか」
「こんな時間て……。まさか気が付かなかったのか?」
「…………ごめん」
「別に、それについてはとやかく言うつもりはないが……」
明らかに普段とは違う黒衣の様子に、キアラもどこか心配げな眼差しを向けていてる。
「ま、とにかくだ。門限がどうとか口うるさいことを言う気はないが、一応あたしはあんたの担任で、保護者だ。だからあんまり心配かけるようなことは——」
「うん。ごめん、姉さん」
食い気味に、黒衣は返事を返す。まるでキアラの言葉を遮るようにして。
いつもなら適当に返事をしてめんどくさいのどうのと言い訳がましいことを黒衣が宣い、キアラがそれをさらに嗜めるといった流れになるはずなのだが、今日はどうも調子が狂う。
「……それで、今日の肴はなんだ? こんな時間まで晩飯を待たされていたあたしは腹が減りに減って、そろそろ腹と背中がくっつきそうなんだが」
キアラはさすさすと、その見惚れるほど割れた腹筋をさすり、わかりやすい空腹のジェスチャーで報せてくる。
「その割にはなかなか酒が進んでるみたいだけど?」
黒衣は腹をさすっている逆の手に握られたビールの缶を見逃さない。
「缶ビールなんてまだ飲んだうちに入らないよ」
「三本も空けといてよく言うよ」
「何を言う。焼酎もあるぞ」
「はいはい」
教師の仕事はよく熟しているというのに、家ではこうもダメ人間になってしまうのはなぜなのだろうか。
今でもそうだ。酒のこともそうだが、その見た目。もう何年も着古したヨレヨレのジャージに、どこで買ってきたのかもわからないクソダサTシャツ。それも黒衣の見た感じだと、どうもあれはノーブラだ。まさか下は脱いでいないだろうな。
「はぁ……。まったく。その酒グセの悪さと身なりさえなんとかすれば、嫁の貰い手だって現れるだろうに。素材はそれなりにいいんだからさ」
残念美人とは、まさに姉さんみたいな人のことを言うのだろう。
「何を言ってる。大人になったら、お前が結婚してくれるんだろう?」
「一体いつの頃の話してるんだよ……」
子供の頃にした恥ずかしい約束。今でも覚えているのはすごいと思うけど、それが原因で女として怠けているのだとしたら、なんだか申し訳ない気持ちになる。
これは責任持って姉さんを更生させるべきなのだろうか。
「で、結局今日の晩飯はなんなんだ?」
「ああ。今日は鍋だよ」
そのための具材を買うためにも寄り道をしていたのだが。
「は? ……鍋? この真夏にか? それはまた酔狂な」
だが姉さんが示したのは意外な反応。
「そんなに変かな? 鍋は春夏秋冬いつ食べても美味い日本の伝統的な料理だし。夏バテしやすい時期だからこそ熱いものを食べて精力を付ける、なんて話もよく聞くと思うんだけど」
「だからって何でわざわざ鍋て……」
どうもこの選択を姉さんはあまりお気に召さないらしい。
「今朝何でもいいって言ったのは姉さんだろ。それに、このリクエストしたのはアリスで——」
しまったと思った。
アリスの名前をここで出したこともそうだし、なにより思わず言葉を詰まらせてしまったことも。
「ん? そういえばあの子はどーしたんだ?」
「…………」
「一緒じゃないのか?」
「…………」
「…………そうか」
二度の質問にも答えない黒衣に何か察したのか、キアラは一人食卓へ腰掛け、持っていた缶ビールの残りをグビッと飲み干す。
「ま。何があったのかは聞かないけどさ。聞いたところで、あたしには優しい言葉の一つもかけられやしないからね」
期待していたわけではないとはいえ、その姉の無情な物言いに、さらに心が沈んでいく。
「ただ一つ。無責任な助言をするとすれば……、さっさと謝りな」
「謝る……、俺の方が?」
「自分は悪くないって物言いだな」
「っ……」
ズバリ言い当てられて黒衣はまたも押し黙る。
「別に、あたしはどっちとも言いはしないさ。あんたたちの事情なんて詳しく知らないんだしね」
黒衣はキアラにアリスとの関係を話してはいない。アリスが戻ってきた終業式のその日、「住むところがないから住まわせてほしい」なんて適当なことを言ったらそのまま同居を許してくれたのだ。
その際、「責任はしっかり取るんだぞ」なんてことを言われて気がするが、当然スルーしておいた。
「ただ、ケンカってのはどっちに非があるかないかなんてことは大した問題じゃない。ケンカをした時点で、それはもうお互い様。どっちが正しいか間違ってるかなんてのは二の次三の次なのさ」
「でも——」
「そりゃ」
「だっ——!?」
黒衣が反論しようとした矢先、カウンター気味のデコピンを入れられる。
「でももへったくれもあるもんか。どんなに立派な理由であれ、そんなものは関係ないって話だ。どんな高尚な大義名分があろうと、ね」
——そうなの、かもしれない。
黒衣はキアラの言葉に、内心で頷くのを感じる。
「それに、そいつはあたしに言うようなことじゃない。あの娘に言うことだろ」
「アリスに?」
「ああ。だが、まず最初に言うことは至ってシンプルな一言。「ごめんなさい」。ただそれだけだ」
「…………」
「なにより、男が女の子を泣かせたんだ。だったら、それはもうあんたが悪いに決まってる」
「結局、悪いのは俺、なんだよな」
「ああ。そりゃそうだ。それがわかってるんなら、さっさとあの娘捕まえて謝りな。それでお互い許せたなら万々歳。それができなきゃまたケンカして、そんでもってまた謝りな。それが喧嘩両成敗ってもんだ」
「そういう、もんなのかな」
「そういうもんだ。ほら。これ以上遅くなる前に、とっとと行って、さっさと帰ってきな。そしたらみんなで、鍋パーティーだ」
最後にニッと、キアラは笑う。
「うん。……うん。ごめん、姉さん」
「はっ。何度言わせんだ。謝るのはあたしにじゃないって言っただろ」
「うん、ごめん! じゃ、姉さん。俺またちょっと行ってくる」
黒衣は家に帰って五分もせぬうちに、再び外出のため玄関へと向かう。
「あ——、と。ちょっと待ちな」
のだが、送り出したはずのキアラに呼び止められてしまう。
「——姉さん、俺急いで——」
「うっかり忘れてた。そういえばあんたに、来客だ——」
キアラに言われ向かった先——居間からすぐそこにある自分の部屋。
そこにいたのは——、
「先輩……?」
「あら、黒衣くん。随分と遅い帰りなのね。待ちくたびれたわよ」
そこにいたのは既に幾度と見た眼鏡美女。
意外にも本日は初の対面となる天下無敵の委員長。
——鬼瀬杏子だった。
次回、ナンパなんてしたことねーよ




